京都市上京区京都御苑、宗像神社・厳島神社とともに京都御苑内に鎮座する3つの神社のうちの一社。
旧西園寺家(さいおんじけ)の鎮守社で、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね 1171-1244)が現在の金閣寺(鹿苑寺)の地に「北山第」を造営するに際し建立した「妙音堂」に由来するとされ、別当・成就心院に回向させるとともに、第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう 1212-34)の准母・邦子内親王(安嘉門院)(くにこないしんのう(あんかもんいん) 1209-83)が臨幸したのがはじまりとされています。
この点「西園寺家」は名門藤原家の流れを汲む藤原氏北家の支流で、摂関家に次ぐ家格を持つ清華家(せいがけ)の一つ。
平安末期の藤原公実(ふじわらのきんざね 1053-1107)の子・藤原通季(ふじわらのみちすえ 1090-1128)を祖とし、通季の曾孫にあたる公経が京都北山に営んだ「西園寺」の名が家名とされました。
鎌倉期に公経の時代に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の姪・一条能保女を娶ったことで武家政権にいち早く近づき、1221年(承久3年)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し挙兵し敗れた「承久の乱」の際には反乱をいち早く幕府に内報、そのため幕府の信任を得て、乱の後に家例を超えて従一位・太政大臣に昇格するとともに公武間の連絡役である「関東申次(もうしつぎ)」の職に就任します。
更に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう 1220-72)の後宮に入れた孫・西園寺?子(さいおんじきつし 1225-92)が第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう 1243-1304)・第90代・亀山天皇(かめやまてんのう 1249-1305)を生んだことから、天皇の外戚として摂関家を凌ぐ権勢を得ます。
しかし西園寺公宗(さいおんじきんむね 1310-35)の時代に建武の新政権に背き後醍醐天皇の暗殺を謀ったために誅せられ、その子・西園寺実俊(さいおんじさねとし 1335-89)が後に再興。幕末に入り徳大寺家より養子に入った西園寺公望(きんもち)が家を継ぐと、明治から昭和期にかけて文相・外相・蔵相、そして総理大臣などを歴任し、最後の元老として政界で大きな役割を果たしていて、また1869年(明治2年)に白雲神社の地に開いた私塾「立命館」の名は、現在の立命館大学へと継承されています。
そして公経が「北山第」を造営の際に建立した「妙音堂」に祀られた妙音弁財天は芸能や財宝の神様として知られていますが、西園寺家は琵琶を家業としたことでも有名で、天皇や上皇に琵琶の秘曲を伝授する琵琶の宗家であったことから、とりわけ「音楽の神」として祀られたといいます。
当時絶大な権勢を誇った西園寺家の北山第については「増鏡」「中務内侍日記」「太平記」などにも当時の風雅な佇まいが記されているといいますが、その後、西園寺家の盛衰に伴って変遷をたどることとなり、近古には赤八幡京極寺にしばらく鎮座した後、江戸中期の1769年(明和6年)に前内大臣・西園寺公晃(さいおんじきんあき 1702-70)および前右大臣・西園寺賞季(さいおんじよしすえ 1743-1800)が勅許を賜り西園寺邸の移転と共に現在地に再興。
更に江戸後期の1840年(天保11年)、1857年(安政4年)の社殿修築に際しては、禁中各御所より寄付を賜り禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになり、寛政年間(1789-1801)の頃より「巳の日講」には多くの参詣者が訪れたと伝えられています。
そして明治期に入り天皇の「東京行幸(とうきょうぎょうこう)」とともに西園寺家が東京へ移ると、妙音堂は管理者不在となるとともに「廃仏毀釈」によって廃祀の危機となりますが、地元有志の尽力により神社として存続することとなり、1878年(明治11年)、弁財天を宗像三女神の1柱である市杵島姫命に変更し神仏混淆の作法を神式に改めるとともに、かつての鎮座地の白雲村の旧称をとって現社名「白雲神社」に改められ、現在に至っています。
そして西園寺妙音堂の旧本尊である琵琶を弾く姿をした「木造弁才天坐像」は、琵琶の名手として知られた藤原師長(ふじわらのもろなが 1138-92)が妙音天を感得・信仰し西園寺にもたらしたものといい、2002年(平成14年)6月26日に国の重要文化財に指定されています。
行事としては毎年6月15日より「例祭」が行われ、神事のほか白拍子舞や茂山千五郎社中による狂言の奉納などがあり、また11月10日の「火焚祭」では神事のほかに湯立神楽が奉納されます。
その他にも毎月巳の日には「巳の日祭」が行われ、お祓い・お清めが受けられるといいます。