京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町、臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺の境内にある天龍寺の塔頭寺院。
「天龍寺七福神」の1柱である「弁財天(水摺大辨財天)」が祀られていることで知られています。
天龍寺の総門をくぐって参道を進んだ右手、弘源寺の西隣にあり、瓦を塗り込めた素朴な味わいのある土壁と、弁財天を祀る弁天堂の入口門で白壁に唐様の優美な形をしたまるで竜宮城のような「来福門」が参拝者の目を引きつけます。
南北朝時代の1363年(貞治2年/正平18年)に天龍寺第2世・無極志玄(佛慈禅師)(むごくしげん 1282-1359)が創建。
無極志玄は後鳥羽天皇の第3皇子で「承久の乱」で敗れて佐渡に流されたことで知られる第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう 1197-1242)の曾孫で、西隣にある天龍寺塔頭の松巌寺(松厳寺)を創建した四辻善成の兄にあたり、南洲宏海の元で出家して東福寺の無為昭元に学んだ後、鎌倉・円覚寺で天龍寺開山・夢窓疎石(むそうそせき)に師事し、その法を嗣いで天龍寺2世となった人物です。
当初は現在地の南東、京都市右京区嵯峨柳田町に鎮座する斎明神社の南にありましたが、江戸初期の寛永年間(1624-1645)に焼失し天龍寺境内に移ると、その後は荒廃・焼失と再建を繰り返し、明治初期の1872年(明治5年)に塔頭・福寿院を合併し現在に至っています。
天龍寺第2世の塔所ということもあって立派な建物が多く、また1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」による天龍寺の大火を免れたことから室町期や江戸期の古い建築様式の建物が多く残っており、表門・庫裏・玄関廊・本堂が2016年(平成28年)に国の登録有形文化財に登録されています。
また「弁天堂」に祀られている「水槢福寿台弁財天」は夢窓疎石が霊感によって法力信念を籠め一刀参礼をもって彫刻し、後生利益のために当院の開山・無極志玄(佛慈禅師)に授与したもので、香水をもって浄写した尊影を「巳成金の日」の大祭に抽籤により信者に授与していたことから「水摺福壽大辨財天」と通称されていて、現在も「天龍寺七福神」の弁財天として毎年2月3日の節分・天龍寺七福神めぐりの日には多くの参拝者が訪れて賑わいます。
その他にも弁天堂の天井に描かれている日本画家・里見米菴(さとみべいあん)の筆による龍図も見逃せない所です。