庭園と雲龍図で有名な嵐山が誇る世界遺産
臨済宗天龍寺派大本山。室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建、京都五山第一として栄え現在は世界遺産。
夢窓疎石作の曹源池庭園は日本初の国の史跡・特別名勝に指定、八方にらみの雲龍図も有名。
春のしだれ桜や秋の紅葉も見事
天龍寺のみどころ (Point in Check)
天龍寺は京都屈指の観光地として知られる嵯峨嵐山に建つ禅宗寺院で、臨済宗天龍寺派大本山。
元々平安初期には嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が営んだ檀林寺があった場所で、鎌倉時代に後嵯峨法皇が「亀山殿」を造営、後に曾孫にあたる後醍醐天皇に伝領されましたが、その後荒廃していたといいます。
1339年(歴応2年)、室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石を開山とし「亀山殿」を禅寺に改めて勅願寺としたのが「天龍寺」で、足利幕府の下で室町時代には京都五山の第一位として発展します。
その後「応仁の乱」や「禁門の変」など度重なる火災や戦禍に遭いますが、その都度再建されており、現在の伽藍は1899年(明治32年)以降に再建されたもの。
創建当時の面影を唯一残すのが方丈裏の「曹源池庭園」で、開山・夢窓疎石の作庭。
亀山や嵐山を借景に貴族文化の伝統と禅文化が巧みに溶け合った池泉廻遊式の名園で、日本で最初の史跡・特別名勝に指定されました。
他にも1997年(平成9年)に加山又造によってが描かれた法堂天井の「雲龍図」は八方睨みの龍として知られ、見どころの一つです。
自然も豊かで紅葉・桜の名所として有名なほか、近年整備された百花苑では四季折々の草花が楽しめ、また夏には勅使門のすぐそばにある「放生池」にて蓮の花も楽しめます。
1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として、ユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産にも登録されており、嵐山では唯一の世界遺産となっています。
室町幕府を開いた足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立
天龍寺は足利尊氏を開基、夢窓疎石を開山として、後醍醐天皇の菩提を弔うために建立されました。
天龍寺の創建以前
元々天龍寺のある場所には、平安初期には檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が開創した「檀林寺」がありました。
檀林寺が廃絶した後、鎌倉時代に入ると後嵯峨上皇が仙洞御所を造営、続いてその皇子である亀山上皇が仮の御所を営み「亀山殿」と称します。
ちなみに「亀山」とは天龍寺の西にある小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることからこの名でも呼ばれ、天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなんでいるといいます。
天龍寺の創建
1339年(暦応2年・延元4年)、室町幕府を開いた足利尊氏は、同年吉野で崩御した後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった「亀山殿」を禅寺に改めました。これが天龍寺のはじまりです。
ちなみに後醍醐天皇は後嵯峨上皇の曾孫、亀山上皇の孫にあたります(後嵯峨→亀山→後宇多→後醍醐)。
尊氏は後醍醐天皇の開始した「建武の新政」に反発して天皇に反旗を翻し、これに対し後醍醐天皇も尊氏追討の命を出した、いわば敵同士でした。
にも関わらずその後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、開山で当時武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石だったといいます。
寺号
当初は当時の年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったといいます。
しかし尊氏の弟・足利直義が寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたといわれています。
天龍寺船
当初は建設のための資金に苦慮したといい、資金調達のために元冦以来途絶えていた中国(明)との貿易を再開し「天龍寺船」という貿易船が営まれたことは有名な話です。
しかし対明貿易により利益を上げることができ無事完工。落慶供養は後醍醐天皇七回忌にあたる1345年(康永4年)に行われました。
京都五山の第一位としての繁栄と焼失と再建の歴史
京都五山の第一位として繁栄
天龍寺は1386年(至徳3年)に第3代将軍・足利義満により京都五山の第一位(別格の南禅寺に次ぐ位置づけ)として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なものだったといい、かつては名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園なども境内地で、150以上の塔頭が建ち並んでいたといいます。
度重なる戦禍・火災による焼失と再建
かつては広大な寺域と壮大な伽藍を有していた天龍寺ですが、創建以来8度にわたる大火を経験しており、創建当時の面影はとどめているのは方丈の西側にある夢窓疎石作の特別名勝・史跡「曹源池庭園」のみです。
室町時代には1356年(延文元年)、1367年(貞治6年)、1373年(応安6年)、1380年(康暦2年)、1445年(文安2年)、そして1468年(応仁2年)の「応仁の乱」と計6度の焼失を経験し、応仁の乱や足利家の没落などもあり一時期衰退しますが、1585(天正13年)に豊臣秀吉の寄進を受けて復興を遂げています。
その後はしばらくは平穏な時期が続きますが、江戸後期の1815年(文化12年)に再度火災に遭い、さらに幕末の1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」では、長州軍の陣所となったことから甚大な被害を受けました。
明治以降
現在の伽藍の大部分は「禁門の変」の後、明治後半以降に再建されたものです。
1869年(明治2年)滴水宜牧らが復興に努め
1899年(明治32年)に法堂、大方丈、庫裏の再建
1924年(大正13年)に小方丈(書院)の再建
1934年(昭和9年)に多宝殿の再建
1935(昭和10年)、元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立され、ほぼ現在の寺観が整えられました。
なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3つの塔頭寺院は「禁門の変」の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川時代の建築物が残っており、また後嵯峨、亀山の御陵も東西本願寺によりいち早く再建され、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっています。
日本で最初の史跡・特別名勝「曹源池庭園」
創建当時の面影を唯一残す遺構でもある方丈裏の「曹源池庭園」は開山・夢窓疎石による作庭です。
亀山や嵐山を借景に、貴族文化の伝統と禅文化が巧みに溶け合った池泉廻遊式の名園で、日本で最初の史跡・特別名勝に指定されました。
八方睨みの龍として知られる法堂天井の「雲龍図」
1997年(平成9年)に加山又造画伯によってが描かれた法堂天井の「雲龍図」も見どころの一つです。
土日祝、および春と秋の特別公開時には平日も拝観可能です。
