京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町、名勝・嵐山渡月橋から長辻通を北へ進んだ清凉寺(嵯峨釈迦堂)の仁王門の門前左手の突き当たりにある臨済宗の単立寺院。
山号は善入山(ぜんにゅうざん)、本尊は十一面千手観世音菩薩立像。
平安中期の1072年(延久4年)~1085年(応徳2年)頃、院政を始めたことで知られる第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の勅願寺として創建。
創建当初は「善入寺」と称し、平安末期から鎌倉期にかけては数代にわたって皇族が入寺し住持となったといいます。
南北朝時代の貞和年間(1345-50)に夢窓疎石の高弟・黙庵周諭(もくあんしゅうゆ 1318-73)が入寺し、衰退していた寺を中興するとともに禅宗寺院に改め、更に1365年(貞治4年)には室町幕府第2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら 1330-67)が亡くなった母親の法要の席での経典の講義や参禅問答をきっかけに黙庵に帰依し、その保護を得て伽藍が復興され、1367年(貞治6年)の義詮の没後にその菩提寺となり、第8代将軍・足利義政の時に義詮の院号にちなんで「宝筐院」と改められたといいます。
以後は歴代足利将軍の崇敬を受け、備中・周防などに寺領を持つなどして栄えますが、「応仁の乱」以降は室町幕府の衰亡とともに寺も衰退し、江戸時代には天龍寺末寺となり客殿と庫裏を残すのみの小院となり、幕末から明治の初めに廃寺となります。
現在の堂宇はその後50年を経た1917年(大正6年)に後述する楠木正行ゆかりの寺として再興されたもので、本堂には本尊・十一面千手観世音菩薩立像が安置されています。
当寺は1348年(貞和4年/正平3年)に「四条畷の合戦」で高師直率いる北朝の大軍と戦って戦死した楠木正成の子で正成と区別するために「小楠公(しょうなんこう)」とも呼ばれた南朝方の武将・楠木正行(くすのきまさつら)の菩提寺でもあり、黙庵は正行の死後その首を生前の交誼により善入寺に葬ったといいます。
境内の墓所にはその楠木正行の首塚と伝えられる五輪石塔がありますが、注目すべきはその隣に正行とは敵として戦った足利義詮の墓と伝えられる三層石塔がある点です。
敵味方に分かれて戦ったとされる正行と義詮の2人の墓が隣同士仲良く並んで建つという不思議な光景を見ることができますが、これは正行の死を聞いた義詮がその人柄を褒め称え、自分の死後はその傍らに葬るように遺言したためといわれています。
それから時は過ぎ明治時代に入った1891年(明治24年)、「小楠公」こと楠木正行の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しんだ京都府知事・北垣国道により、この逸話を世に知らせるため首塚の由来を記した「欽忠碑」の石碑が建てられ、更に楠木正行ゆかりの遺跡を護るとともにその菩提を弔う寺として天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって宝筐院の再興が図られることとなります。
旧境内地を買い戻すとともに新築や古建築の移築によって1916年(大正5年)には伽藍が整えられ、屋根には小楠公ゆかりの寺院であることを示すために楠木の家紋である「菊水紋」を彫った軒瓦も用いられているといいます。
現在は嵯峨嵐山の中でも有数の紅葉の名所として知られていて、山門くぐってまっすぐ続く石畳の参道の両側が真っ赤な楓に包まれ紅葉のトンネルとなり、辺り一面が赤や黄色のグラデーションに包まれるほか、本堂や書院を中心とした回遊式の庭園にも多くの楓やドウダンツツジがあり、真っ赤な紅葉が竹林や苔の緑に映えて美しい景色が楽しめます。