京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町、地下鉄今出川駅の北東に今出川キャンパスおよび本部を置く学校法人「同志社」の設置するキリスト教系の私立大学。通称は「同大」および「同志社」。設立者は明治六大教育家の一人で、キリスト教伝道者として知られる明治前期の教育家で宗教家の新島襄。
校章(徽章)の正三角形を3つ寄せたマークは、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもので、1893(明治26)年に詩人で同志社神学校教授であった湯浅半月(湯浅吉郎) 1858-1943)によって考案されたもので、スクール・カラーはPurple&White(紫と白)の2色。
この点、新島襄(にいじまじょう 1843-90)は、1843年(天保14年)1月14日に上野国安中藩(群馬県安中)の藩士・新島民治(にいじまたみじ 1807-87)と妻・新島とみ(にいじまとみ 1807-96)の長男として、江戸神田一ツ橋通小川町(現在の東京都千代田区一ツ橋二丁目)の安中藩邸内で誕生。
幼名は七五三太(しめた)といいましたが、これは新島襄の誕生前に新島家では既に4人の女の子が生まれており、5人目が生まれたときにその産声が男の子であったため、思わず祖父が「しめた!」と叫んだところから命名されたと伝わっています。
その後、成長すると経幹(つねもと)と名乗りますが、アメリカへ密航した際に船長のホレイス・S・テイラーから「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、それ以後はその呼称を名前として使い始め、1875年(明治8年)の帰国後は「譲」のちに「襄」の字を用い「新島襄」と称するようになります。
幼い頃から英才として知られ、1853年(嘉永6年)、10歳の時に安中藩の学問所に入り、添川簾斎(そえかわれんさい 1803-58)から漢学、次いで1856年(安政3年)、13歳の時に藩主・板倉勝明の命で藩中の子弟から選抜されると田島順輔から蘭学を学びますが、勝明の没後に弟・板倉勝殷(かつまさ)が後を継ぐとその祐筆補助役を命じられることとなります。
ところが1860年(万延元年)10月、17歳の時のこと、沖合に浮かぶオランダ船を見てその大きさに衝撃を受けたことで海外に出て外国に関する知識を身につけなければいけないと強く感じるようになり、ほどなく江戸築地にあった幕府の軍艦操練所に入って数学・航海術を学び、1862年(文久2年)に退所の後は甲賀源吾塾に入り江戸から備中玉島までの航海実習に参加。
更に1863年(文久3年)からは英学に転じ、漢訳のアメリカに関する書物や聖書を読んで欧米文明とその宗教に感銘、これを習得して日本にもたらすことを決意したといいます。
そして1864年(元治元年)3月、アメリカ合衆国への渡航を志して脱藩した新島は、北方交易に向かう「快風丸」に便乗して品川を出帆、4年前に開港され外国船の出入りが多かったという箱館へと向かいます。
箱館へと到着した新島は武田斐三郎の塾に入って英語を学ぶとともに、そのかたわらにロシア人司祭・ニコライの家に住み日本語教師となります。
そして同年6月14日、21歳にして国禁を犯す形で箱館からアメリカ船「ベルリン号」に乗って密出国に成功すると、中国の上海でアメリカ船「ワイルド・ローヴァー号」に乗り換え、翌1865年(慶応元年)7月ボストンに到着し無事渡米を果たします。
アメリカに到着した新島は会衆派信徒であった船主・アルフィアス・ハーディ(Alpheus Hardy 1815-87)夫妻の庇護を受けてフィリップス・アカデミーに入学し、1866年(慶応2年)12月には庵ドーバー神学校付属教会にて洗礼を受けキリスト教へと入信します。
翌1867年(慶応3年)6月にはフィリップス・アカデミーを卒業しますが、9月に今度はアマースト大学に入学して理学を学び、1870年(明治3年)に卒業して日本人として初めて学士号(理学士)を取得。次いでアンドバー神学校に進むと1874年(明治7年)7月に特別コースを卒業して神学も修めることができました。
そして神学校在学中の1871年(明治4年)7月に駐米少弁務使・森有礼の斡旋で明治政府から「米国留学」の留学免許状を取得した後、1872年(明治5年)から翌1873年(明治6年)9月にかけて訪米した岩倉具視を全権大使とする岩倉遣外使節団の文部理事官・田中不二麿の通訳となり、田中のヨーロッパ教育視察に同行して、欧米各国の教育制度などを視察し、調査報告書「理事功程」の作成にも携わっています。
既にキリスト教徒となっていた新島は、次第に「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本でもという夢を膨らませるようになり、1874年(明治7年)にボストンのマウント・バーノン教会で按手礼を受けて牧師となると、10月にアメリカン・ボード(米国海外伝道委員会)の年次大会で日本にキリスト教に基づく教精神主義教育を行なう学校の設立を訴え、大きな反響を得て約5000ドルの寄付金を得ることに成功します。