しだれ桜の名所
天龍寺は桜の名所としても有名で、境内や参道の多くでソメイヨシノ、八重桜、山桜など約200本が見事な花を咲かせます。
中でも後醍醐天皇を祀る多宝殿前から望京の丘にかけての一帯には多数の枝垂桜があり、望京の丘からこれらの枝垂桜を見下ろす眺めは息を飲む美しさです。
その他にも百花苑や桜のピンクで色鮮やかな嵐山を借景とした曹源池庭園と桜の競演も必見です。
京都でも指折りの紅葉の名所
境内の至る所でカエデやツツジ、サクラ、そしてハナミズキなどの木々が紅葉し、無料拝観エリアでも参道途中の天龍寺庭園や庫裏前などを中心に色鮮やかな紅葉が楽しめます。
中でも特に見事なのが池泉回遊式の曹源池庭園。紅く染まった嵐山を借景に様々な角度から美しい庭園が楽しめます。
四季折々の草花が楽しめる百花苑
曹源池の北側には1983年(昭和58年)に北門を建立した際に同時に整備された「百花苑」があります。
自然の傾斜に沿って苑路が作られ、桜や紅葉のほか、アジサイやミツバツツジなど、文字通り四季折々のたくさんの草花が楽しめる場所になっています。
「放生池」に咲く蓮
夏に境内東側の勅使門のすぐそばにある「放生池(ほうじょうち)」に咲く蓮も、有料拝観エリアではないこともあり、おすすめの一つです。
天龍寺七福神と節分会
毎年2月3日の節分の日、天龍寺では境内の塔頭7つを巡ってお札を受ける「七福神めぐり」が開催されています。
一般的な七福神と異なり、恵比須神・大黒天、弁財天、毘沙門天、福禄寿のほか、寿老人と布袋の代わりに稲荷と不動明王が加わっているのが大きな特徴。
3回の豆まきのほか、甘酒・樽酒の無料接待も行われ、福を求めて詰めかける多くの参拝客でにぎわいます。
天龍寺の施設案内
京都屈指の観光地として知られる嵯峨嵐山に位置し、かつては観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども天龍寺の境内地で、150以上もの塔頭寺院が立ち並んでいたといいます。
総門は桂川に架かる嵐山のシンボル・渡月橋から北へ続く長辻通に面してあり、嵐電嵐山駅のほぼ向かいにあるため、いつも観光客が絶えない賑やかな場所。
そのやや南側にも寺号標のある参道があり、車はこちらから出入りすることになります。
総門をくぐって西へまっすぐ進んでいくと中門、そして塔頭寺院を経て参拝受付のある庫裏へと向かうことができるのですが、このように境内東端に総門・勅使門および中門があり、参道・および主要伽藍が西へと続く伽藍配置は、通常の禅宗寺院が原則として南を正面に南北に主要伽藍を並べているのに比べると独特の形といえます。
塔頭寺院の立ち並ぶ参道を経て、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などの伽藍がありますが、度重なる火災に遭っておりいずれも明治期になってからの再建。
方丈の西側には史跡・特別名勝の曹源池庭園があり、嵐山・亀山を借景に園内には豊かな緑が広がっています。
そしてその北側には四季折々の花が楽しめる百花苑が近年整備されたほか、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵があります。
また百花苑の北側にある北門は有名な竹林の小径に面しており、こちらの門から入場することも可能です。
現在の塔頭寺院は全部で11あり、このうち9つは北側か南側の参道沿いにありますが、宝厳院は境内のすぐ南側、金剛院は長辻通を挟んで総門の向かいにあります。
総門~参道
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石標
嵐電嵐山駅の向かいにあり、石標には「大本山天龍寺」と刻まれている。
すぐ北にある総門をくぐって西にまっすぐ伸びる参道と並行する形で伽藍の中心へと向かう道が続くが、こちらは車も通れるようになっており、少し進んだ先は駐車場の受付入口もある。
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看板
石標のある出入口の右側にある天龍寺の看板で、同じく左側にある看板と内容は全く同じ。
「臨済宗 大本山 天龍寺」と「世界文化遺産 史跡・特別名勝 曹源池庭園(第一号指定)」という表記のほか、その英訳も付記されている。
周辺はツツジの生垣になっており、4月から5月にかけて色とりどりのツツジが見事な花を咲かせる。
看板の前には「史蹟及び名勝 天龍寺庭園」の石標が建つ。
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看板
石標のある出入口の左側にある天龍寺の看板で、同じく右側にある看板と内容は全く同じ。
「臨済宗 大本山 天龍寺」と「世界文化遺産 史跡・特別名勝 曹源池庭園(第一号指定)」という表記のほか、その英訳も付記されている。
周辺はツツジの生垣になっており、4月から5月にかけて色とりどりのツツジが見事な花を咲かせる。
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総門
境内の一番東、渡月橋や嵐電嵐山駅に面する長辻通沿いにある山門。
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案内図
総門の左横にある周辺案内図。右下にJR西日本のロゴが記されており、JR嵯峨嵐山駅やトロッコ嵐山駅まで割と広範囲がカバーされている。
また天龍寺の塔頭を含めた案内図も併載されている。
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参道
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中門(ちゅうもん)
総門をくぐって少し進んだ先にある門で、禅宗様の四脚門で本瓦葺・切妻造。
桃山時代、慶長年間(1596-1615)の建築で、勅使門とともに寺内でも古い建築物の一つ。京都府指定文化財。
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参道
大きな石標のある側の参道で、歩行者と車の両方が通ることができ、駐車場への入口にもなっている。
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駐車場受付
車で参拝に訪れた場合、このゲートを通って境内へと向かうことになる。
建物の左端には天龍寺の境内案内板が置かれている。
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勅使門(ちょくしもん)
境内の東側、中門のすぐそばに位置。1613年(慶長18年)頃に後水尾天皇の即位に合わせて建てられた慶長内裏の御門を1641年(寛永18年)に移築したもの。
桃山時代の建築様式を伝える本瓦葺・切妻造の四脚門で、寺内最古の建築物として1988年(昭和63年)4月に京都府の文化財に指定。
勅使(天皇からの使者)が参向する時のみ開かれた。
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道標
放生池と勅使門の間にある道標で天龍寺の本山(曹源池庭園)と坐禅会が開催される友雲庵、それに各塔頭寺院の方向が示されている。
すぐ右手の勅使門前は広いスペースで一般車両の駐車場になっている。
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放生池(ほうじょうち)
中門をくぐってすぐ、勅使門のそばに位置する池。約1000平方メートルの池の中央には石橋が架かる。
天龍寺前庭の中心をなし、7月から8月にかけては池一面がピンク色の蓮の花で覆われる見事な景観が広がる。有料エリアではないため自由に観賞可能。
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蓮
