京都市左京区大原、京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里に位置する天台宗の寺院。
788年に比叡山に延暦寺を開いた伝教大師最澄が自ら薬師如来像を刻み、それを本尊として比叡山東堂に「円融房」と呼ばれる一堂を建立したのが起源とされており、「三千院」の寺名となったのは明治に入ってからです。
また「三千院門跡」とも呼ばれる天台五ヶ室門跡の1つであり、青蓮院および妙法院とともに天台宗の三門跡寺院の1つにも数えられ、その中でも最も古い歴史を有しています。
京都市の中心部からは遠くアクセスは不便な場所にありますが、「京都大原三千院」の歌詞ではじまるデューク・エイセスの「女ひとり」の歌で一躍有名となり、現在は京都を代表する観光寺院の一つとなっています。
三千院を象徴するのが「聚碧園(しゅへきえん)」と「有清園(ゆうせいえん)」と呼ばれる美しい2つの庭園で、ともに市の名勝に指定されています。
有清園は金森宗和による池泉回遊式庭園で、宸殿前の一面に広がる苔の密生した杉木立の庭が印象的。そして苔庭の中から時折姿を見せるわらべ地蔵の表情が参拝者の心を癒してくれます。
また園内にある往生極楽院は藤原時代を代表する建築物で重文に指定。内陣に安置されている阿弥陀三尊像は浄土世界の優美な仏像で、珍しい大和座りの両脇侍を従え国宝に指定されています。
一方聚碧園も江戸初期に金森宗和による作庭されたもので、量感豊かで美しい皐月の刈込みが印象的です。
緑も豊かで、春の桜と石楠花、初夏の新緑と紫陽花、秋の紅葉、冬の積雪と、四季折々の草花が楽しめることでも知られています。
1989年(平成元年)には金色不動堂、観音堂が建立され、新たに枯山水の庭も造られたほか、2006年には宝物館「円融蔵」も整備されました。
三千院は延暦年間(782-806年)に伝教大師最澄が比叡山東堂に開いた一院「円融房」がそのはじまりとされています。
のちに比叡山東麓の坂本(滋賀県大津市)に移され、京都市中などたび重なる移転の後、明治期に入った1871年(明治4年)に現在地に移転しました。
その際に平安末期の11世紀よりこの地に元々あった阿弥陀堂の「極楽院(のちの往生極楽院)」が三千院の境内に取り込まれています。
そして現在の「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は、大原移転後の1871年以降使われるようになったもので、それ以前は円融房、梨下房、円徳院、梨下門跡、梶井門跡と移転の度に寺名も変更されています。
円融房(比叡山東塔)
三千院は最澄が788年(延暦7年)、比叡山延暦寺を開いた際に比叡山の東塔南谷に自刻の薬師如来像を本尊とし「円融房」を開創したのが起源とされています。
そして円融房のそばには大きな梨の木があったことから、後に「梨本門跡」の別称も生まれました。
円徳院(坂本に里坊の設置)
比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点を有しており、円融房も860年(貞観2年)、比叡山山麓の東坂本(大津市坂本)に承雲により「円徳院」と呼ばれる里坊が設けられました。
梶井門跡(門跡寺院のはじまり)
平安後期の1118年(元永元年)、堀河天皇の第二皇子(第三皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、最初の皇室子弟の入寺とされています。
以後歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺する「門跡寺院」となります。
そしてこの頃より、寺に加持(密教の修法)に用いる井戸「加持井」があったことから「梶井宮(梶井門跡)」と称されるようになったといいます。
京都市内への移転
その後鎌倉初期の1232年(貞永元年)の火災をきっかけに現在の京都市内に移転。
洛中や東山の各地を転々とした後、鎌倉末期の1331年(元弘元年)に淳和天皇の離宮・雲林院があったと推定される洛北・船岡山の東麓、大徳寺の南方の寺地に落ち着きます。
しかしその後応仁の乱(1467-77年)で焼失。
以後は平安後期より大原に設置されていた梶井門跡の政所が本坊となりました(大原に隠棲した念仏修行者を取り締まり、大原にある来迎院、勝林院などの寺院を管理するため)。
その後江戸時代に入り1698年(元禄11年)、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉により京都御所周辺の公家町内の御車道広小路(現在の京都市上京区梶井町の京都府立医科大学と附属病院付近)に寺地が与えられています。
三千院への改称
明治維新の際、当時の門跡・昌仁法親王は仏門を離れて還俗し梨本宮家を新設します。
そして仏像・仏具類は大原の政所に送られ、寺も1871年(明治4年)に大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称されました。
この点「三千院」の寺名は、梶井門跡の仏堂の名称「一念三千院」から取ったものといわれています。
明治期以前の大原(隠棲の地、融通念仏、天台声明)
古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られ、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844-97年)が大原に隠棲したことは「伊勢物語」にも言及されるなどよく知られています。
(藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲した)
また融通念仏や仏教声楽である天台声明(しょうみょう)が盛んに行われた場所としても知られています。
(慈覚大師円仁により中国山東省「魚山」より伝えた天台声明(仏教音楽)の根本道場が開かれ、後に融通念仏を広めた良忍上人(1073-1132)が「声明」を集大成した)
極楽院について
元々は天台の門跡とは無関係な寺院であり、1871年(明治4年)に三千院の本坊が洛中から移転してきてからその境内に取り込まれました。
ちなみに「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことです。
寺伝では恵心僧都(えしんそうず)源信(942-1017)の妹・安養尼が985年(寛和元年)に建てた持仏堂の旧跡と伝わりますが、実際はもう少し時代が下った12世紀末(1143~48年)に、高松中納言藤原実衡の妻・真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したという説もあります(彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述による)。
藤原時代に建てられた49の常行堂のうち、唯一現存する堂といわれています。
阿弥陀堂(本堂)は柿葺き、入母屋造りで重文に指定。平安後期の1148年に造られた阿弥陀三尊座像(国宝)が安置されています。
蓮台座に坐し来迎相を結び、阿弥陀如来が臨終の際に西方極楽浄土から亡者を迎えに来る様「迎接形(ごうしゅうぎょう)」を表しているといいます。
中でも両脇侍が日本式の正座をしている点が印象的です。