京都市上京区の京都御苑内の南西、烏丸丸太町の交差点から徒歩5分くらいの距離にある神社。
白雲神社、厳島神社とともに京都御苑内にある3つの神社のうちの一社です。
祭神は宗像三女神(宗像大神)である
長女の多紀理毘売命 多紀理姫命 多紀理比売命(たきりひめのみこと)
次女の多岐津比売命 多岐津姫命 多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
三女の市岐嶋比売命 市岐嶋姫命 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
を主祭神に天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が合祀されています。
この点、宗像大神(むなかたのおおかみ)は「古事記」や「日本書紀」などの日本神話において、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた五男三女神のうちの三女神、即ちアマテラスがスサノオの十束剣を口に含み、三つにかみ砕き吐き出した霧から生まれた三女神で、「天孫を助け奉りて、天孫の為に祭かれよ」とのアマテラスの神勅により日本の建国=天孫降臨に先立って九州から半島、大陸へとつながる海の道「海北道中(うみきたのみちなか)」たる玄界灘に浮かぶ島々に降臨。
別名「道主貴(みちぬしのむち)」とも呼ばれ、全ての道を司る神の最高神として航海の安全や交通の安全を祈願する神様として崇敬を集めています。
現在も福岡県宗像市の沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)に多紀理毘売命、筑前大島の中津宮(なかつぐう)に市寸島比売命、そして田島の辺津宮(へつぐう)に多岐都比売命を祀る宗像大社を総本宮として広島県の厳島神社や江ノ島の江島神社など日本全国各地に祀られているほか、三女のイチキシマヒメが美人で水の神様だったことから、神仏習合によってインドの仏教神・弁天(弁財天)と同一化され、七福神の一員としても信仰されてきました。
京都御苑内にある宗像神社は平安京遷都の翌年である795年(延暦14年)、北家藤原氏の祖で後の太政大臣・藤原冬嗣が桓武天皇の勅命により、皇居鎮護、平安京の東西両市の守護神として筑前国(福岡県)の宗像神社を勧請し、自邸である東京第(東京一条第とも)の西南隅に祀ったのがはじまりで、その後冬嗣の自邸小一条第に移されたと伝えられています。
そして小一条第はその後、藤原北家の一族である花山院家が相続したことから同家が別当となり、その鎮守社として邸内に祀られました。
やがて周辺の公家邸と共に京都御所の中に編入されますが、明治維新後の天皇の東京行幸に伴い公家町は消滅すると、花山院家の邸宅は廃せられて社殿のみが残り、府社・宗像神社として現在に至っています。
御所の弁天様と親しまれ、家内安全、交通安全、家運隆昌のほか、安産招福、健康、勧学などにもご利益があるといわれていますが、現在は京都御所の裏鬼門(南西)に位置することから「方除け」の神として人々から信仰を集め、とりわけ建築関係者の参拝が多いといいます。
歴代皇室とのつながりも深かったことから「応仁の乱(1467~77)」の兵火などで焼失するも、その都度再建されており、現在の社殿は江戸後期の安政年間(1854-60)に再建されたもの。
そして本殿のほかにも花山稲荷神社、繁栄稲荷社の二つの稲荷社のほか、京都観光神社、小将井神社(八坂神社の御旅所)、金比羅宮などが境内社として祀られています。
このうち「京都観光神社」は参道の左側にあり、1969年(昭和44年)に恵まれた観光都市・京都に感謝の念を表すため、京都の観光に携わる関係者たちが集まって、道案内の神様である猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を迎えて建立。観光で京都を訪れる観光客の無事息災と、京都の観光業界のより一層の発展・家運隆昌が祈願されています。
また京都御苑内に鎮座していることから、周囲を森に囲まれ木々は豊かで、巨大な楠が2本あることでも知られ、特に境内北、正面から入った右側の花山稲荷社のそば、本殿背後の大楠は巨大で樹齢600年といわれ、京都市内でも最高齢の木の一つです。
そして境内南端にあるもう1本は鳥居を入った右手にあり、樹齢400年といわれ、アオバズクが営巣していることでも有名です。
この他にも1~2月の水仙、春は椿や白木蓮やレンギョウのほか、4月上旬の御所の紫宸殿の南庭の左近の桜を移植したという桜、秋は10~11月にカリンの実、更に晩秋11月中旬から下旬の紅葉と四季折々の草花が楽しめることでも知られています。
行事としては9月15日の例祭の後の日曜日又は祝日に、神賑いの日として神楽舞など奉納を行っているほか、秋には花山稲荷神社・京都観光神社の祭礼もあり、神楽舞やヴァイオリンのミニコンサートなどの奉納行事も行われています。