京都市上京区京都御苑、烏丸通と丸太町通の交差する地下鉄丸太町駅に近い京都御苑の敷地内の南西角にある宮家の邸宅跡。
「閑院宮(かんいんのみや)」は伏見宮、桂宮、有栖川宮と並ぶ室町期から江戸期に成立して明治時代に至り、その流れは現在の皇室にまで続いているという4つの親王家「四親王家」の一つ。
この点、室町期に成立した伏見宮家、安土桃山期に成立した桂宮家、そして江戸初期の1625年(寛永2年)に有栖川宮が創設されて以来、新宮家の誕生は長らくなく、その一方でその当時は皇位継承予定者以外の親王は例外を除き出家して法親王となり、門跡寺院などに入寺することが半ば慣例となっていました。
ところが1654年(承応3年)に第110第・後光明天皇(ごこうみょうてんのう 1633-54)が22歳で崩御した際、近親の皇族男子がほとんどど出家していたため後継問題で紛糾、これをきっかけとして皇統の断絶を危惧した江戸中期の儒学者で5代将軍・徳川家宣の側近として仕えた新井白石(あらいはくせき 1657-1725)は徳川将軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新たな宮家が必要と幕府に建言し、この進言に基づいて朝廷に奏請の後、第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう 1702-37)が勅許し1710年(宝永7年)に創設されたのが当宮家です。
その中御門天皇の弟で第113代・東山天皇の第6皇子・直仁親王(なおひとしんのう 1704-53)を始祖とし、以降は実際の血縁で継承されていきましたが、江戸末期に第5代・愛仁親王(なるひとしんのう 1818-42)が亡くなると、愛仁親王には嗣子がなかったため継承者が不在となり、愛仁親王没後は実母・鷹司吉子が当主格として遇された後、明治期に入った1872年(明治5年)に伏見宮邦家親王第16王子・載仁親王(ことひとしんのう 1865-1945)が継承し第6代となりました。
そしてその子である第7代・春仁王(はるひとおう 1902-88)の時代に終戦を迎え、他の宮家と同じく1947年(昭和22年)の皇籍離脱によって旧宮家となり、春仁王は閑院春仁と名を改めています。
その一方で、閑院宮の血統からは1779年(安永8年)、第118第・後桃園天皇(ごももぞのてんのう 1758-79)の崩御に伴って閑院宮第2代・典仁親王(すけひとしんのう 1733-94)の皇子・祐宮(さちのみいや)が践祚して第119代・光格天皇(こうかくてんのう 1771-1840)となり、以降第120代・仁孝天皇、第121代・孝明天皇、第122代・明治天皇・第123代・大正天皇、第124代・昭和天皇、第125代・平成天皇、そして現在の第126代・今上天皇まで現在の皇室に直系で続いており、このため閑院宮第2代・典仁親王には明治期になってから「慶光天皇」の諡号および太上天皇の尊号が贈られています。
この「閑院宮」の明治維新前の邸宅は、他の宮家や五摂家などの公家と同様に現在の京都御苑を中心とする御所周辺にあり、一帯には当時は宮廷や公家屋敷が建ち並ぶ公家町が形成されていましたが、1869年(明治2年)の天皇の東京行幸に伴って宮家や公家は東京に移住することとなり、御所の周辺にあった公家屋敷などの建物や庭園などは1877年(明治10年)に始まった「大内保存事業」によってその大半が撤去されました。
それでも九条家や桂宮家、中山家、近衛家などの邸宅跡には一部の遺構が残っており、貴重な史跡となっていますが、現在の京都御苑の南西に位置する場所にあった閑院宮の邸宅跡も貴重な遺構が残るうちの一つです。
この点、創建当初の1716年(正徳6年)に建てられた建物は1788年の「天明の大火」で焼失しており、現在の建物との関係など詳しいことは不明ですが、再建された建物は閑院宮家が東京に移住する1877年(明治10年)まで邸宅として使用された後、華族会館、裁判所として使用されました。
そして1883年(明治16年)に旧宮内省京都支庁が設置される際に建て直されたのが現在の「主屋」だといい、その時に新築されたとの記録は残りますが、建設決定から竣工までわずか3か月足らずの緊急工事であったため、一部に当時存在していた閑院宮邸のものと推察される部材が利用されたとみられるものを見ることができるといいます。
この建物は長年の使用で屋根の雨漏りや建物の傾き、壁の破損などが進み、その間も宮内省から厚生省、そして環境省へと所管が変わりましたが、環境省の所管となった後の2003年(平成15年)11月から2006年(平成18年)3月まで、約3年をかけて閑院宮邸跡の保存修復作業が行われることとなり、「長屋門」などの建築物のほか、「築地塀」や池などの整備が行われるとともに、施設内には京都御苑の歴史や意義などを知ることのできる展示室も設置され、2006年(平成18年)4月から一般公開が行われています。
現在の邸宅跡は敷地面積が約11,400平方メートル、「主屋」は約860平方メートルの規模で、東門から入場すると正面に千鳥破風を構えた車寄せと、左右に続く書院造の格式ある建物の外観が見えてきます。
この主屋には中庭を囲むようにして木造平屋建の4つの棟が口の字型に配置されており、東棟は「玄関・受付・便所」、廊下によって接続された南棟は京都御苑の自然や歴史について知ることができる写真・絵図などの資料の展示を行う「収納展示室」があり、また磨き抜かれた欅材の床板に新緑が映りこむ「床もみじ」は邸内の見どころの一つとなっています。
続く西棟は「レクチャーホール」、渡り廊下を経て北棟は財団法人国民公園協会京都御苑の事務所となっており、この主屋を囲むようにして2つの庭園が南東側と南西側に広がっています。
主屋からも眺めることができる南東側の池泉回遊式庭園は江戸中期の作庭、京都御所や仙洞御所などの皇室の庭園でも見られる洲浜を有する庭園で、かつてはもっと大きな池泉式の庭園だったと伝わっていますが、現在の庭園は江戸時代の洲浜の遺構は地中に残しつつ、その上に同じ形で復元されたものだといいます。
そして園路を奥へと進んだ先にあるもう一つの南西側の庭園は1892年(明治25年)に閑院宮邸跡の敷地内に「宮内庁京都所長官舎」が建造された際にその庭園として大正期に作られたと伝えられていて、この所長官舎は現在は撤去されていますが、明治期に建造された歴史ある関連施設として2014年(平成26年)3月に間取りおよび庭園が復元整備され「宮内省所長官舎跡」として公開されています。
宮家の復元施設は貴重な存在であり、撤去された官舎の部屋割りを木枠で示すほか、建物の基礎と沓脱石・手水鉢・庭園などの遺構を案内板の説明とともに見学、当時の雰囲気を偲ぶことができるようになっています。