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参道
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天龍寺前庭(天龍寺庭園)
勅使門から放生池を経て法堂へ至る参道のに沿って続く前庭で、方丈裏庭(曹源池庭園)とともに国の史跡・及び特別名勝に指定。
多くのカエデが植えられており、秋は紅葉も美しいことで有名。
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朱印所(休憩所)
曹源池庭園や受付のある庫裏へ向かう石段の手前左側にある休憩所。
休憩できる椅子があるほか、朱印所も兼ねており、お守りなどの授与品もここで求めることができる。
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自販機
休憩所(朱印所)の隣りにあり、手前にはベンチもある。
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法堂(選仏場)(はっとう)
七堂伽藍の一つ。法堂とは、僧侶が仏に代わり仏教を講義(説法)する建物の事で、仏殿としても使用されている建物。禅宗以外では「講堂」とも呼ばれる。
1864年(元治元年)に禁門の変(蛤御門の変)の兵火で焼失後、明治期に江戸後期建造の雲居庵の禅堂を移築し再建。寄棟造・浅瓦葺。
堂内の正面須弥壇には本尊・釈迦三尊像(釈迦如来坐像・文殊菩薩坐像・普賢菩薩坐像)を安置し、後壇には光厳上皇および歴代住持の位牌、更には開山・夢窓疎石像や開基・足利尊氏像などが祀られている。
天井の加山又造筆の八方睨みの「雲龍図」も見どころ。通常は土日祝のみの公開だが、春・夏・秋の特別公開時には毎日公開される。
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雲龍図(うんりゅうず)
法堂(選仏場)の天井に描かれている雲龍図。
1899年(明治32年)に鈴木松年によって描かれたが、損傷が激しかったため、1997年(平成9年)に開山夢窓国師650年遠諱記念事業として日本画家・加山又造(1927-2004)筆の「雲龍図」が新しく描かれた。
縦10.6m・横12.6mの天井に設けられた直径9mの二重円相の中に、躍動感あふれる八方睨みの龍が墨色で描かれている。
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廊下橋
法堂と唐門の間をつなぐ回廊の途中に架かる。
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唐門
法堂の西側に位置。
門と法堂との間には両者をつなぐようにして回廊と廊下橋が架けられている。
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参道
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道標
法堂(選仏場)の手前左(南側)にある道標で、曹源池庭園や坐禅会の行われる友雲庵のほか、各塔頭寺院の方向が示されている。
この道標の右奥、法堂の南側が駐輪場になっているほか、この道標を左折して南へ進んだ大堰川(桂川)の手前、時雨殿の向かいに公衆トイレがある。
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門
「友雲庵」と「国際総合研究所」の表札が掲げられている。
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友雲庵(ゆううんあん)
曹源池の南、天龍寺の研究棟・精耕館のそばにある。
毎月第2日曜日に「坐禅会」の体験や禅の講義(いわゆる法話)である「提唱」を聞くことができる(無料・予約不要)。
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禅堂(ぜんどう)
曹源池の南側、「友雲庵」と「国際総合研究所」の表札が掲げられている門をくぐって右手にある建物。
禅を修行するための僧堂。
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精耕館(国際宗教哲学研究所)(せいこうかん)
2000年(平成12年)に開山・夢窓国師650年遠諱記念事業として設立された天龍寺国際宗教哲学研究所。
いわゆる研究棟で宗教哲学書を中心に古文書などを収蔵するほか、研究者により海外向けの出版物も発行している。
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ソ連抑留死没者の石碑
庫裡へ続く参道の北側、八幡社と飛雲観音へと向かう石段の右手に建つ石碑。この右手奥に「ソ連抑留死没者慰霊碑」がある。
「第二次大戦後ソ連に抑留中死没した諸霊この奥に眠る」と刻まれている。
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八幡社(はちまんしゃ)
庫裡へ続く参道の北側、塔頭・松巌寺の西にある八幡大菩薩を祀る天龍寺の総鎮守社。
1344年(康永3年)に開山・夢窓国師が見た霊夢により建立。天龍寺十境の一つ「霊庇廟(れいひびょう)」として、元々は亀山山頂に祀られていたが、1875年(明治8年)に現在地に移された。
朱塗りの鳥居と社殿が特徴的な建物で、秋には鳥居前の紅葉が見事。
ちなみに天龍寺十境とは国師が定めた境内の美しい10の景色のことで「普明閣」「絶唱谿」「霊庇廟」「曹源池」「拈華嶺」「渡月橋」「三級巌」「万松洞」「龍門亭」「亀頂塔」を指す。当時は嵐山全体が境内だったこともあり、広範囲に渡っている。
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飛雲観音(ひうんかんのん)
庫裡へ続く参道の北側にある、飛雲に乗って空を旅する人々を守護する観音像。
世界平和と航空安全の本尊として1980年(昭和55年)9月に東京芸術大学教授・西村公朝の手により制作された。
国籍宗教の別なく回向するために十字架を掲げており、胎内には般若心経3万巻が奉納されているという。
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ソ連抑留死没者慰霊碑
「第二次大戦後ソ連に抑留され不帰の客となったはらからの霊とこしえに眠りませ」の表題の下、次のように刻まれている。
「チタ州フカチャーチャ収容所から帰還した我らは昭和44年10月10日ようやく同収容所で永眠した千余柱の英霊を初め、ソ連地区抑留死没者並びに帰還後死没者の合同葬儀をここ天龍寺にて執り行うことができた。
いま我らは、これら同胞の遺品と過去帳をここに納めて世界の永遠の平和を念じつつこの碑を建てる。 昭和46年10月9日 ヤゴタ会」
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忠魂碑
八幡社と経堂の間ぐらいに建つ石碑。
1935年(昭和10年)の建立。
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夢窓櫻
忠魂碑の前に石碑が建つ。
「高円宮両殿下お手植え」とある。高円宮(たかまどのみや)は昭和天皇(1901-1989)の甥にあたる憲仁親王(1954-2002)が1984年(昭和59年)に創設した宮家。
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経堂(きょうどう)
庫裡へ続く参道の北側にある。
経堂とは寺の経典を納めておく建物のこと。
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鐘楼(しょうろう)
