冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)

冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)

 

 

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冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)とは?(基本データ)

名前
冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)(れいぜいけしぐれていぶんこ(れいぜいけじゅうたく))
エリア
京都御所
ジャンル

邸宅・屋敷・別荘

建立・設立
[冷泉家住宅]
1790年(寛政2年)建造
[時雨亭文庫]
1981年(昭和56年)4月1日設立
創始者
[冷泉家] 冷泉為相(冷泉家初代)
家紋
酢漿草(片喰)(かたばみ)
アクセス
駐車場
なし
拝観料
 
お休み
通常非公開(特別公開される場合あり)
拝観時間
 
住所
〒602-0893
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町599
電話
075-241-4322(公益財団法人冷泉家時雨亭文庫 事務局)
FAX
-
公式サイト
公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫
公益財団法人冷泉家時雨亭文庫 Facebook
冷泉家文書 文化遺産オンライン
冷泉家住宅 表門 文化遺産データベース
冷泉家住宅 全国重文民家の集い
上京区の史蹟百選/冷泉家住宅

冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)の地図

冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)のみどころ (Point in Check)

「冷泉家住宅」は京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町、京都御苑の北、御苑と同志社のキャンパスに挟まれ今出川通に南面した場所にある冷泉家の屋敷で、唯一完全な姿で現存する最古の公家住宅。

この点「冷泉家」は、平安~鎌倉期に活躍した歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり 1114-1204)、藤原定家(ふじわらのていか 1162-1241)父子の子孫にあたる家系で、定家の孫の冷泉為相(れいぜいためすけ 1263-1328)を祖とし、家名は平安京の東西を走る冷泉小路、現在の夷川通に建てられた冷然院に由来するといいます。
そして「歌聖」と仰がれた藤原定家の正統を継ぐ「和歌の家」として約800年の長きにわたり代々歌道をもって朝廷に仕え、明治時代には伯爵に列せられた由緒ある家柄です。

現在、今出川通を挟んで南側には京都御所を囲むような形で「京都御苑」がありますが、この京都御苑となっている部分を含む御所周辺には豊臣秀吉によって公家町が形成され、江戸時代までは数多くの宮家や公家の住宅が立ち並ぶ場所でした。

しかし明治に入って間もなくの天皇の東京行幸とともに大半の公家が東京に移り住んだことからそれらの屋敷は空き家となり、治安維持のために取り壊されて公家町は消滅、その跡地には市民憩いの広大な公園として整備されたのが現在の「京都御苑」です。

冷泉家も江戸初期の元和年間(1615-24)(慶長年間とも)以来、公家町の一画にあたる京都御所北側の現在地に屋敷を構え居住してきましたが、公家の大半が天皇に同行して東京へと移住する中で留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、400年にわたる近世初頭以来の土地を守り続けることとなり、更に冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封だった蔵があり、かつ京都御苑の外に建てられていたことから建物の取り壊しを免れたといいます。

そして敷地内に建てられた建造物は江戸後期の1788年(天明8年)に発生し御所を含む都の過半を焼き尽くした「天明の大火」にて御文庫などの土蔵以外の建物はすべて焼失していますが、座敷は1790年(寛政2年)にすぐに再建されて現在まで伝えられており、京都に数多く建造された中でほぼ完全な形で唯一現存。旧制の配置構成を忠実に伝える貴重な公家屋敷の遺構として、1982年(昭和57年)2月に冷泉家の座敷及び台所、御文庫、台所蔵、表門が国の重要文化財に指定されています。

1994年(平成6年)からは足かけ7年の歳月をかけて解体修理工事が行われ、2000年(平成12年)の末に竣工。この際に寝殿造の殿舎の中程がやや膨らんだ形が特徴的な起り屋根(むくりやね)が元々の柿葺(こけらぶき)に戻されるといった作業も行われ、往時の瀟洒な姿が甦っています。

また邸内の「御文庫」には800年の長きにわたって秘蔵された歌書を中心とする冷泉家に伝来する典籍や古文書などが保存されていて、その数は長家・俊成・定家以来の家学である和歌に関するものを中心2~3万点にのぼるといい、1197年(建久8年)に式子内親王の要請で献上された歌論書藤原俊成自筆の「古来風躰抄(こらいふうていしょう)」をはじめ、藤原定家筆の勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」や自撰集「拾遺愚草」、そして当時の文学界や政治情勢、生活様式などを知る上で重要な史料である定家の日記「明月記(めいげつき)」の国宝が5件、重要文化財が48件のほか、これまで知られなかった貴重な典籍も多く所蔵されています。
その中には中世から近世にかけその時代の公家や武家の手で書き写されて流布したものも多く、伝統文化の継承と新しい文化の形成に重要な役割を果たしました。

更に邸宅においては、古来の伝統に準じた歌会を定期的に開催するほか、七夕の「乞巧奠(きっこうてん)」をはじめとする宮廷生活の伝統文化を今に伝える年中行事が現在に至るまで守り伝えられています。

そして「冷泉家時雨亭文庫」は、これら冷泉家に伝わる典籍・古文書類と住宅、および冷泉家歌道とそれに関する行事などの貴重な文化遺産を、将来にわたり総合的かつ恒久的に継承保存していくことを目的に、1981年(昭和56年)4月に財団法人として設立され、2011年(平成23年)4月に公益財団法人へと移行。その名称は藤原定家の嵯峨野の山荘の名「時雨亭」に由来しているといいます。

財団では設立以来、冷泉家住宅の解体修理や定家の日記である国宝「明月記」60巻などの修理修復を行ったほか、冷泉家がこれまで約800年にわたって守り続けてきた歌書などの貴重な書物や典籍類を写真撮影・複製する形で初めて公開した「冷泉家時雨亭叢書」全84巻が刊行されるなど、伝統文化の振興・発展に寄与する様々な取り組みがなされています。

