京都市左京区北白川仕伏町、世界遺産の銀閣寺(慈照寺)の北方、京都市街地から滋賀県の大津へと抜ける志賀越道沿いに鎮座する神社。
北白川地区の産土神として信仰を集めるほか、祭神として建国神話に登場する少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ることから医療の神として病気回復祈願に訪れる人も多い神社です。
なお「天神宮」とあるものの菅原道真に関連する天満宮ではなく祭神も菅原道真ではなく少彦名命(すくなひこなのみこと)であり、名前も正しくは「てんじんぐう」ではなく「てんしんぐう」と読まれます。
「北白川」は五山の送り火で有名な「如意ヶ嶽(大文字山)」と「比叡山」との間の山裾に位置し、比叡山の山麓から花崗岩を侵食して流れる「白川」の扇状地としてできた台地で、一帯では北白川縄文遺跡群など多数の遺跡が残されているように1万年を超える縄文時代より集落が営まれ、平安時代には南西に京都盆地を望む風光明媚な白川街道には洪水に悩む宮廷の貴族や大宮人たちがこぞって山荘を営み、その理想郷として栄えた場所だったといいます。
当社の創建の経緯は不明ですが、社伝によると延喜以前の8世紀前半の奈良時代に現在地よりやや西の白川村の「久保田の森」、現在の白川通今出川の交差点の西北にある北白川久保田町付近に祠を建て、少彦名命を「天使大明神」と称して祀ったのがはじまりで、以来「北白川」地域一帯の鎮守神としての信仰を集めていたといいます。
「少彦名命(すくなひこなのみこと)」は日本神話において、常世(とこよ)の国からやってきた小さな神様で、国譲りの神として有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)と契りを交わし、ともに「国作り」を行なったことで知られていて、山を造り、島を造り農業技術を普及させたほか、酒造りを広めた事で知られ、また酒は消毒の役目もあったことから「酒造」および「医薬」の神、ひいては健康長寿・福徳開運の神としても崇められている神様です。
その後、室町時代の1482年(文明14年)に室町幕府8代将軍・足利義政が東山殿、現在の銀閣寺を造営するにあたって久保田の森にさしかかった際、にわかに馬がいななき前へ進まなくなったので家臣に調べさせたところ、この森に祠があることが判明し、その神威を感じて王城鎮護の神として東北の鬼門にあたる千古山(せんこやま)より続く明神の森、北白川仕伏町の現在地に遷座したと伝わっています。
江戸初期の1619年(元和5年)、第107代・後陽成天皇の弟・興意法親王(1576-1620)が桃山時代に豊臣秀吉の信任厚い僧・道証が東山妙法院の地に開基した照高院(しょうこういん)」を伏見城の建物を譲り受けて北白川外山町付近に再建すると「天使大明神」は天皇家から篤い崇敬を受けるようになり、1673年(寛文13年)には照高院宮第5代・道晃法親王の崇敬を受けて宮家の御祈願所となり、石製の大鳥居や「天神宮」と記された神号額を寄進され、以後「北白川天神宮」と呼ばれるようになりました。
ちなみに照高院は第6代・忠譽法親王の時代より聖護院に属し、明治期に入った1870年(明治3年)に門主の智成法親王が還俗すると「北白川宮」と称し、1875年(明治8年)の宮家の東京移転に伴って取り壊され廃寺となり、歴代法親王の祈願所だった天神宮は現在は地元の産土神となっていますが、現在も付近の北白川地蔵谷には聖護院宮墓地があるほか、北白川天神宮の「神輿」や「御旅所」などには「菊の御紋」が残されています。
志賀越道沿いの入口から白川に架かる萬世橋を渡り、石畳の参道を奥へと進むと深い森に囲まれた境内が参拝者を出迎えますが、これらの境内の木々のうち3本が京都市の区民誇りの木に選定されています。
そしてそこから133段の石段を上がった先に拝殿や本殿のほか、春日社、八幡社、日吉社、加茂社、稲荷社などの摂末社が立ち並んでいます。
また北白川の地は古くから「白川石」や「白川砂」の産地であり、花の里としても知られている場所で、以前は男は石工になり、女は花を作って「白川女」として都へ行商に出るのが一般的だったといい、境内にはそれに関連した史跡も見受けられます。
白さが際立つ白川石や白川砂は全国の神社仏閣や御所や天皇陵などの庭園に数多く用いられ、京都の石屋の大半は北白川出身だったといいますが、現在は採取が禁じられ石屋の数も数軒を残すのみとなっているものの、その秀でた技術は路傍に置かれた石や神社前に架かる橋、また境内の石段途中に置かれた石恩と記された記念碑などにその名残りを留めています。
一方で白川の里は水はけの良い花崗岩の地質が花の栽培にも適していたため、平安時代から花所として知られ、束ねた花を頭に戴いて宮中へ献上したり仏花や榊を入れて京の町を流して歩いていた「白川女」の里として知られていました。
現代に入っても昭和30~40年頃までは花畑の多いエリアであったといいますが、多くが姿を消して白川女の数も激減し、現在は主に「白川女風俗保存会」によって文化活動として継承され、「時代祭」の献花行列などのイベントや行事の中でその白と黒の鮮やかで立体的な衣裳を見ることができます。
境内には本殿へ向かう石段の入口の脇に「花塚」および「白川女顕彰碑」が建てられているほか、毎年10月の「秋季大祭」の巡行行列では小学生低学年の女の子たちで構成される「こども白川女」が神輿やお稚児さんらとともに町内を練り歩きます。
また行事としては1月成人の日の前日に開催される「古式御弓神事」や10月の体育の日前日に開催され神輿や剣鉾などが氏子区域を巡行する「秋季大祭」が知られていますが、中でも秋季大祭の還幸祭の1週間前に行われる小芋や大根なます、きざみ鯣(するめ)などの野菜を円錐形に高く盛った神饌を白川女姿の女性が頭上に乗せて行列し、神前に供える「北白川高盛御供(高盛御本膳献饌の儀)」は北白川独特の儀式であり、また平安遷都以前からの神饌の姿を今に伝える行事として「京都市登録無形民俗文化財」にも指定されています。
その他にも参道途中の白川に架かる「萬世橋」の左右には糸桜と呼ばれる枝垂れ桜が多く植えられており、春は知る人ぞ知る桜の隠れた名所となります。