庫裡へ続く参道の北側にある。
東山の寺院に比べるとあまり知られていないが、大晦日の夜には除夜の鐘を撞くことができる。
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僧堂南門(そうどうみなみもん)
修行僧(雲水)が寝食を共にする天龍寺の専門道場の南側の門。
一般参拝客は入場できない。
有料拝観エリア
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石段
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庫裏(くり)
七堂伽藍の一つで、台所兼寺務所の機能を持つ建物。1899年(明治32年)の再建。
切妻造の屋根の下に大きな三角形の白壁を正面に見せる装飾性の強い外観で、入口玄関に置かれている達磨図の衝立とともに天龍寺の景観を象徴する建物となっている。
また堂内は有名な曹源池庭園のある方丈や客殿と棟続きになっており、玄関入口の所には有料エリアの拝観受付も設置されている。間近で見ると気付きにくいが、屋根の上には煙出しの櫓も設置されている。
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式台(しきだい)
庫裏の玄関の左隣に位置。式台とは武家屋敷などにおいて表座敷と玄関の間にあって取次の儀礼などが行われたり、家来が控える部屋のことをいう。
玄関先で来客が地面に足をつけることなく籠に乗れるように設けられた1段低い板敷き部分である「敷台」に由来するという。
現在部屋の中には住職が宮中参代や登城、あるいは寺院行事の際に現代の公用車のように使用したという江戸時代の「朱塗り網代駕籠(寺駕籠)」が展示されている。
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鬼瓦
本堂横に飾られている
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庭園参拝受付
庭園のみ拝観できる受付
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庭園参拝入口の門
庭園への入口。こちらから入場すると方丈などの本堂の建物内の拝観をすることはできない。
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石庭
庭園参拝入口の門をくぐって左手、曹源池庭園とは反対側の大方丈の東側に広がる石庭。
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苔庭
庭園参拝入口の門をくぐる大方丈に沿って南へと進み禅堂の前にある円形の庭。
小葉提灯苔(こばのちょうちんごけ)・馬杉苔(うますぎごけ)・細葉翁苔(ほそばおきなごけ)などの苔のほか、バラ科の下野(しもつけ)、モクセイ科の金木犀・団扇木(うちわのき)などの表札が見られる。
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門
曹源池の南にある門だが、関係者以外立ち入り禁止で門は閉ざされている。
門前手前左側に日本の冬椿、嵯峨初嵐椿などの椿が植えられている。
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龍門亭(篩月)(りゅうもんてい(しげつ))
曹源池の南にある建物で、2000年(平成12年)に開山・夢窓国師650年遠諱記念事業として建造された新書院。
1346年(貞和2年)に夢窓疎石が定めた「天龍寺十境」の一つである「龍門亭」を再現したもの。
建物内には天龍寺直営の精進料理店「篩月(しげつ)」も運営しており、雪(一汁五菜)・月(一汁六菜)・花(一汁七菜)と名付けられた四季折々の素材を使用した精進料理を食べることもできる。
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一滴之碑(いってきのひ)
1998年(平成9年)に「一滴会」の発足を記念して建立された碑。
2000年(平成12年)10月に天龍寺の開山・夢窓疎石国師650年大遠諱を迎えるにあたり行われた大事業に参画した篤志者たちにより集い結成されたもので、国師が曹源池と題して詠んだ「曹源涸れず直に今に臻る 一滴流通して広く且つ深し」の一節、あたかも一滴一滴の水が集まって谷を作り川となり、終には洋々たる大海になるになぞらえて命名された。
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東司(とうす)
曹源池の南にある手洗所で、「東司」の看板が掲げられている。
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参道
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曹源池(そうげんち)
天龍寺十境の一つ。心字池とも
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曹源池庭園(そうげんちていえん)
大方丈と小方丈(書院)に面する、曹源池を中心とした池泉回遊式庭園。
天龍寺の開山・夢窓疎石がその晩年に作庭し、平安時代の王朝文化の優美さと鎌倉以降の武家文化の荒々しさが巧みに融合。
創建当時の面影を残す数少ない遺構の一つとして、1951年(昭和26年)に国の史跡・特別名勝の第1号に指定された。
名は国師が池の泥を上げた時に池の中から「曹源一滴」と記した石碑が出土したことに由来しているといい、この言葉は正しい源から流れ出る真実の禅を意味しているという。
広さ1200坪、左手に嵐山、正面に亀山と小倉山、右手遠景に愛宕山を借景とし、白砂と緑が鮮やか。特に11月中旬の紅葉の時期には色とりどりに紅葉する山々を背景に見事な紅葉の景観を楽しむことができる。
「龍門の瀧」「釈迦三尊石」などのほか日本最古の石組の橋なども見どころ。
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龍門の瀧
曹源池庭園の正面にある三段の石組み。
2枚の巨岩と滝を登る鯉の姿を表現したという鯉魚石で中国の登竜門の故事を表現しているという。
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釈迦三尊石
曹源池庭園の右手前にある橋石組で日本最古。
釈迦三尊石と呼ばれ、中央が釈迦如来、左が文殊菩薩、右が普賢菩薩を表現しているという。
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本堂参拝受付
庫裏の玄関入口をくぐってすぐ右側にある。
こちらの受付からは本堂の中を見学することができる。
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達磨図(だるまず)
庫裏の玄関、拝観受付を入ってすぐ正面の所に置かれている大衝立の達磨図。方丈の床の間などにも同じ達磨図が飾られている。
前管長・平田精耕(1924-2008)の筆で、そのユニークな画風で天龍寺の顔にもなっている。
達磨大師は5世紀後半から6世紀にかけてインドから中国に渡り各地で禅を教えた禅宗の初祖とされる人物で、商売繁盛・開運出世などの縁起物として人気のダルマ人形のモデルにもなっていることで有名。
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大方丈(だいほうじょう)
曹源池庭園の東に面する横幅約30m、奥行き20mの山内最大の建造物で、1899年(明治32年)に再建。いわゆる住職の居所。
室内中央に祀られている大方丈の本尊・釈迦如来坐像は平安後期の作。8度の火災から難を逃れ、天龍寺で最古の仏像で国の重文にも指定。