この「冷泉家住宅」は通常は非公開ですが、これまでにも何度か公益財団法人京都古文化保存協会による「京都非公開文化財特別公開」の開催という形で内部の公開などが行われています。

冷泉家時雨亭文庫(冷泉家住宅)の施設案内

 

邸内

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    表門

    今出川通沿いに南面
    江戸後期の1790年(寛政2年)の建造で1982年(昭和57年)に国の重要文化財に指定
    本瓦葺の一間の薬医門形式で、御所の北側にあたるため、門の屋根の両隅には四神相応の制に沿って玄武をあらわす亀像瓦が配されている
    門の左右には桟瓦葺の両袖塀が続く

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    玄関前庭

     

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    腕木門

    玄関前庭左から台所に至る

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    塀重門

    玄関前庭右から座敷前庭に至る

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    内玄関

     

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    立蔀

     

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    式台(大玄関)

     

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    主屋(座敷・台所)

    南面し切妻・入母屋造・桟瓦葺(元こけら葺)で、西側の台所部と東側の座敷部で構成

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    座敷前庭

     

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    御文庫

    重文
    敷地東北隅

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    新御文庫

     

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    台所蔵

    台所側西

周辺

公家屋敷跡(五摂家)

鎌倉中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5つの家で、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任することができ、この五家の中から藤氏長者も選出されたといいます。

日本の歴史のおける最大氏族である「藤原氏」は、中大兄皇子(天智天皇)とともに「大化の改新」を行った藤原鎌足(中臣鎌足)を始祖とし、鎌足の次男である藤原不比等(659-720)と4人の子によって基礎が固められ最初の黄金時代を迎えます。

その4人の子が興したのがいわゆる「藤原四家」で、藤原武智麻呂を始祖とする「藤原南家」、藤原房前を始祖とする「藤原北家」、藤原宇合を始祖とする「藤原式家」、そして藤原麻呂を始祖とする「藤原京家」。

このうち藤原北家の藤原冬嗣(775-826)が文徳天皇、その子・藤原良房(804-72)が清和天皇、そしてその養子(甥)・藤原基経(836-91)が朱雀天皇と村上天皇のそれぞれの外祖父となり、北家嫡流が3代にわたって外戚の地位を得、また良房(804-72)が人臣初の摂政となると、北家嫡流=藤氏長者=摂政関白という流れが決定づけられました。

摂関政治は後に藤原道長(966-1028)・藤原頼通(992-1074)親子によって全盛期を極め、道長の流れは御堂流と呼ばれ家流へと受け継がれていきます。

そして御堂流の藤原忠通(1097-1164)の時代にその三人の子から近衛・松殿・九条の3つの家に分かれ、更に近衛から鷹司が分家し、九条から二条と一条が分家、一方で松殿は戦国期に断絶し、ここに「五摂家」が確立されました。

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    近衛家(近衛邸跡・近衛の枝垂れ桜)

    京都御苑北西、今出川御門の西
    跡地には邸宅跡を示す標柱と駒札が建つほか、「近衛池」があり、また早咲きで知られる「近衛の枝垂れ桜」のある桜の名所として有名
    その一方で当地にあった建物の一部は各地に移築され再利用されたといい、またその他にも近衛家ゆかりの建物の遺構が各所に残されている
    まず近衛家が大檀那であったという東福寺塔頭「勝林寺」には大玄関が移築され、現在も「本堂」として使われているほか、境内には近衛家の一切経を埋めた石塔も建てられているという
    奈良「西大寺」の「愛染堂」は寝殿造である近衛家の政所御殿を1767年(明和4年)に寄進を受ける形で移築したもの
    愛知県西尾市の「西尾市歴史公園」にある「旧近衛邸」は江戸後期に島津斉彬の姫が近衛忠房に嫁いだ縁で島津家によって建てられたもので、数寄屋風の書院と茶室で構成、その後宮家の所有となり、小松宮彰仁親王別邸、1898年(明治31年)まで山階晃親王の別邸として使用された後、天理教京都河原町大教会の所有となり、1985年(昭和60年)に神殿改築に伴い解体、西尾市に移築され、1995年(平成7年)に西尾市歴史公園に移築された
    「京都仙洞御所」にある茶室「又新亭」は1884年(明治17年)に近衛家が東京へ移る際に献上・移築されたもの
    また京都市中京区の河原町竹屋町の東の「職員会館かもがわ」の敷地内にある「木戸孝允邸宅跡」は鴨川の畔の近衛家の下屋敷を譲り受けて別邸としたもの
    その他に同志社大学新町キャンパス内には天正年間(1573-92)の公家町整備に伴って御所西北に移転されるまで室町期に本邸があったことを示す「近衛家旧邸址」の石碑が建てられているが、この旧邸は「洛中洛外図屏風」にも描かれるほどの有名な糸桜があったことから「桜御所」と呼ばれていたという

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    鷹司家(鷹司邸跡)

    京都御苑南、堺町御門の東
    1864年(元治元年)の「禁門の変」の際には戦いに敗れた長州藩士の久坂玄瑞が邸内に入り、屋敷に火が放たれて炎上
    鷹司邸から上がった火と長州藩邸(現在のホテル京都オークラ付近)から上がった火の手はまたたく間に広がり京都の街を火の海にした「どんど焼け」と呼ばれる大火となった
    元治の火災の後に邸宅は再建されたが、公家の東京移住に伴い御苑として整備されることとなり、鷹司家の屋敷地も1877年(明治10年)に買い上げられ建物は解体・撤去された
    跡地には京都地方気象台の前身となる「観象台」が1913年(大正2年)に西ノ京の現在地に移転されるまで置かれていたという
    邸宅跡を示す石標と駒札が建つ

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    九条家(九條邸跡・厳島神社)

