「冷泉家住宅」は京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町、京都御苑の北、御苑と同志社のキャンパスに挟まれ今出川通に南面した場所にある冷泉家の屋敷で、唯一完全な姿で現存する最古の公家住宅。
この点「冷泉家」は、平安~鎌倉期に活躍した歌人・藤原俊成(ふじわらのとしなり 1114-1204)、藤原定家(ふじわらのていか 1162-1241)父子の子孫にあたる家系で、定家の孫の冷泉為相(れいぜいためすけ 1263-1328)を祖とし、家名は平安京の東西を走る冷泉小路、現在の夷川通に建てられた冷然院に由来するといいます。
そして「歌聖」と仰がれた藤原定家の正統を継ぐ「和歌の家」として約800年の長きにわたり代々歌道をもって朝廷に仕え、明治時代には伯爵に列せられた由緒ある家柄です。
現在、今出川通を挟んで南側には京都御所を囲むような形で「京都御苑」がありますが、この京都御苑となっている部分を含む御所周辺には豊臣秀吉によって公家町が形成され、江戸時代までは数多くの宮家や公家の住宅が立ち並ぶ場所でした。
しかし明治に入って間もなくの天皇の東京行幸とともに大半の公家が東京に移り住んだことからそれらの屋敷は空き家となり、治安維持のために取り壊されて公家町は消滅、その跡地には市民憩いの広大な公園として整備されたのが現在の「京都御苑」です。
冷泉家も江戸初期の元和年間(1615-24)(慶長年間とも)以来、公家町の一画にあたる京都御所北側の現在地に屋敷を構え居住してきましたが、公家の大半が天皇に同行して東京へと移住する中で留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、400年にわたる近世初頭以来の土地を守り続けることとなり、更に冷泉家には御文庫といわれるかつては勅封だった蔵があり、かつ京都御苑の外に建てられていたことから建物の取り壊しを免れたといいます。
そして敷地内に建てられた建造物は江戸後期の1788年(天明8年)に発生し御所を含む都の過半を焼き尽くした「天明の大火」にて御文庫などの土蔵以外の建物はすべて焼失していますが、座敷は1790年(寛政2年)にすぐに再建されて現在まで伝えられており、京都に数多く建造された中でほぼ完全な形で唯一現存。旧制の配置構成を忠実に伝える貴重な公家屋敷の遺構として、1982年(昭和57年)2月に冷泉家の座敷及び台所、御文庫、台所蔵、表門が国の重要文化財に指定されています。
1994年(平成6年)からは足かけ7年の歳月をかけて解体修理工事が行われ、2000年(平成12年)の末に竣工。この際に寝殿造の殿舎の中程がやや膨らんだ形が特徴的な起り屋根(むくりやね)が元々の柿葺(こけらぶき)に戻されるといった作業も行われ、往時の瀟洒な姿が甦っています。
また邸内の「御文庫」には800年の長きにわたって秘蔵された歌書を中心とする冷泉家に伝来する典籍や古文書などが保存されていて、その数は長家・俊成・定家以来の家学である和歌に関するものを中心2~3万点にのぼるといい、1197年(建久8年)に式子内親王の要請で献上された歌論書藤原俊成自筆の「古来風躰抄(こらいふうていしょう)」をはじめ、藤原定家筆の勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」や自撰集「拾遺愚草」、そして当時の文学界や政治情勢、生活様式などを知る上で重要な史料である定家の日記「明月記(めいげつき)」の国宝が5件、重要文化財が48件のほか、これまで知られなかった貴重な典籍も多く所蔵されています。
その中には中世から近世にかけその時代の公家や武家の手で書き写されて流布したものも多く、伝統文化の継承と新しい文化の形成に重要な役割を果たしました。
更に邸宅においては、古来の伝統に準じた歌会を定期的に開催するほか、七夕の「乞巧奠(きっこうてん)」をはじめとする宮廷生活の伝統文化を今に伝える年中行事が現在に至るまで守り伝えられています。
そして「冷泉家時雨亭文庫」は、これら冷泉家に伝わる典籍・古文書類と住宅、および冷泉家歌道とそれに関する行事などの貴重な文化遺産を、将来にわたり総合的かつ恒久的に継承保存していくことを目的に、1981年(昭和56年)4月に財団法人として設立され、2011年(平成23年)4月に公益財団法人へと移行。その名称は藤原定家の嵯峨野の山荘の名「時雨亭」に由来しているといいます。
財団では設立以来、冷泉家住宅の解体修理や定家の日記である国宝「明月記」60巻などの修理修復を行ったほか、冷泉家がこれまで約800年にわたって守り続けてきた歌書などの貴重な書物や典籍類を写真撮影・複製する形で初めて公開した「冷泉家時雨亭叢書」全84巻が刊行されるなど、伝統文化の振興・発展に寄与する様々な取り組みがなされています。
この「冷泉家住宅」は通常は非公開ですが、これまでにも何度か公益財団法人京都古文化保存協会による「京都非公開文化財特別公開」の開催という形で内部の公開などが行われています。