そして同年11月26日に横浜に到着した新島は、宣教師として10年ぶりとなる帰国を無事果たしたのでした。
翌1875年(明治8年)1月に大坂に到着した新島は当初は神戸か大阪での学校の設立を目指しましたが、府知事からの許可が得られなかったため、4月に京都に入ります。
京都は日本の古都であり、仏教の中心地であったことから、当然学校の設立反対の声も多かったといいますが、同年11月29日、京都府顧問・山本覚馬(1828-92)の助力を得ることで、同志社大学の前身となる「同志社英学校」を設立。
現在は「新島旧邸」の建っている上京区寺町丸太町上る松蔭町にあった高松保実邸を借りてその仮校舎とし、アメリカン・ボード派遣のアメリカ人宣教師ジェローム・D・デービス(Jerome Dean Davis 1838-1910)を担当教師とし、8名の生徒を受け入れ同志社での教育はスタート。翌1876年(明治9年)9月には相国寺門前の現在地に新校舎が建設されました。
この点「同志社」とは「志を同じくする者が創る結社」という意味で、その志とは「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本においてもという新島の志を意味しており、英語の校歌「Doshisha College Song」の冒頭の「One Purpose」も、一つの志、すなわち同じ志=同志を意味しているといいます。
ちなみにこの同志社設立と並行する形で、1876年(明治9年)の1月3日には山本覚馬を通じて知り合うこととなった覚馬の妹・山本八重(やまもとやえ 1845-1932)と結婚しています。
会津藩の砲術師範役・山本権八の娘として生まれた八重は、大変勇敢な女性として知られ、1868年(明治元年)の戊辰戦争に伴う会津戦争の際には藩主の面前で砲術の進講役を務め、男装して7連発銃をもって新政府軍に応戦したという逸話を持ち、「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた女傑でしたが、明治維新後の1871年(明治4年)に京都府顧問となっていた兄・覚馬を頼って京都へと上洛。
兄の推薦によって新英学校及女紅場(のちの京都府立京都第一高等女学校、現在の京都府立鴨沂高校)の教師となった後、1876年(明治9年)に京都御苑の現在の京都迎賓館の位置にあった旧柳原邸内のJ・D・デイヴィス邸に女子塾を開いて「同志社女子大学」の基礎を形作り、キリスト教の布教と子女の教育に尽力、新島襄の没後の日清・日露戦争では日本赤十字社の篤志看護婦としても活躍しており、2013年(平成25年)には女優・綾瀬はるか主演のNHK大河ドラマ「八重の桜」ではヒロインとして描かれたことで注目を集めました。
八重がプロテスタントの洗礼を受けてクリスチャンとなった後に二人はキリスト教式の結婚式を挙げたといい、これは京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式だったといわれています。
また同時期には熊本洋学校で学んだ後に同志社に転校してきた「熊本バンド」と呼ばれるキリスト教徒のグループ約30名を受け入れています。
熊本バンドは横浜バンドや札幌バンドと並んで日本のプロテスタントの三大源流の一つとされ、熊本洋学校の教官として招かれたアメリカ人教師L・L・ジェーンズの影響を受けてキリスト教に入信した生徒有志が、1876年(明治9年)1月30日にキリスト教によって祖国を救おうという固い決意の下に熊本郊外の花岡山において奉教趣意書に署名・誓約し結成されたグループです。
そのメンバーには新島襄の没後より1897年まで同志社社長兼校長を務めた後、日本最初のキリスト教青年会(YMCA)を結成するなどキリスト教界に尽くした小崎弘道(こざきひろみち 1856-1938)や、牧師となった後に政界や実業界でも活躍した金森通倫(かなもり-つうりん 1857-1945)、後に同志社大学総長となる海老名弾正(えびなだんじょう 1856-1937)、自由民権運動に参加した後に民友社を設立し「国民之友」「国民新聞」を発刊するなどジャーナリストとして活躍した徳富蘇峰(とくとみそほう 1863-1957)などなどがおり、卒業後に宗教界のみならず広く政財界や教育界、言論界、実業界などで活躍する人材を生み出すこととなります。
1877年(明治10年)4月には八重が前年に旧柳原邸内のJ・D・デイヴィス邸に開いた女子塾が、今出川寺町西入の旧二条関白邸跡の新校舎に移されて「同志社分校女紅場」と名称変更された後、同年9月には「同志社女学校」と改称され、後の「同志社女子大学」へとつながっていきます。