    京都御苑南、堺町御門の西
    邸宅跡を示す標柱と駒札が建つほか、「九條池」と鎮守であった「厳島神社」、そして唯一現存する建物である茶室「拾翠亭」が残る
    ちなみに母屋などの主要な建物は九条家の東京移住時に東京の九条邸へと移築されているが、その一部は近年になって東京国立博物館に寄贈され「九条館」と命名されて公開されているという
    なおこれ以外にも以下の2つが九条邸の遺構として知られる
    寺町通荒神口下ルにある府立「鴨祈高校(おうきこうこう)」にある旧正門と茶室は九条邸の遺構の一つ
    鴨沂高校の前身である日本最初の女学校「京都新英学校及京都女紅場(にょこうば)」は1872年(明治5年)に丸太町通土手町にあった旧九条家河原町邸の屋敷を利用して開校
    九条家の遺構はその時からのもので、1900年(明治33年)8月に現在地に移転してきた時に門と茶室が移築された
    長らく正門として利用されたが、校舎の改装後に新しい正門ができたため、現在は旧正門としてその姿をとどめ伝統校の歴史を伝えており、瓦には九条家の家紋が刻まれている
    また東山七条の東方にある浄土宗寺院の「小松谷正林寺」の本堂も九条邸の遺構の一つ
    平清盛の長男・平重盛の小松殿があった場所に 平家没落後に九条家の祖・九条兼実は山荘を営み、法然を戒師として出家するとともに同寺を創建した
    創建当時の堂宇は応仁の乱で焼失したが、現在の本堂は江戸中期の1735年(享保20年)に九条家の河原御殿内の御内仏を移したものだといい、法然上人像や九条兼実像などが安置されている

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    二条家(「二條家邸跡」の碑)

    同志社女子大学門前に邸宅跡を示す石碑が建つと同志社女子大学による「二條家邸跡」の説明版
    やや東の生垣の中に井戸と地下通路の遺構と「二條家邸(幕末期)検出の井戸」「二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路」の説明版がある
    また建物の遺構としては、大阪市天王寺区六万体町にある曹洞宗寺院「鳳林寺」の「本堂」がある
    この建物は1863年(文久3年)に二條家の当主・二條斉敬(にじょうなりゆき 1816-78)が関白太政大臣に任ぜられた際に叔父にあたる水戸烈公・徳川斉昭の水戸家がこれを祝して御所に隣接する二條家の本宅・今出川邸に建てた「宸殿」で「関白御殿」「銅駝御殿」などとも呼ばれ、第15代将軍・徳川慶喜は上洛すると従兄弟である斉敬を訪ね、この御殿で休息し会津の松平容保や土佐の山内容堂らと幕末の政情について会談したと伝わる
    明治維新後に二條家が東京に移住した後は、宮家士族の師弟を対象とした教育機関「平安義校」に貸し出されて旧公家や華族らの集会所とされた後、高等教育のための奨学金事業を行う「平安義會」に建物を下賜するとともに土地は払い下げられ、その後同志社が土地と建物を購入し、学校の敷地となるとともに、銅駝御殿は同志社女子専門学校の寄宿舎として利用された
    更にその後建物の方は鳳林寺に売却されることとなり、1959年(昭和34年)に山門とともに移築されている

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    一条家(一條邸跡・縣井)

    京都御所北西、乾御門のそば
    邸宅跡を示す標柱が建つほか、やや南側に一条邸の邸内にあり、明治天皇の皇后となった昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう 1849-1914)(一条美子)の産湯に用いられたといわれている「縣井」とそれを説明する駒札が建つ
    また京都三大祭の一つである「祇園祭」の山鉾では現在は生稚児を乗せるのは長刀鉾のみで、他の鉾は人形稚児を乗せているが、この人形稚児が最初に乗せられたのは1839年(天保10年)のことで「函谷鉾」が最初であった
    この時に人形のモデルとなったのが幕末の当主であった一条実良(いちじょうさねよし 1835-68)で、前述の明治天皇皇后・昭憲皇太后の異母兄にあたる人物
    人形稚児を制作することが決まった際、実良の父親にあたる当時の当主・一条忠香(いちじょうただか 1812-63)が制作を依頼された大仏師・七条左京から相談され、幼少期の実良の模写像の制作を快諾し実現したもので、完成した人形は実良の幼名から「嘉多丸君(かたまるぎみ)」と命名されている

公家屋敷跡(清華家)

五摂家に次ぐ家格とされる清華家(せいがけ)の一つで、近衛大将・大臣を兼任し、最高は太政大臣にまで昇進することができる家柄です。
主に三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・今出川の7家で、後に広幡・醍醐の2家を加えて九清華となりました。
北家支流の道長の叔父を流祖とする「閑院流」から3家(三条・西園寺・徳大寺)、閑院流の庶流が1家(今出川家)、頼通の子を流祖とする「師実流(花山院流)」から2家(花山院・大炊御門)、それに加えて村上源氏嫡流(久我)と正親町源氏嫡流(広幡)、そして五摂家の一条家の分家(醍醐)の全部で9つの家を指します。

このうち藤原道長の叔父である閑院大臣・藤原公季(956-1029)に始まる北家支流の「閑院流」は院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得。
その後、閑院流の5代目・藤原公実(1053-1107)の時代に3人の子によって三条・西園寺・徳大寺の主要三家に分かれます。
これらの家もその後いくつもの分家が生まれていますが、その中で西園寺家の庶流である今出川家(菊亭家)も清華家に数えられています。

次に久我家は第62代・村上天皇の第8皇子・具平親王の子である右大臣・源師房(1008-77)を祖とする「村上源氏」の嫡流で、師房の姉・隆姫女王が関白・藤原頼通の正妻となるなどその子孫も摂関家と深い姻戚関係を築いた家柄です。

藤原頼通の三男・藤原師実(1042-1101)を流祖とする「師実流(花山院流)」からは嫡流で師実の次男(頼通の孫)・藤原家忠(1062-1136)を家祖とする花山院家と、師実の三男(頼通の孫)・藤原経実(1068-1131を家祖とする大炊御門家の2つの家が清華家に数えられています。