また室内では1957年(昭和32年)に若狭物外(物外道人)が描いた雲龍の襖絵も公開されている。
建物の周囲は回廊になっており、この回廊から室内を拝観できるほか、縁側より曹源池庭園の観賞も可能。
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小方丈(書院)(しょうほうじょう)
曹源池庭園の北に面する建物で、1924年(大正13年)の建造。書院であると同時に各種行事や法要、来客の接待などで使われる建物。
室内には庫裏の玄関にも飾られている平田精耕筆の達磨図の衝立がある。
ここから庭園を眺めることができるほか、北の多宝殿に向かって回廊が設置され、雨に濡れることなく多宝殿へ向かうことができる。
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雲龍図
大方丈の中にある、1957年(昭和32年)に若狭物外(物外道人)が描いた雲龍の襖絵。
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額縁庭園
大方丈の東側の渡り廊下から建物の中を見た光景。
開けられた障子をまるで額縁のようにして西側の曹源池庭園を眺めることができる。
特に秋の紅葉の季節は見事な眺めとなる。
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回廊
小方丈(書院)から多宝殿へとつなぐ回廊で、右側に甘雨亭と祥雲閣の2つの茶室が見える。
本堂拝観の場合のみ通行でき、庭園のみの拝観の場合には通ることはない。
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大堰川橋脚
小方丈(書院)から多宝殿へと向かう途中の回廊右手に広がる庭の中に建ち「大堰川」と記されている。
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祥雲閣(しょううんかく)
甘雨亭とともに小方丈(書院)から多宝殿へと向かう回廊の右側にある茶室。
1934年(昭和9年)に多宝殿を建立した際の記念事業として建造。
千利休が聚楽屋敷に作ったという格式の高い表千家の茶室・残月亭(ざんげつてい)を写したもので、12畳敷きの広間に2畳の上段の間が設けられている。
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甘雨亭(かんうてい)
祥雲閣とともに小方丈(書院)から多宝殿へと向かう回廊の右側にある茶室。
1934年(昭和9年)に多宝殿を建立した際の記念事業として、天龍寺7代管長・関精拙により建造。
四畳半台目の茶室で、名は裏千家14代の淡々斎により命名された。
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回廊
小方丈(書院)から多宝殿へと向かうことができる回廊で、途中に小さな鐘が吊るされているが、撞くことはできない。
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霊光院(納骨堂)(れいこういん)
小方丈(書院)から多宝殿へと向かう回廊の途中で見えてくる天龍寺の納骨堂。
春は手前の参道に桜が咲く。
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多宝殿(たほうでん)
曹源池の北、小方丈(書院)から回廊を進んだ先に位置する建物で、正式名称は「後醍醐天皇聖廟」。
亀山上皇がこの地に離宮を営んだ際に幼少期の後醍醐天皇の学問所だった所で、過去8回の火災に遭い、現在の建物は1934年(昭和9年)に当時の管長・7代関精拙により完成。
奥に後醍醐天皇像の尊像を祀る祠堂、手前に拝堂があり、その間を相の間でつなぐ。近代の建築物だが、後醍醐天皇の吉野朝時代の建築様式を用いた紫宸殿造で、入母屋造の屋根は中世の貴族の邸宅を思わせる。
祠堂の中央に木像の後醍醐天皇像、その左右に歴代天皇の尊牌が安置されている。
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後醍醐天皇菩提塚
後醍醐天皇像の尊像を祀る多宝殿の前、枝垂桜のそばにある後醍醐天皇の菩提塚。
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枝垂桜
多宝殿前にある枝垂桜で、境内随一の美しさを誇る。
境内には枝垂桜の他にもソメイヨシノや八重桜、山桜など200本の桜の木を楽しめる。見頃は4月上旬。
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参道
庭園のみの拝観の場合に曹源池庭園から多宝殿や百花苑へ向かう参道。
同じく多宝殿へ向かう回廊(こちらは本堂拝観の場合に通る)に並行して石段と参道が続く。
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苔庭
杉葉苔・大和鞭苔・枝艶苔・小葉の提燈苔。
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復元の碑
小方丈(書院)から多宝殿へ向かう参道の途中にある石碑。
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愛の泉
曹源池の北側、多宝殿のすぐ横にある平和観音の前に涌く泉。
地下80mから湧き出ているという霊泉で、この水を飲むと「愛と幸」を受けることができると伝わる。
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平和観音
曹源池の北側、多宝殿のすぐ横にある、中国から伝来したと伝わりる観音像。
開山・夢窓国師の母親が観音菩薩の夢を見て国師を産んだことから、国師は観音菩薩を念持仏とし深く信仰していたといい、その国師が南北朝の和平に尽くしたこともあり、いつしか平和観音と呼ばれるようになったという。
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カエル三尊
曹源池の北側、多宝殿のすぐ横にある平和観音の前に涌く「愛の泉」にて、平和観音を守護しているという三匹の蛙の像。
このカエル像の前のお皿は「万倍碗(まんばいわん)」といい、お金を投げて見事に入ると倍になって返ってくるのだとか。
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石段
望京の丘と向かう石段。
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望京の丘(ぼうきょうのおか)
曹源池庭園や多宝殿の裏、境内の一番東にある丘で、遊歩道として整備されており、曹源池庭園と多宝殿とどちらからも登ることができる。
境内のみならず京都市内を見下ろすこともでき、紅葉や桜の時期には見事な景色が広がる。
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枝垂桜
多宝殿から望京の丘にかけて枝垂桜が多数見られるが、丘の傾斜の途中の枝垂桜は特に大きい。
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眺望
望京の丘からの眺め。眼下に境内の多宝殿などを見下ろすことができるほか、京都市内も一望できる。
春の枝垂桜の季節は息を飲むような美しさの桜が楽しめる。
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石段
望京の丘の南側の石段。周囲は春になるとミツバツツジ(三葉躑躅)が特に綺麗に花を咲かせる。
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参道
