京都市東山区渋谷通東大路東入三丁目上馬町、東大路通の馬町の交差点から渋谷街道の坂を約2km上がった先にある浄土宗寺院。
山号は清涼山、本尊は阿弥陀如来。
正式には「清涼山光明真言院正林寺」といい、通称「小松谷正林寺」と呼ばれています。
一帯は東山連峰の谷間にあたり「小松谷」と呼ばれていた地で、平安後期には平清盛の長男で小松内大臣となった平重盛(たいらのしげもり 1138-1179)の別邸があったことから重盛は「小松殿」と呼ばれていました。
ちなみに重盛は仏教に深く帰依しており、屋敷に灯籠堂を建立して毎夕48体の阿弥陀仏に48の灯籠を点して念仏行道されたことから「灯籠大臣」とも称されていたといいます。
平家没落の後は関白・九条兼実(1149-1207)の山荘となり、月輪御殿造営の際には法然(1133-1212)のためにこの地に堂を建て、法然を招いて法談を聴き、1202年(建仁2年)正月にはついに法然を戒師として剃髪・出家された場所です。
また1205年(元久2年)8月に法然が病になったた時、兼実は聖覚法印に命じて病の治癒を祈らせたと伝えられていて、更に法然上人の寺坊「小松谷御坊」となり、法然がここに居住していたこともあるといいます。
更に1207年(建永2年/承元元年)3月に法然が弟子の住蓮房・安楽房の罪により、75才にして流罪の身となった際には、この地で弟子と別れ、ここより配所四国へと出発しているなど、法然上人にちなんだ数多くのエピソードが残されており、ゆかりの旧跡として「法然上人二十五霊場」の第14番札所にも数えられています。
その後「応仁・文明の乱(1467-1477)」によりこの地も廃絶していましたが、江戸中期の正徳年間(1711-15)に知恩院の義山が復興に努め、その弟子の慧空(恵空)が遺志を継ぎ1733年(享保18年)に北野の真盛辻子(京都市上京区)にあった正林寺を移して中興。
慧空の熱意は月輪殿下の子孫である九条家の心を動かしたといい、1735年(享保20年)には同家の河原御殿の御内仏を移して本堂(大師堂)とし、その後、延享・宝暦年間にわたって阿弥陀堂・山門・鐘楼などが完成し伽藍が整備されました。
また本堂(大師堂)内に安置されている法然自作の法然上人の乾漆像は、法然が四国の流罪から勅免をうけ帰国する際に法然自作の像を記念として讃岐の信者に遺されたものが、讃岐の幕臣・黒川氏より京都黒谷の法春庵に送られた後、当寺の再建の際に夢告によって移されたものと伝えられています。
現在の境内は小松谷保育園の敷地にもなっており、山門をくぐり参道を進んだ先にも通用門があり先には進めませんが、通常は入口でお寺の人に声をかけて門の扉を開けてもらえれば拝観が可能。また毎月25日は阿弥陀堂の開放日となっています。