そして残る2つのうち、広幡家は「正親町源氏嫡流」で信長・秀吉の時代に天皇であった第106代・正親町天皇(1517-93)の皇孫・八条宮智仁親王(桂宮の初代で桂離宮の造営者)の第3王子・忠幸王(1623-69)が臣籍降下して創設された家、また醍醐家は江戸時代に五摂家の一条家から分かれた家柄です。

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    三条家(転法輪家)(梨木神社)

    邸宅は梨木神社の西方、現在京都迎賓館のある付近にあった
    梨木神社は旧三条邸跡の東隣に幕末維新に活躍した三条実万(さねつむ)・三条実美(さねとも)父子を祭神として創建された神社で、名水「染井の水」で有名

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    西園寺家(西園寺邸跡・白雲神社)

    邸宅は京都御苑西、白雲神社の一帯にあった
    白雲神社の南側に邸宅跡を示す標柱と駒札が建つ
    琵琶の宗家でもあり、鎌倉期の西園寺公経は現在の金閣寺の地に別荘「北山堂」を造ったことで知られる
    明治に入り西園寺家が東京に移った後は地名の白雲村にちなんで白雲神社となった
    また旧邸内は第12・14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望が私塾「立命館」を創設した地でもある

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    徳大寺家(同志社大学大学院門)

    烏丸今出川交差点の北東角
    跡地は現在は同志社大学の図書館になっており、大学院門となっている徳大寺家旧表門のみが往時の名残りを留める

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    久我家

    京都御苑の北西、近衛邸の西、今出川交差点の南東角
    伏見区久我の地に所領があったといい地名としてその名が残る
    日本における曹洞宗の祖・道元は久我家の出身であるほか、幕末に岩倉具視を輩出した岩倉家は久我家の庶流(羽林家)
    跡地に石碑等はない

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    花山院家(宗像神社)

    京都御苑の南西
    宗像神社はその跡地に鎮座しており、境内に邸宅跡を示す「花山院邸跡」の石碑が建つ
    また境内の「花山稲荷大明神」は衣食住の守護神として伏見稲荷から邸内に勧請したもの

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    大炊御門家

    邸宅は西殿町北側にあった(九条邸の北側、五辻家と千種家の間)
    跡地に石碑等はない

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    今出川家(菊亭家)

    一条家の南
    琵琶の演奏を家業として朝廷に仕え、第12代晴季(1539-1617)は豊臣秀吉に関白職を斡旋して朝廷との調整役を務めるなど、豊臣政権とも密接な関係を築いた
    晴季夫人は鳥羽に隠居所を餅、後に常高寺という寺になり、境内には「今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡」の石碑が残る
    御苑の邸宅跡には石碑等はない

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    広幡家

    御所北の寺町通を上がった寺町通御霊馬場下ル(同志社ドーム鴨川付近)に邸宅があった
    跡地に石碑等はない

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    醍醐家(京都平安ホテル)

    御所西、今の京都平安ホテルの位置に邸宅があった
    跡地に石碑等はない

公家屋敷跡(大臣家)

五摂家、清華家に次ぐ家格で、清華家に準じて昇進し、大臣に欠員が出た場合には大納言から近衛大将を経ずに直接内大臣に昇進する家柄。

いずれも清華家の庶流から生まれ、嵯峨家(正親町三条家)・三条西家は三条家の庶流、中院家は久我家の分家という関係になります。

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    正親町三条家(嵯峨家)

    御苑の南東角に三条西と隣り合う
    家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実、近衛家の家礼
    明治期に漢字五文字が至便性に劣るとして嵯峨家に改めており、名の由来は菩提寺である二尊院が嵯峨に所在することから
    跡地に石碑等はない

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    三条西家

    御苑の南東角に正親町三条と隣り合う
    正親町三条の分家
    幕末期の当主・三条西季知は七卿落ちの一人として維新に際して勲功、また明治天皇の和歌師範を務めた
    跡地に石碑等はない

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    中院家(護王神社)

    蛤御門前付近
    邸宅跡には明治天皇の勅命により高雄神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀る護王大明神を遷し「護王神社」が創建された
    家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実
    跡地に石碑等はない

公家屋敷跡(羽林家)

鎌倉時代以降の公家の家格の一つで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置。

江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当し、近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで進むことができる武官の家柄です。

その数は非常に多く、藤原北家閑院流が23家、藤原北家花山院流が5家、藤原北家中御門流が9家、藤原北家御子左流が4家、藤原北家四条流が7家、藤原北家水無瀬流が5家、藤原北家高倉流が2家、宇多源氏が3家、村上源氏が8家あるといいます。

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    清水谷家(清水谷家の椋)

    京都御所南西角、蛤御門入ってすぐ
    清華家の一つ西園寺の庶流で、家業は能書・笙
    跡地には樹齢300年、幹周約4mの見事な椋の木が残る
    1864年(元治元年)の「蛤御門の変(禁門の変)」の際に長州藩の遊撃隊を指揮していた来島又兵衛が自刃した場所と伝わる

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    橋本家(橋本家跡・皇女和宮生誕の地)

    京都御所東、京都迎賓館西門の前
    清華家の一つ西園寺の庶流
    幕末の当主・橋本実麗の妹・経子は幕末の第121第・孝明天皇の父にあたる第120代・仁孝天皇の典侍として仕え和宮親子内親王の生母となる
    和宮はその後、14代将軍・徳川家茂に降嫁したことで知られる
    「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」の標柱および「橋本家跡」の駒札が建つ

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    中山家(中山邸跡・明治天皇生誕の地・祐井)