望京の丘の南側から曹源池庭園の南側へと続いていく参道。
周囲は春はミツバツツジ(三葉躑躅)のほか、シャクナゲ(石楠花)やツバキ(椿)なども見事に花を咲かせる。
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三葉躑躅(みつばつつじ)
ツツジ科の植物で百花苑の各所で咲いているが、特に曹源池庭園の南西側の参道、望京の丘の南側の一帯は見事に咲き誇る。
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復元の流れの石碑
曹源池庭園・多宝殿から百花苑へと向かう入口付近にある石碑。
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硯石(すずりいし)
北門そばの百花苑に立つ、1899年(明治32年)に日本画家・鈴木松年が法堂の天井に「雲龍図」を描いた際に使ったとされる硯。
高さは約2mあり、この石を拝むと書道が上達するご利益があるという。
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東屋
百花苑から北門へ続く参道の西側、硯石のすぐそばにある休憩所。
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啓翁桜(けいおうざくら)
百花苑内にある早咲きの桜の木。
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百花苑(ひゃっかえん)
曹源池の北側、多宝殿と北門の間に広がる庭園で、1983年(昭和58年)に北門を建立した際に同時に整備された。
自然の傾斜に沿って苑路が作られ、桜や紅葉のほか、アジサイやミツバツツジなど、名前の通り四季折々の草花が楽しめる。
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竹林
北門の前には嵐山の観光スポットとして有名な竹林の小径が通っており、百花苑に向かう参道の西側には竹林が広がっている。
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案内図
北門から出る出口の左側にある案内図。
北門を出て竹林の小径を左へ曲がり西へ進むと常寂光寺や二尊院などの嵯峨野めぐり、右に曲がり東へ進むと野宮神社を経てJR嵯峨嵐山駅や嵐電の嵐山駅へ向かうことができる。
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北門
境内北側にある門で、1983年(昭和58年)に百花苑とともに整備された。
嵐山有数の観光スポットである竹林の道に面しており、門を出て右に曲がると野宮神社や嵐電・嵐山駅方面、左に曲がると常寂光寺や二尊院などの奥嵯峨への観光名所へと向かうことができる。
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北門参拝受付
北門をくぐってすぐの所にある拝観受付。
受付をしてゲートをくぐるとすぐに百花苑に出ることができる。
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僧堂(専門道場)
専門道場で、修行僧(雲水)が寝食を共にし禅の修行を行う場所。
竹林の小径の途中の北門のそばと本堂拝観受付のある庫裏の入口そばに門があり、写真は北門そばの入口のもの。
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亀山天皇亀山陵
天龍寺の地には平安初期、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が開いた「檀林寺」があったが、その後荒廃。
そして鎌倉時代に入り檀林寺の地に後嵯峨天皇とその皇子・亀山天皇が「亀山殿」と称された離宮を営み、これを南北朝時代に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために寺としたのが現在の「天龍寺」。
現在も方丈の北側には、宮内庁が管理する亀山天皇陵(亀山陵)と後嵯峨天皇陵(嵯峨南陵)がある。
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後嵯峨天皇嵯峨南陵
天龍寺の地には平安初期、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が開いた「檀林寺」があったが、その後荒廃。
そして鎌倉時代に入り檀林寺の地に後嵯峨天皇とその皇子・亀山天皇が「亀山殿」と称された離宮を営み、これを南北朝時代に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために寺としたのが現在の「天龍寺」。
現在も方丈の北側には、宮内庁が管理する亀山天皇陵(亀山陵)と後嵯峨天皇陵(嵯峨南陵)がある。
塔頭寺院
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南芳院(なんほういん)
境内の東側、総門をくぐって右手最初にある塔頭寺院。
室町時代の文献に既に名前があり、当時は現在の塔頭・松巌寺の位置にあったが1870年(明治3年)に廃絶。その後1973年(昭和48年)頃に入り現在地に再建された。
「青い眼の禅僧」として半生を過ごした日系米国人のヘンリ・ミトワ(1918-2012)が住持していたことでも知られている。
ミトワはドイツ系米国人の父と日本人の母に生まれ、横浜で誕生の後、太平洋戦争直前にアメリカに渡った父を探すため単身渡米。
母のいる日本と戦うことを拒んだため日系人の強制収容所に収監された経験を持ち、その後1961年に再来日して1973年には天龍寺の僧に。茶人としても知られ茶道の海外普及にも尽力している。
その生涯を追ったドキュメンタリー映画「ヘンリ・ミトワ 禅と骨」が中村高寛監督で制作され、ウエンツ瑛士がミトワ役を務めている。
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なかよしおじぞうさん
門の所に表札がかかっており、門をくぐってすぐの所に小さな祠がある。
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地蔵群
総門の北側、長辻通沿いにあるお地蔵さんの像。
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三秀院(さんしゅういん)
境内の東側、総門を入ってすぐにある塔頭寺院。東向大黒天堂の東向大黒天は「天龍寺七福神」の一つ。
南北朝時代の1363年(正平18年/貞治2年)に夢窓疎石の法嗣(後継者)の不遷法序(1313-83)(ふせんほうじょ)により霊庇廟の南に創建。
一時荒廃するも江戸初期の寛文年間(1661-73)に後水尾天皇によって中興。元治年間(1864-1865)に焼失するも明治初期の1872年(明治5年)に同じく天龍寺の塔頭・養静軒を合併して現在地に再建された。
本堂には本尊・釈迦如来坐像を安置し天井には鳳凰図、他に茶室・任有亭(にんゆうてい)などの建物がある。
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東向大黒天
境内塔頭・三秀院の境内にある六角形の形をした東向大黒天堂に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
江戸時代に寺を中興した後水尾天皇の念持仏だったと伝わる。
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総門から伽藍の中心へ向かう参道の北側にある天龍寺の塔頭寺院。毘沙門堂の毘沙門天は「天龍寺七福神」の一つ。
