京都市西京区松尾神ヶ谷町、京都市西部の松尾大社や鈴虫寺(華厳寺)にほど近い場所にある臨済宗単立寺院。
山号は洪隠山(こういんざん)で、本尊は阿弥陀如来。
奈良時代の天平年間(729-49)、第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)の詔により行基(ぎょうき 668-749)が畿内に建立した四十九院の法相宗の寺院の一つ「西方寺」として開創したのがはじまりで、創建前の飛鳥時代には同地には聖徳太子(しょうとくたいし 574-622)の別荘があったともいわれています。
平安初期には弘法大師空海(くうかい 774-835)が一時住し、鎌倉初期には中原師資(なかはらのもろかず 1184-1251)が法然(ほうねん 1133-1212)を招いて中興して浄土信仰の道場としたとも伝えられていて、その後、兵乱での荒廃の後、南北朝時代の1339年(暦応2年/延元4年)に師資の子孫で松尾大社の宮司でもあった摂津守・藤原親秀(ふじわらのちかひで)が第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)や足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-58)の深い帰依を受けた名僧で、世界遺産・天龍寺の開山としても知られる夢窓疎石(むそうそせき 1275-1351)を招いて再建、寺名を禅宗の初祖・達磨に関する「祖師西来 五葉聯芳」の句より現在の「西芳寺」と改めるとともに臨済禅の修行道場としました。
復興当初は平地部の下段に二層の楼閣の「瑠璃殿(るりでん)」をはじめとする庭園建築と花木に彩られた池泉式の庭を、山腹の上段には「洪隠山」と呼ばれる枯山水の石組と座禅堂「指東庵(しとうあん)」を配し、山頂の展望地点には「縮遠亭(しゅくえんてい)」を建て、これらの建物と変化に富んだ地割を石組で飾った庭園とが華やかな風景を呈していたと伝えられていますが、これらの庭園は天龍寺の曹源池庭園を作庭したことでも知られる夢窓国師が、再興にあたって自ら作庭したもので、当時既に天下の名園として名高く、足利義満や足利義政をはじめ、ここを訪れて座禅に励んだ人も多いといいます。
1469年(文明元年)の兵火によって建物は失われ、その後一時再興されたものの再度の兵火に遭い、また江戸時代には2度にわたって水害も受けたといい、現在の建物のほとんどは明治期に造営されたものです。
その一方で庭園は造営当時の姿は失われているものの夢窓疎石が整備した地割と石組は全て保持されていて、枯山水石組みの上段の庭と、「心」の字を象る黄金池を中心とした池泉回遊式の下段の庭からなる2段構えの庭園は、昔の面影をよく伝える名庭と謳われるとともに、更に江戸後期頃からは庭園を苔が覆うようになり、現在は3万5千平方メートルに達する庭園の一面が120余種もの青苔に覆われ、その緑の絨毯を敷き詰めたような幻想的な美しさから広く「苔寺」の愛称で親しまれています。
そしてこれらの庭園は建築と庭園の一体化、確実な手法の石組、眺望という視点など、前代までのものにはみられない形式が取り入れられていて、鹿苑寺庭園や慈照寺庭園をはじめとする後世の庭園に大きな影響を与え、その原型になったと考えられており、日本の庭園史上重要な位置を占めるものと評価されていて、国の「特別名勝」および「史跡」に指定されているほか、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産条約に基づく「世界文化遺産」にも登録されています。
また境内には3つの茶室があり、中でも「湘南亭」は慶長年間(1596-1615)に千利休の次男・千少庵(せんのしょうあん 1546-1614)が建築したもので、幕末明治維新の際には岩倉具視(いわくらともみ 1825-83)が一時隠棲したと伝えられていて、国の重要文化財に指定されています。
その一方で往復はがきによる事前申込が必要であり、加えて庭園だけの拝観は行っておらず、本堂で行われる写経などの宗教行事に参加することが必要であることから拝観が難しいことでも有名ですが、これは1928年(昭和3年)より庭園の一般公開を始めて以来、参拝者が増えるにつれて「観光公害」が生じたことから、その対策を検討した結果、やみくもに参拝者を増やすのではなく、寺院本来の宗教的雰囲気を保つとともに、参拝者が心静かに参拝することができるよう、1977年(昭和52年)より少数参拝制を実施しているといいます。