    京都御所北東の猿ヶ辻のそば
    清華家の一つ花山院家の庶流
    明治天皇の外祖父にあたる中山忠能の邸宅で、明治天皇は忠能の娘・慶子と孝明天皇の間に生まれ、この地で4年間養育されたと伝わる
    立派な門構えの先には明治天皇が産まれた「産屋」と幼少時代の名である「祐宮」にちなんだ「祐井」が残るほか、「明治天皇生誕の地」の標柱、門前には「祐井」の標柱および「中山邸跡」の駒札が建てられている

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    飛鳥井家

    御所北東、猿ヶ辻の南東
    藤原頼通の三男・藤原師実(1042-1101)を流祖とする師実流(花山院流)で藤原師実の五男・藤原忠教(難波忠教)を祖とする難波家の庶流
    家業は和歌・蹴鞠で、とりわけ蹴鞠の宗家としてよく知られている
    明治維新に伴い邸宅は東京に移転され、空き地となった堀川今出川交差点北東の邸宅跡は飛鳥井町の町名がつき、跡地に創建されたのが崇徳上皇を祀った白峯神宮である
    境内には飛鳥井家が邸内に祀り代々尊崇してきた鞠の守護神「精大明神」を祀る「地主社」があるほか、「蹴鞠の碑」が建てられている
    飛鳥井家の蹴鞠の伝統は白峯神宮の蹴鞠保存会によって受け継がれ、4月14日の春季大祭と7月7日の精大明神祭で蹴鞠奉納が行われるほか、1月4日の下鴨神社で奉納される「蹴鞠はじめ」も有名
    京都御苑内にあった邸宅の跡地に石碑等はない

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    冷泉家(上冷泉)(冷泉家住宅)

    京都御苑北側の今出川通沿いに位置
    道長の六男・藤原長家を祖とする子左嫡流の嫡流
    4代・藤原俊成と5代・藤原定家は歌人として有名
    定家の三男・藤原為家の子で定家の孫にあたる藤原為相(冷泉為相)を祖とし家業は和歌・蹴鞠
    公家屋敷の中で唯一現存

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    岩倉家

    堺町御門のやや東の丸太町通沿い
    村上源氏の流れを汲む清華家の一つ久我家の庶流で、久我晴通の子・久我具堯(岩倉具堯)(?-1633)を祖とする
    幕末・明治初期の当主岩倉具視の明治維新の功績により明治以降は公爵家に列した
    幕末に岩倉具視が数年の間左京区岩倉に隠れ棲んだ「岩倉具視幽棲旧宅」は現存するが、京都御苑内の邸宅跡には石碑等はない

公家屋敷跡(四親王家)

室町期から江戸期に4つの親王家が成立して明治時代に至り、その流れは現在の皇室にまで続いています。

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    伏見宮家(同志社女子大学・旧了徳寺)

    室町期の北朝第3代・崇光天皇の皇子・栄仁親王(よしひとしんのう 1351-1416)に始まり、第102代・後花園天皇は崇光天皇の皇曽孫だが、以降伏見宮からの皇位継承者はなし
    ただし伏見宮の血統に属する香淳皇后(こうじゅんこうごう 1903-2000)は昭和天皇の皇后であり、現在の皇室にもその血脈が受け継がれている
    また第20・23代・伏見宮邦家親王(くにいえしんのう 1802-72)は子宝に恵まれ、明治期に新たに創設された宮家を継いだ男子も多く、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけとなった
    邸宅は御所の北と東とに2か所所有していて、その時に当主の都合でどちらかを本邸にしていたという
    御所北部の邸宅跡は五摂家の一つである二条家邸宅跡の西隣で現在は「同志社女子大学」の敷地の一部に、御所東部の邸宅跡は鴨川デルタに近い河原町今出川交差点の南東(出町北鴨口)にあり「了徳寺」という寺であったが廃寺となっている
    また宮家の歴代菩提寺として相国寺塔頭の「大光明寺」があるほか、北の出町柳に残る「妙音弁財天(出町妙音堂)」の弁財天は伏見宮家の鎮守であったものを、宮家の東京移転の後に現在地に奉安したもの

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    桂宮家(桂宮邸跡・二条城本丸御殿)

    安土桃山期の1589年(天正17年)に豊臣秀吉の奏請によって第107代・後陽成天皇が宮家の創設を許可し生まれた宮家
    初代は第106代・正親町天皇の皇孫で後陽成天皇の第6皇子・智仁親王(としひとしんのう 1579-1629)で、当初は八条宮と称し、後に常盤井宮、京極宮を経て「桂宮」と改称された
    智仁親王は桂離宮の造営者として知られるほか、和歌に精通し、細川幽斎より古今伝授を受け、後に後水尾天皇に相伝したことでも知られている
    後継ぎに恵まれないことも多く、天皇または上皇の皇子が宮を継承することも多く、1881年(明治14年)に120代・仁孝天皇の第3皇女・叔子内親王(すみこないしんのう 1829-81)が亡くなったのを最後に宮家は途絶え、桂宮の親王が皇位を継承したことはなかった
    邸宅跡は京都御苑北、今出川御門の東側に位置し、跡地は京都御苑の官舎となっており立ち入り禁止エリアで、入口に勅使門があり、その門前に「桂宮邸跡」の標柱が建つ
    敷地内にあった今出川屋敷は宮家の断絶後は宮内庁に引き継がれ、1893年(明治26年)から翌1894年(明治27年)にかけ、当時は離宮であった「二条城」に御殿の一部が移築され、現在は二条城の「本丸御殿」となっている

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    有栖川宮家(有栖川宮邸跡・平安女学院大学有栖館)