そして1880年(明治13年)のこと、新島襄を語る上では欠かせないエピソードの一つである「自責の杖事件(じせきのつえじけん)」が発生します。
当時の同志社は生徒不足を補うために年度途中でも面接を行い、合格した生徒を入学させていましたが、学力の差を考慮して入学月の違いから上級と下級の2組に分かれて授業を行っていました。
ところがどちらも少人数であったことから、学校側は2つの組を合併して授業を行うことを決定したのですが、これに上級組の生徒が反発し、新島襄が伝道活動で留守の間に抗議の意思を示すために集団で授業をボイコットするという事件を起こしてしまいます。
学校側の決定にも問題があったのは事実でしたが、無断欠席は明確な校則違反であったため、違反者を処罰すべきとの声が上がり、学校側も頭を抱えることになります。
そして4月13日の朝礼のこと、新島襄は集まった生徒たちの前で、今回の集団欠席の罪は生徒にも教員側にもないが、校則は守らねばならない。その責任はすべて校長である自分にあるとして、自らの掌を杖で何度も何度も激しく打ち続けました。
やがて掌には血がにじみ、杖は3つに折れてしまいがそれでも止めようとしない、新島襄の気迫に圧倒されすすり泣く生徒も現れ、ついには前列にいた生徒が新島襄の腕にしがみつき、泣きながら止めるように懇願したというエピソードで、同志社では現在でもこの事件のことを語り継いでいるのだといいます。
新島襄はその後も病をおして大学設立運動に奔走し、1883年(明治16年)にアメリカ滞在中から抱いていた大学設立の構想を「同志社大学校設立の旨意」として発表。
翌1884年(明治17年)4月から1885年(明治18年)12月にかけては休養と募金を兼ねて欧米を巡歴し、帰国後の1887年(明治20年)に仙台に東華学校、京都に同志社病院、京都看病婦学校を開き、1888年11月「同志社大学設立の旨意」を全国の主要新聞や雑誌に発表するなど、精力的に活動を続けます。
しかし長年の苦労や心労がたたり、大学設立運動の半ばの1890年(明治23年)1月23日に神奈川県大磯にて48歳で病没。
現在は東山区の若王子山上にある「同志社墓地」に妻の新島八重や八重の兄の山本覚馬、教え子の一人である徳富猪一郎や同志社関係の宣教師たちとともに眠っており、墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆により書かれたものだといいます。
新島襄の遺志はその教え子たちによって引き継がれ、1904年(明治37年)、専門学校令によって「同志社専門学校」「同志社神学校」が認可され、1912年(大正11年)に両校を合併して「同志社大学」と改称。
そして1920年(大正9年)に大学令によって旧制の大学として認可された後、戦後の1948年(昭和23年)に同志社経済専門学校・同志社工業専門学校・同志社外事専門学校を合併して新制大学に移行し、現在に至っています。
なお学部については1920年(大正9年)の大学認可時に文学部・法学部の2学部および大学院と予科を設置された後、1948年(昭和23年)の新制大学移行時に神学部・文学部・法学部・経済学部の4学部、そして翌1949年(昭和24年)に商学部・工学部の2学部が増設されています。
更にその後、2004年(平成16年)には政策学部が開設され、2005年(平成17年)には文学部を改組して社会学部・文化情報学部を増設。
2008年(平成20年)には生命医科学部・スポーツ健康科学部を新設し、工学部を理工学部に改称。
2009年(平成21年)に心理学部、2011年(平成23年)にグローバル・コミュニケーション学部、2013年(平成25年)にグローバル地域文化学部が開設されています。
同志社大学の校地は2つ、大学本部が置かれ「今出川」「室町」「新町」「烏丸」の4つのキャンパスがある京都市上京区の「今出川校地」および「京田辺」「多々羅」「学研都市」の3つのキャンパスがある京都府京田辺市の「京田辺校地」があり、その他にも大阪と東京にそれぞれサテライト・キャンパスが設置されています。
「今出川校地」は京都市の中心部、京都御所のある京都御苑の北側に位置し、御苑と北側にある金閣寺や銀閣寺を塔頭に持つ相国寺の境内に挟まれるようにキャンパスが広がります。
同志社大学の誕生の地として150年に及び歴史を有し、キャンパス内にある建物はその多くがレンガ造りで建造されて歴史的建造物として現在にまで伝えられていて、重要文化財となっている建物も5棟あり、人文・社会科学系の研究拠点として京都の歴史や文化を実感しながら学生生活を送ることができるキャンパスとなっています。
一方の「京田辺校地」は大阪府や奈良県にもほど近い京都府南部に位置し、緑豊かな自然に囲まれた79万m2という広大な敷地の中に精緻な現代建築の学舎が整備されるとともに、最新の施設や設備の設置される理系およびスポーツ系の研究拠点であり、体育会系の活動拠点にもなっているキャンパスです。
