京都市左京区聖護院にある天台宗系の単立寺院で本山修験宗の総本山で、本尊は不動明王。
いわゆる山伏の寺で、日本の「修験道」の中心寺院の一つ。
修験道は1300年ほど前、役行者神変大菩薩(634~701)が開いた、日本古来の山岳信仰や自然崇拝を起源とし、民俗信仰と仏教・道教などの思想が融合してできた宗派で、出家・在家を問わず、実修得験、すなわち理論よりも実践を重視し修行体験によって人格を高め徳を験わし、現実の人生に極楽浄土を築いて行こうとする宗教です。
聖護院はその役行者から続く法灯を継いでいる寺院で、近世以降に修験道は江戸幕府の政策もあって本山派・当山派の2つに分かれましたが、このうち「本山派」の中心寺院です。
また江戸後期に2度にわたり「仮御所」となったほか、元は天台宗寺門派大本山で円満院、実相院とともに天台三門跡(もんぜき)の一つにも数えられ、代々法親王(皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する「門跡寺院」として高い格式を有する寺院でもあります。
平安初期に智証大師円珍により創建と伝わり、初めは「常光院」と称したといいます。
その後、1090年(寛治4年)に白河上皇の熊野三山参詣の際に先達を務めた増誉が、その功として上皇の勅願により寺院を与えられて中興。天皇をお護りするという意味の「聖体護持」という言葉から「聖護院」と名付けられました。
またこの際に上皇よって熊野三山検校職(別当)に任ぜられるとともに、全国の修験者の統轄を命ぜられ、以後寺は修験道と深い関係を持つようになり、最盛期には全国に2万余の末寺を抱えていたという一大修験集団となりました。
その後、1613年(慶長18年)より山伏を統括する天台修験道本山派の本山となり、1962年(昭和37年)には本山修験宗を設立し今日に至っています。
一方、平安末期に後白河天皇の皇子・静恵法親王が4代目門主として入寺して以後、代々法親王が入寺して跡を継ぐ「宮門跡」が慣例となり、明治維新まで337代門主のうち、25代は皇室、12代は摂家より門主に選ばれています。
また当寺の門跡が三井寺(園城寺)長吏と熊野三山別当も兼ねるようになりました。
伽藍については、創建当初は現在の場所にありましたが、「応仁の乱(1467~77年)」の兵火や三度の火災に見舞われ、洛北岩倉や烏丸今出川など各地を転々とし、その後、江戸時代に入り1676年(延宝4年)に現在地に戻って再建され現在に至ります。
ちょうど後水尾天皇の皇子・道寛法親王の時代のことで、現在の本堂・宸殿・表門・書院・玄門などの伽藍はその時建築されたもの。
このうち書院は御所の女院御殿(後水尾天皇御側室の書院)を賜わったもので、江戸初期の書院の例を示すものとして国の重文指定。また2000年には役行者一千三百年御遠忌を記念して全国の教信徒の協力を得て数年かけ宸殿の修理も行われています。
また1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の二度の皇居火災の際には聖護院がそれぞれ光格天皇、孝明天皇の仮皇居となり、政務が執り行われました。
この由緒から1936年(昭和11年)に「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されています。明治維新後は山階宮の在所にもなりました。
ちなみに1799年(寛政11年)、光格天皇は聖護院にて役行者に「神変大菩薩」との諡号を贈っており、以来、役行者を礼拝する際に「南無神変大菩薩」と唱えるようになりました。
寺宝も豊富で、書院や宸殿の内部には数々の仏像や光格天皇遺品の屏風のほか、建物内部の壁一面を狩野益信永納等の狩野派の絵師による襖絵170面が占めています。
その他にも修験道の資料や什物も多数所蔵しており、重文指定されているものも多くあります。
明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけて聖護院の森が広がっていたことから「森御殿」「御殿」の別名で呼ばれ、森の紅葉が錦の織物の様に美しいため「錦林」と呼ばれていました。
そして京野菜の一つ「聖護院大根」や京土産として有名な「聖護院八ッ橋」はこの聖護院村で作られていたことから「聖護院」の名が冠せられたといい、現在も門前には聖護院八ッ橋および西尾八ッ橋が営業を続けています。
行事としては毎年8/1に奈良吉野の大峰に峰入りをする数千の修験者の「大峯修行」の行列や、1月8日から14日まで京都市内一円の各家々を回り、三宝荒神のお札を授けるとともに各家の一年間の家内安全・火難消除を祈願すっる「寒中托鉢修行」、2月3日の「節分会・採燈大護摩供」、2月23日の「五大力尊王会(五大力さん)」などが有名です。
また境内の一角を旅館「御殿荘」として一般にも開放しており、客室からは庭園や茶室などを眺めながら客室でゆったりと一夜を過ごすことができ、人気を集めています。