    江戸初期の1625年、第108代・後水尾天皇の時代に第107第・後陽成天皇の第7皇子・好仁親王(よしひとしんのう 1603-38)が宮号を賜り創設され、当初は高松宮と称していたが、後に有栖川宮と改められた
    1654年に後水尾天皇の皇子で第2代・高松宮を継いでいた良仁親王が即位し第111代・後西天皇となっている
    第112代・霊元天皇の皇子・職仁親王(よりひとしんのう 1713-69)が有栖川宮第5代を継承した後は実際の血縁で継承されたが、大正時代に第10代・威仁親王(たけひとしんのう 1862-1913)が亡くなると継承者が不在となり途絶えた
    ただし有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって宣仁親王(のぶひとしんのう 1905-87)により引き継がれるとともに有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられている
    第9代・熾仁親王(たるひとしんのう 1835-95)は「王政復古の大号令」により新政府が樹立されて総裁・議定・参与の三職が新たに設けられるとその最高職である総裁に就任し、戊辰戦争が勃発すると自ら東征大総督の職を志願し東海道を進軍し江戸無血開城へと繋がり、その後も明治天皇の絶大な信認を得て天皇の名代として外国歴訪なども行った
    邸宅は江戸時代には御所の北東部分の猿ヶ辻の場所にあったが、1865年(慶応元年)に御所の拡張用地として召し上げられ、代わりに下賜されたのが京都御所中央、建礼門のすぐ南の凝華洞(御花畑)跡だったという
    移転後の邸宅跡を示す場所には「有栖川宮邸跡」の標柱と「凝華洞跡」の駒札、それに凝華洞跡のイチョウの大木があるのみであるが、遺構として建物の一部が邸宅跡の南西、御所西にある平安女学院大学に学舎の一つ「有栖館」として移築されている

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    閑院宮家(閑院宮邸跡)

    1710年(宝永7年)に徳川幕府が新井白石の進言に基づき奏請し、第114代・中御門天皇が勅許し創設された
    中御門天皇の弟で第113代・東山天皇の第6皇子・直仁親王を始祖として以来、実際の血縁で継承されたが、江戸末期に第5代・愛仁親王(なるひとしんのう 1818-42)が亡くなると、愛仁親王には嗣子がなかったため継承者が不在となり、愛仁親王没後は実母・鷹司吉子が当主格として遇された後、明治時代に入り1872年(明治5年)に伏見宮邦家親王第16王子・載仁親王(ことひとしんのう 1865-1945)が継承し第6代となった
    そしてその子である第7代・春仁王(はるひとおう 1902-88)の時代に終戦を迎え、皇籍離脱によって旧宮家となり、春仁王は閑院春仁と名乗る
    その一方で、閑院宮の血統からは1779年(安永8年)、後桃園天皇の崩御に伴って閑院宮第2代・典仁親王(すけひとしんのう 1733-94)の皇子・祐宮(さちのみいや)が践祚して第119代・光格天皇(こうかくてんのう 1771-1840)となり、以降第120代・仁孝天皇、第121代・孝明天皇、第122代・明治天皇・第123代・大正天皇、第124代・昭和天皇、第125代・平成天皇、そして第126代・今上天皇まで直系で続いており、現在の皇室は閑院宮の血統ということになる
    邸宅は京都御苑の敷地の南西角付近にあったといい、建物は閑院宮家が東京に移住する1877年(明治10年)まで邸宅として使用された後は華族会館、裁判所として使用され、1883年(明治16年)に旧宮内省京都支庁が設置される際に建て直された
    この「主屋」を含め閑院宮邸跡は2003年(平成15年)11月から2006年(平成18年)3月まで約3年をかけ環境省によって保存修復作業が行われ、「長屋門」などの建築物のほか、「築地塀」や池などの整備が行われ、更に2014年(平成26年)3月には「宮内省所長官舎跡」も整備された
    主屋には都御苑の自然や歴史についての写真や絵図などを展示する収納展示室も設けられ、2つの庭園とともに一般公開されている

公家屋敷跡(幕末創設の宮家)

1867年(慶応3年)12月9日「王政復古の大号令」に伴って天皇中心の国家体制への転換が図られると、明治天皇を補佐するために四親王家のほかに新たな宮家が創設されることとなりました。

当時宮家や天皇家を継がなかった皇族の子弟たちは仏門に入るのが通例でしたが、これらの仏門にあった皇族が還俗することで7つの宮家が新たに創設、四親王家と合わせて最大で11宮家となり、その後1868年(明治元年)に聖護院宮の薨去によって、更に1881年(明治14年)に桂宮が途絶えたことにより、9宮家となりました。

7つの宮は青蓮院から中川宮(→賀陽宮→久邇宮)、勧修寺から山階宮、仁和寺から仁和寺宮(→東伏見宮→小松宮)、聖護院から聖護院宮、知恩院から華頂宮、梶井円融院(現在の三千院)から梶井宮(→梨本宮)、そして照高院(現在は廃絶)から照高院宮(→北白川宮)。

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    賀陽宮家(賀陽宮邸跡・出水の枝垂れ桜)