このうち「今出川キャンパス」は烏丸通と今出川通の交差する「烏丸今出川」交差点の北東側、北側を相国寺、南側を京都御苑に挟まれた一帯に整備されたキャンパスで、室町時代には第3代将軍・足利義満が開基した京都五山の1つである相国寺塔中「鹿苑院」の境内が、江戸末期には薩摩藩邸(相国寺二本松藩邸)が存在し、南側には京都御所を囲むようにして存在した公家屋敷が多数建てられていた場所でした。
この点、同志社の前身である「同志社英学校」が1875年(明治8年)11月29日に開校された当初は、現在の京都市上京区寺町丸太町上ルの位置にあった高松保実の屋敷の一角を借り、教室兼寄宿舎として利用していたといい、現在この地は「新島襄旧邸」として「同志社発祥の地」となっています。
一方、薩摩藩邸の跡地だった場所は明治維新の混乱の中で元会津藩士で京都府顧問を務めていた新島八重の兄・山本覚馬が取得していましたが、翌1876年(明治9年)に新島襄がその跡地を売買譲渡によって受け継ぐこととなり、以後は同志社英学校、後の同志社大学の校地として整備が進められていきます。
当初は木造2階建ての校舎兼寄宿舎が2棟と食堂棟があるのみでしたが、学生数の急増を受けて教学施設の充実が図られることとなり、1884年(明治17年)9月に同志社で最も古い教室棟である「彰栄館」が竣工。教育機関としてふさわしく、かつ教育理念であるキリスト教主義を可視化するのにふさわしい建物として同志社最初のレンガ建築で建造されました。
これを皮切りに1886年(明治19年)6月には「礼拝堂(チャペル)」、1887年(明治20年)11月には「書籍館(現・有終館)」、1890年(明治23年)9月には工学部の淵源である「ハリス理化学校(現・ハリス理化学館)」、そして1894年(明治27年)1月には「クラーク神学館(現・クラーク記念館)」と、レンガ造の建築物が次々と建造されていき、明治期に建てられたこれら5棟のレンガ建築は現在も講義・礼拝・学校法人事務室などとして使用され現存しており、歴史的建造物として国の指定する重要文化財となっています。
その後1912年(明治45年)に専門学校令によって認可された同志社大学が開校し、その8年後の1920年(大正9年)に大学令によって認可されると、新たに整備が必要となった高等教育に適した教学施設が新たに増設されることとなり、1916年(大正5年)には大教室を備えた「致遠館」、そして1920年(大正9年)には2代目の「図書館(現・啓明館本館)」が数多くのレンガ建築物を手がけたことで知られるW・M・ヴォーリズ設計事務所の設計により建造され、その後同事務所は1932年(昭和7年)に建造された「アーモスト館」の設計も手がけています。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災以降はレンガ造から鉄筋コンクリート造が主流となったことから、以後は鉄筋コンクリート造のものが多く見られるようになりますが、キャンパス内に連なる美しいレンガ造の建物群との調和を配慮して煉瓦タイルを貼られるなどの工夫が施されており、レンガ造りの建物が数多く並ぶ京都でも有数の歴史的景観が形成されたキャンパスとなっています。
文化財としては先に説明した明治期建築の5棟の国指定重要文化財のほか、啓明館の本館と西館およびアーモスト館、そして京都市役所の本館や京都大学の時計台なども手がけ「関西建築界の父」とも言われた建築家・武田五一(たけだごいち 1872-1938)の手による同志社女子大学の「栄光館」および「ジェームズ館」の5棟が国の登録有形文化財に、更に同志社発祥の地に残る「新島旧邸」が京都市指定有形文化財となっています。
また今出川校地には「今出川キャンパス」の他にも、京都市から譲り受けた産業技術研究所繊維技術センターの跡地に2012年10月に開校した「烏丸キャンパス」や、幕末まで五摂家の一つとして知られる公家の近衛家の邸宅があり、日本電池株式会社(現・株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション)の跡地に整備され、サークルの活動拠点としても活用されている「新町キャンパス」、更には室町幕府の足利将軍家の邸宅「花の御所」が存在した敷地の一部にあたり、今出川キャンパスと新町キャンパスの間に位置する「室町キャンパス」がそれぞれが近接する形で設置されていて、いずれの建物も明治時代の洋風建築を思わせるレンガ造の外観で統一され、付近一帯の歴史的にも重要な景観の役割を果たしています。
行事としては同志社大学の学園祭は今出川キャンパスで行われる「同志社EVE」と京田辺キャンパスで行われる「同志社京田辺祭」があり、どちらの学園祭も地域社会に開かれる形で開催されているほか、毎年冬にはクリスマスイベントとしてクリスマス・イルミネーションが京都の冬の風物詩の一つとして広く親しまれていて、初日には「クリスマス・イルミネーション点灯式」が開催され、聖歌隊の讃美歌の合唱がクリスマスムードをより一層盛り上げてくれます。