1429年(永享元年)、室町幕府の管領だった細川家9代・細川持之が夢窓疎石の法孫にあたる玉岫禅師(ぎょくしゅうぜんじ)を開山として創建。寺名は持之の院号に由来
創建当時は小倉山の麓に位置し北は二尊院、南は亀山に至る広大な寺領を有していたが、幾度かの火災により規模を縮小し、1884年(明治17年)に末庵・維北軒と合寺して現在に至る。
本堂は客殿形式で、江戸前期の寛永年間(1624-44)の建立。本尊・観世音菩薩および右に開山・玉岫禅師木像、左に開基・細川持之の位牌を祀る。
柱に残る刀傷は幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」の際に天龍寺に陣を構えた長州藩が血気にはやり試し切りしたものと伝わる。
また戦前の京都画壇を代表する近代日本画の先駆者竹内栖鳳ゆかりの地としても知られ、各部屋に栖鳳とその一門(上村松園、西山翠嶂、徳岡神泉など)の作品が飾られている。
一番の見どころである「虎嘯の庭(こしょうのにわ)」は嵐山を借景にした枯山水庭園で、春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉の時期は特に美しい。拝観は春と秋の特別公開のみ。
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毘沙門天
境内塔頭・弘源寺の毘沙門堂に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
毘沙門天立像は三国伝来と伝わり国の重文にも指定。インドの仏師によって作られ、中国を経て日本に伝わったといい、最初は比叡山の無動寺に祀られていたが、後に弘源寺に迎えられた。
また正面の扁額は弘法大師空海の直筆と伝わり、天井には日本画家の初代・藤原孚石の筆による四季草花48面の絵画が描かれている。
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総門から伽藍の中心へ向かう参道の北側、弘源寺の西隣にある天龍寺の塔頭寺院。弁天堂の水摺福壽大弁財天は「天龍寺七福神」の一つ。
南北朝時代の1363年(貞治2年)に天龍寺2世・無極志玄(佛慈禅師)(むごくしげん)により創建。
当初は現在よりも南東に位置する斎明神社の南にあったが、江戸初期の寛永年間(1624-45)に焼失し現在地に移転。1930年(昭和5年)に同じく塔頭であった福寿院を合併し現在に至る。
白壁と弁天堂の竜宮城を思わせる唐様の来福門が特徴的。また松巌寺、弘源寺とともに1864年(元治元年)の兵火を逃れたため、室町~徳川期のものが残る。毎月1回日曜には坐禅会「蕉堅会」を開催。
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来福門
東側にある門で、福寿弁天堂の入口の門。
唐様の竜宮門で「来福門」と呼ばれている。
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弁財天(水摺福寿弁財尊天)
天龍寺の塔頭寺院・慈済院の福寿弁天堂に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
天龍寺の開山・夢窓疎石が霊感により法力信念をこめ一刀参礼をもって彫刻し、後生利益のために慈済院を開山した天龍寺2世・無極志玄(佛慈禅師)に授与したもので、香水をもって尊影を浄写し「巳成金の日」の大祭に抽籤により信者に謹呈することから「水摺福壽大辨財天」と通称。
堂の天井には日本画家・里見米菴(さとみべいあん)の筆による龍図が描かれている。
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総門から伽藍の中心へ向かう参道の北側、天龍寺鎮守の八幡社の手前にある天龍寺の塔頭寺院。境内の福禄寿堂に祀られている福禄寿天は「天龍寺七福神」の一つ。
1353年(文和2年)に「源氏物語」の注釈で知られる公家・四辻善成(よつつじよしなり)が晦谷祖曇(まいこくそどん)を開山として創建。その後荒廃するも明治期に1870年に廃寺となった南芳院(現在は再興)の跡地に真乗院を合併する形で再建。
境内の墓地には坂本龍馬の立像と「船中八策」の記念碑が建つ。「船中八策」は1867年(慶応3年)6月9日に土佐藩の後藤象二郎とともに藩船「夕顔丸」で上京する際の船中で龍馬が示した政事構想で、後に明治新政府の「五ヶ条の御誓文」の基礎にもなったといわれている。
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福禄寿天
天龍寺の塔頭・松巌寺の入口を入ってすぐ左手の小さい堂に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
一刀彫で開運出世のご利益があるという。
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妙智院(みょうちいん)
嵐電・嵐山前の石標の道から伽藍の中心へ向かう参道の南側の一番手前にある天龍寺の塔頭寺院。境内に祀られる宝徳稲荷は「天龍寺七福神」の一つ。
1453年(亨徳2年)に竺雲等連(じくうんとうれん)を開山として創建。当初は現在の宝厳院の地にあったという(有名な獅子吼の庭も妙智院の所有だった)。1864年の大火で焼失後、明治期に入り1877年(明治10年)になって華蔵院を合併し現在地に再建。
よく手入れされた庭園と多くの文化財を有し、無等周位の筆で天龍寺の開山・夢窓疎石の自賛も入る絹本着色「夢窓国師画像」および戦国時代に二度の入明で明の禅文化をもたらした3世・策彦周良(さくげんしゅうりょう)を描いた柯雨窓賛の絹本着色「策彦周良和尚像」はともに重文。
また嵯峨野で一番古いといわれる湯豆腐店「西山艸堂」を経営することでも知られている。
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宝徳稲荷
天龍寺の塔頭・妙智院の境内に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
宝徳稲荷大明神および家光弁財天を祀る。
ちなみに「天龍寺七福神」では寿老人と布袋がおらず、その代わりに稲荷大明神と不動明王が加えられている。
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西山艸堂(せいざんそうどう)
天龍寺の塔頭・妙智院の書院を客室として使用する湯豆腐の名店。
西山艸堂とは「西の山の草深い所に立つお堂」という意味で妙智院の別号でもある。
戦後すぐの創業と嵯峨で一番古い歴史を持ち、嵯峨豆腐の老舗「森嘉」の豆腐を味わえる。メニューは精進料理または湯豆腐がセットになった湯豆腐定食のみ。
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寿寧院(じゅねいいん)
嵐電・嵐山前の石標の道から伽藍の中心へ向かう参道の南側にある天龍寺の塔頭寺院。境内に祀られている身守不動明王は「天龍寺七福神」の一つ。
南北朝時代の貞治年間(1362-68)、開山・夢窓疎石の法を嗣ぎ春屋妙葩とともに夢窓派の中心であった龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)の創建。その後衰退するが、明治期の1885年(明治18年)に栖林軒(すりんけん)の廃寺に伴いその跡地に再建。
境内の墓地には坂本龍馬の妻・お龍とその父・楢崎将作の顕彰碑がある。
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身守不動明王
天龍寺の塔頭・寿寧院の境内に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