    幕末に創設された宮家の一つで、伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王(あさひこしんのう 1824-91)が還俗して「中川宮」と称したのがはじまりで、1864年(元治元年)に屋敷内にあった榧(かや)の巨木にちなんで宮号を「賀陽宮(かやのみや)」と改められた
    朝彦親王は香淳皇后の祖父であり、平成天皇の曾祖父にあたる人物で、青蓮院門跡の第47世門主・第228世天台座主を務めたが、日米修好通商条約に反対し13代・徳川家定の後継問題で一橋慶喜を支持したことから大老・井伊直弼に目を付けられ、「安政の大獄」では隠居永蟄居を命じられる
    その後「桜田門外の変」で井伊が暗殺されると赦免されて復帰、孝明天皇の信任厚く還俗して中川宮となり、公武合体派の領袖として会津藩・松平容保や薩摩藩と結び、長州藩とこれを支持する公暁らを京都から追い出した「八月十八日の政変」を画策し成功を収めるも、そのことがきっかけて長州藩の恨みを買い「池田屋事件」では命を狙われることに(新選組の活躍で未遂に)
    孝明天皇の崩御後は討幕派・尊攘派の公卿は相次いで復権したことで立場を失い、更には反政府的な運動の建議で親王位をはく奪されて広島藩に預けられ、その後謹慎を解かれると1875年(明治8年)に新たに久邇宮家を創設しその初代となり、後に伊勢神宮の祭主も務めている
    1891年(明治24年)に朝彦親王が薨去すると、久邇宮は病弱であった第2男子・邦憲王(くにのりおう)に代わってその弟の邦彦王が跡を継ぎ、邦憲王は翌年の結婚を機に新たな宮家の創設を許され、1892年(明治25年)に江戸期に親王号を一時剥奪されるまで父が称していた賀陽宮の称号を賜わり、改めてその初代となった
    その後2代・邦憲王が跡を継いだが、戦後の1947年(昭和22年)にGHQの指令により10月14日に皇籍離脱となった宮家の一つである
    朝彦親王時代の邸宅跡は京都御苑南西、下立売御門の北に位置し、跡地の東側には邸宅跡を示す「賀陽宮邸跡」の駒札と朝彦親王の没後にその遺徳を偲び邸宅跡を記念して建てられた「貽範碑」があるほか、有名な「出水の枝垂れ桜」があり、烏丸通に近い西側は「出水広場」として整備され、「出水の小川」が流れている
    また初代・邦憲王の宮邸は京都と東京にあり、京都邸の跡地は三十三間堂の東隣にある京都パークホテル(現在はホテル・ハイアットリージェンシー京都)に、東京邸は空襲で焼失し千鳥ヶ淵戦没者墓苑になっている、その他に泉涌寺(御寺)に賀陽宮・久邇宮墓地がある

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    山階宮家(京都地方法務局)

    幕末に創設された宮家の一つで、山科の門跡寺院・勧修寺を相続し仏門にあった伏見宮邦家親王の第1王子・晃親王(あきらしんのう 1816-98)が還俗して創設
    晃親王は明治維新後は議定・外国事務総督に就任、明治天皇が最も頼りにしていたといい、若き明治天皇の名代として明治政府の外交トップとして活躍した、墓は泉涌寺雲龍院にある
    第3代・武彦王(たけひこおう 1898-1987)の時代に終戦を迎え、他の宮家同様に1947年(昭和22年)に皇籍離脱し、後は山階氏を名乗る
    御所東の南方に位置し、跡地は京都地方法務局になっている

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    仁和寺宮(東伏見宮・小松宮)家(里坊跡)

    御室にある仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り純仁法親王(じゅんにんほっしんのう)を号すとともに第30世門跡に就任していた伏見宮邦家親王の第8王子・嘉彰親王(よしあきしんのう 1846-1903)が明治天皇から還俗を命じられ創設
    22歳の若さで新政府の閣僚である「議定」に任ぜられるとともに、1868年(明治元年)の「鳥羽伏見の戦い」においては征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を拝し新政府軍の総大将として鳥羽方面へと進軍し、新政府軍の大勝利を導いた
    その後の戊辰戦争でも奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、明治維新の行方に大きな影響を与えた
    その後1870年(明治3年)に「東伏見宮」と改称し、1882年(明治15年)には維新以来の功績を顕彰され、称号を仁和寺の寺域周辺の旧地名「旧小松郷」にちなんで「小松宮」名を「彰仁」に改めた
    明治時代には長く陸軍の中枢で活躍し、陸軍大将、近衛師団長や兼議定官などを歴任、「日清戦争」の際には参謀総長・征清大総督として旅順に出征し、1898年(明治31年)には元帥府(終身の陸軍大将)に列せられている
    また社会事業として戦争犠牲者の救護にも努め、1877年(明治10年)には「博愛社」の創設に力を尽くし初代総長となり、1887年(明治20年)に「日本赤十字社」に改められると初代総裁となり、赤十字社の発展に尽くしたほか、国際親善としてヨーロッパ各国を歴訪し、また大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務めるなど、皇族の公務の原型を作る一翼を担った
    赤十字社の活動に貢献したことにより東京・上野恩賜公園(通称・上野公園)の上野動物園入口ゲートの途中左手に騎乗姿の小松宮の銅像が建立されている
    小松宮彰仁親王には子がいなかったため、その没後に小松宮(こまつのみや)の祭祀は、仁和寺宮の弟にあたる伏見宮邦家親王の第9王子・北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう 1847-95)の4男・輝久王(てるひさおう 1888-1970)が小松輝久として臣籍降下し、小松侯爵家を名乗るとともに継承した
    輝久は終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、戦後は平安神宮の宮司を務めたほか、その輝久の孫にあたる小松揮世久(こまつきよひさ 1949- )は実業家として活躍した後、2017年(平成29年)からは今上天皇(1960- )の妹・黒田清子(くろださやこ 1969- )祭主の新体制の下で、伊勢神宮の大宮司を務めている
    幕末の仁和寺宮の里坊跡の位置は京都御所(禁裏)の南門前にある有栖川宮邸のすぐ南、西園寺邸の隣
    また関連史跡としては法金剛院の裏手、裏山の北麓に小松宮彰仁親王の髪塔がある「仁和寺宮墓地」、静岡県三島市一番町に彰仁親王の別邸として造営され、現在は市営の公園・動物園となっている「楽寿園(らくじゅえん)」、高野山に弘法大師空海によって開創された真言密教修行の根本道場「金剛峯寺」の西隣にあり、小松宮彰仁親王(楞厳定院御室)の位牌や親王が名付けた樹齢千年以上といわれている白藤「登龍の藤」がある「總持院(そうじいん)」などがある
    親王夫妻の墓所は皇族方の集合墓地である東京の「豊島岡墓地(としまがおかぼち)」にあり、また東京の邸宅跡には現在明治大学の駿河台キャンパスがあり、リバティタワーが建てられている

