京都五山とは?
「京都五山(きょうとござん)」とは、一種の官寺制度で、京都にある禅宗(臨済宗)の五大寺を定めたものです。
五山制度は元々は中国にあった制度で、南宋の末期に禅宗寺院の保護と統制を図るために古代インドにおいて初期の仏教の時代にあった「天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)」に倣って定められました(竹林精舎・祇園精舎・菴羅樹園精舎・大林精舎・霊鷲精舎の5つ)。
これが日本で導入されたのは鎌倉末期のこと。栄西らによって中国から伝えられた禅宗(臨済宗)は武士たちの支持もあり、幕府によって大寺院が建立されるなど隆盛を極めます。
すると鎌倉幕府は南宋の五山十刹にならって五山を選定。文献上の初見は1299年(正安元年)、執権・北条貞時が浄智寺を五山に列したのが最初で、当初は鎌倉の寺院を中心に選ばれていました。
その後1333年(元弘3)に鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武の新政がはじまると、政治の舞台は再び京都へと移り、五山も京都本位のものに改められます。
そして足利尊氏が室町幕府を開いた後に数度の変更を経て、五山は京都五山(南禅寺・天龍寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)と鎌倉五山(建長寺,円覚寺,寿福寺,浄智寺,浄妙寺)に分かれ、ここに京都五山が成立。
更に1386年(至徳3年)、3代将軍・足利義満が自らが創建した相国寺を五山に列するため、新たに両五山の上に別格として南禅寺を置くという変更が行われて現在の序列が定まりました。
最終的に固まったのが南禅寺を別格とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の序列です。
ちなみに義満の意向により1401年(応永8年)に相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われましたが、義満没後の1410年(応永17年)に元に戻されています。
このように京都五山はあくまで足利氏の政治的な意味合いの強い格付けで、大徳寺や妙心寺など当初は五山に選ばれていたものの政治的な理由から外れた寺院もあります。
また中国文化に精通した五山の禅僧たちの間で広まった漢文学は「五山文学」と呼ばれ、漢詩文・日記・語録などが数多く作られたほか、「五山版」と呼ばれる既存の刊行物を復刻した木版出版も盛んに行われ、文化面でも大きな役割を果たしています。