ちなみに「天龍寺七福神」では寿老人と布袋がおらず、その代わりに稲荷大明神と不動明王が加えられている。
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分岐
寿寧院と等観院の間を南へと伸びる道。
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嵐電・嵐山前の石標の道から伽藍の中心へ向かう参道の南側にある天龍寺の塔頭寺院の一つ。本尊は十一面観世音菩薩。
南北朝時代の1386年(至徳3年)に管領・細川満元が天龍寺開山・夢想疎石の直弟子で南禅寺や等持院、鎌倉の瑞泉寺などにも住持した天龍寺第20世・徳叟周佐(とくそうしゅうさ)を開山として迎え創建。
その後明治維新直後の廃仏毀釈の影響で1885年(明治18年)には廃寺同然となるも、1921年(大正10年)に京都・峰山の吉村氏の志願により天龍寺境内の現在地に移転し再建。
「等観」とは仏教語で「ものごとを見極める」「何事も差別せず等しく観る」という意味。
通常一般公開されていないため本尊を拝むことはできないが、門の近くに安置されている聖観世音菩薩は門前から拝むことが可能。
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聖観世音菩薩
等観院の門をくぐってすぐの所に安置されている。
等観院は通常一般公開されていないが、この像は門前から拝むことが可能。
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嵐電・嵐山前の石標の道から伽藍の中心へ向かう参道の南側、一番奥にある天龍寺の塔頭寺院。境内の恵比寿天堂に祀られている恵比須神は「天龍寺七福神」の一つ。
1413年(応永20年)に天龍寺開山・夢窓国師の3世法孫である太岳周祟(たいがくしゅうそう)が開創。その後応仁の乱で焼失するも、1593年(文禄2年)に徳川家康の家臣で後の常滑藩主・水野守信により中興され、常滑水野家の菩提寺となる。
1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」の兵火により再度焼失するが、大正期に多くの寺社仏閣を再興した実業家・山口玄洞からの大寄進を受け復興し現在に至る。
嵐山を借景とした境内の本堂には本尊・十一面観音像を安置。また開山・夢窓疎石より「夢」の一字を得て19世・國友憲道が建立した夢地蔵尊も見どころ。
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恵比須神
天龍寺の塔頭・永明院の境内に祀られ「天龍寺七福神」の一つ。
兵庫県西宮の西ノ宮戎神社より勧請されたもので、救苦除災・福授開運のご利益があるという。
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永明院西門
永明院の境内の西側にある門。
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天龍寺境内の南側にある塔頭寺院。
室町時代の1461年(寛正2年)に管領・細川頼之が天龍寺開山・夢窓国師の3世法孫・聖仲永光禅師を開山に迎えて創建。
創建時は京都市上京区禅昌院町にあって広大な寺領を有していたが、応仁の乱により焼失。天正年間(1573-91)に豊臣秀吉により再建され、1972年(昭和47年)に天龍寺の塔頭・弘源寺の境内に移転の後、2002年(平成14年)に同じく塔頭の一つ妙智院の旧地である現在地に移転し再興された。
本尊は十一面観音菩薩で、その脇に三十三体の観音菩薩、足利尊氏が信仰したと伝わる地蔵菩薩像を祀る。
一番の見どころである「獅子吼の庭(ししくのにわ)」は室町期に中国に二度渡った禅僧・策彦周良禅師による作庭で、江戸時代の「都林泉名勝図会」にも紹介されている名園。
嵐山を借景とした回遊式山水庭園で、松や楓に巨岩を配し床一面の苔の絨毯と相まって絶妙な美しさを誇り、時代劇の撮影などにも使用されるという。
紅葉の名所としても人気が高く、11月中旬には「夜の特別拝観」も開催されライトアップが楽しめる。春・秋の特別拝観日のみ一般公開。
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宝厳院山門
宝厳院の正門で拝観受付になっている。
自然との調和を意識した素朴な茅葺の屋根が特徴的。
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門
宝厳院の北側にある門。
拝観入口はここから南へ70mの所にある山門にある。
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嵐山羅漢(あらしやまらかん)
天龍寺の境内南にある塔頭・宝厳院の前にある羅漢像群。宝厳院の呼びかけで奉納者がそれぞれの思いを込め様々な趣向を凝らして作られた像が約70体あるという。
「羅漢」とは阿羅漢の略称で釈迦の教えを広めようとした弟子たちのことで、禅宗の普及に伴い十六羅漢、五百羅漢といった形で羅漢像が多数作られた。
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金剛院(こんごういん)
総門の東、長辻通を挟んで向かいにある境外塔頭寺院。一般拝観は行っていない。
1364年(北朝:貞治3年・南朝:正平19年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が、南北朝時代の北朝の初代・光厳法皇の寿塔(生前に建てておく塔婆)として建立。のちに戦乱で荒廃するも、現在地に再建。
春屋妙葩は天龍寺の開山・夢窓疎石の甥にあたる人物。疎石の法を継ぎ天竜寺や南禅寺などの住持を務めたほか、室町幕府第3代将軍・足利義満の信任を受けて相国寺の建立に協力、初代の僧録司(そうろくし)に就任し五山を統轄するなどの活躍を見せた。
境内の西側には光厳法皇の髪塔も建つ。
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臨川寺(りんせんじ)
天龍寺の南東、渡月橋の交差点から大堰川(桂川)の北側に沿って続く三条通沿いにある臨済宗天龍寺派の寺院。天龍寺の別院で山号は天龍寺と同じ霊亀山。現在は一般公開されていない。
鎌倉時代は第88代・後嵯峨天皇・第90代・亀山上皇の離宮・亀山殿の別殿の「川端殿」があった場所で、その後亀山上皇の皇女・昭慶門院の御所(川端御所)となり、更にその養子となった後醍醐天皇の皇子・世良親王(ときながしんのう)が急逝すると親王の菩提を弔う寺に改められる。
そして後醍醐天皇の命で天龍寺の開山・夢窓疎石を開山に勅願寺となり、その夢窓疎石が1351年(正平6年)がこの地で入寂しその廟所となったことから、天龍寺の開山堂としての意味合いを持つ。
夢窓国師像を安置する開山堂のほか、狩野永徳の襖絵「水墨花鳥図」がある客殿、および室町3代将軍・足利義満の筆による三会院(さんねいん)の額を掲げる中門が京都市指定文化財。「五山十刹」においては十刹の二位に挙げられる。
関連
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清凉寺(嵯峨釈迦堂)のそばに位置。室町から江戸期にかけては臨済宗天龍寺派の山外塔頭だったが、現在は臨済宗の単立寺院。
紅葉の名所として知られる
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西京区松尾にある天龍寺の境外塔頭寺院で、緑の絨毯を敷き詰めたような美しさで知られ「苔寺」の別名を持つ世界遺産。
奈良時代に行基が開創したと伝わり、1339年(暦応2年)に天龍寺の開山で曹源池庭園も手掛けた夢窓疎石国師が復興。
120種類の苔が美しい庭園も夢窓疎石の作庭で、史跡・特別名勝に指定。