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    聖護院宮(北白川宮)家

    聖護院に入寺していた伏見宮邦家親王の第2王子・嘉言親王(よしことしんのう 1821-68)が1868年(慶応4年/明治元年)に還俗して「聖護院宮」を名乗るも、同年に薨去
    弟宮であり元は同じく聖護院預かりとなっていた伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王(さとなりしんのう 1856-72)は1868年(慶応4年)に還俗し「照高院宮」を称していたが、聖護院宮を継承して初代となる
    1870年(明治3年)に宮号が旧門跡との区別が判然としないとの理由で「北白川宮」に改称
    その後、第5代・道久王(みちひさおう 1937-2018)の時代に終戦を迎えて1947年(昭和22年)に他の宮家とともに皇籍離脱して北白川道久を名乗る
    東京にあった邸宅は最初が紀尾井町にあり、長らく赤坂プリンスホテルが営業を続けていた場所、その次に建てられたのが港区高輪で新高輪プリンスホテルのある場所
    幕末に聖護院宮の里坊があったのは御所の東、三条家の北側あたりで、現在一帯は京都迎賓館になっている
    智成親王墓・聖護院宮墓地(地蔵谷・丸山)が京都の北白川天神宮の前を通る府道30号下鴨大津線(志賀越道)を滋賀方面に進んだ先にある

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    華頂宮家

    1868年(慶応4年)に知恩院に入寺していた伏見宮邦家親王の第12王子・博経親王(1851-76)によって創設
    知恩院の山号である華頂山にちなむ
    その後3度にわたって断絶の危機に瀕し、皇族の数が少なかったことから特旨をもっての存続が繰り返され、第4代・博忠王が1924年(大正13年)に薨去すると博忠王に王子女がなかったため華頂宮家は断絶
    華頂宮家の祭祀は博忠王の弟・伏見宮博信王が1926年(大正15年)に20歳で海軍少尉の時に臣籍降下して華頂侯爵家を創設して承継した
    華頂侯爵の旧邸は鎌倉市にあり、1996年に鎌倉市が取得した上で旧華頂宮邸として庭園部分が一般に公開されている
    幕末に知恩院宮の里坊があったのは御所の南に位置した有栖川宮の南側、仁和寺宮里坊の東隣

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    梨本宮(梶井宮)家

    幕末に創設された宮家の一つで、梶井円融院(現在の三千院)を相続した伏見宮貞敬親王の第10王子・守脩親王(もりおさしんのう 1819-85)が還俗して「梶井宮」と称し、次いで1870年(明治3年)に「梨本宮」と改称
    第3代・守正王(もりまさおう 1874-1951)の時代に終戦を迎え、他の宮家と同様に1947年(昭和22年)に皇籍離脱し梨本家を名乗る
    御所東、河原町今出川交差点の南東に位置する伏見宮邸跡の南側に位置し、跡地は京都府立医科大学の体育館や聖ドミニコ学院などの施設になっている
    遺構としては二条城の東大手門前にあるHOTEL THE MITSUI KYOTO(以前は京都国際ホテル)に移築された「梶井宮門」がある
    「梶井宮門」は1703年(元禄16年)に梶井宮御殿の門として河原町今出川周辺に創建され、その後1935年(昭和10年)に250年以上にわたってこの地に存在した三井総領家(北家)の邸宅門としてこの地に移築されたという
    2020年(令和2年)11月に「HOTEL THE MITSUI KYOTO」の表玄関として修復が行われ、2021年(令和3年)に登録有形文化財に登録された

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    照高院宮家

    聖護院に入寺していた伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王(さとなりしんのう 1856-72)は1868年(慶応4年)に照高院の院主に任じられた後、維新政府の方針によって還俗し「照高院宮」を創設したが、同年更に聖護院宮を創設していた兄宮である伏見宮邦家親王の第2王子・嘉言親王(よしことしんのう 1821-68)が薨去したため、聖護院宮を継承することとなりその初代となった
    聖護院宮はその後、1870年(明治3年)に宮号が旧門跡との区別が判然としないとの理由で「北白川宮」に改称され、終戦直後まで続いた
    北白川宮家は他の宮家同様に1875年(明治8年)には東京に移転しているが、照高院はこの宮家の東京移転に伴っての堂宇が取り壊されており現存していない
    豊臣秀吉の信任が厚かった道澄が文禄年間(1592-96)に東山妙法院に創建したが、方広寺鐘銘事件(1614年)に連座して廃絶された後、1619年(元和5年)に後陽成天皇の弟・聖護院興意法親王(1576-1620年)が、廃城が決まった伏見城二の丸の松の丸の建物を譲り受けて北白川外山町付近に再建され、寺紋に菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」「北白川御殿」と呼ばれていたという
    江戸後期には聖護院門跡の支配下にあり、聖護院門主の退所であった
    照高院は左京区北白川外山町にあったが、その地は北白川天神宮の東方、御殿橋を渡った先に位置するが、現在は石垣が残るのみ
    またこの跡地のやや北西の左京区北白川山ノ元町に「照高院宮址」の石碑が建てられているという

公家屋敷跡(その他)

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    土御門第跡

    京都御苑東、京都迎賓館の南、清和院御門のそば
    平安期に藤原氏全盛を築いた藤原道長の邸宅跡
    跡地を示す駒札が建つ

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    枇杷殿跡

    京都御苑西、梅林の北
    平安中期の公卿・藤原仲平の屋敷跡
    跡地を示す駒札が建つ

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    凝華洞跡のイチョウ(凝華洞跡)

    建礼門の南、大通りを挟んで白雲神社や西園寺邸跡の向かいに位置
    江戸初期に後西天皇が退位後の仙洞御所としたほか、幕末には会津藩主・松平容保が仮の宿舎とし「禁門の変」の際にはここで指揮を執ったといい、その後有栖川宮邸がここに移された
    現在は跡地を示す駒札が立つほか、区民誇りの木に指定されている銀杏の木が残るのみ

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