京都市上京区桝形通出町東入青龍町、賀茂川と高野川が合流して鴨川となる「出町柳」の地の西側、出町枡形商店街にほど近い賀茂川に架かる出町橋の西詰にある臨済宗相国寺派大本山相国寺の塔頭・大光明寺の飛び地境内にあるお堂。
「京都七福神」の弁財天で、地域住民からは「出町の弁天さん」として親しまれています。
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した公卿・西園寺公経(さいおんじきんつね 1171-1244)が1224年(元仁元年)に現在の金閣寺付近に建てた別荘「北山第(きたやまてい)」の池の畔に建てられた「妙音堂」がはじまり。
堂内には本尊として弁財天像が祀られたほか、西園寺家第二伝の弘法大師筆と伝わる青龍妙音弁財天画像も安置されていたといいます。
その後、鎌倉後期の1306年(嘉元4年)、左大臣・西園寺公衡(さいおんじきんひら 1264-1315)の娘・西園寺寧子(さいおんじねいし/やすこ 1292-1357)(広義門院)が第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう 1288-1336)の女御として輿入れした際、青龍妙音弁財天画像を念持仏として持参したといいます。
寧子は北朝初代・光厳天皇及び2代・光明天皇の実母で、南北朝の動乱の中、室町初代将軍・足利尊氏と弟・直義が対立した「観応の擾乱」で南朝側が優勢となり、北朝側の全上皇(光厳・光明上皇・崇光)と皇位継承者(直仁親王)が拉致された際に、光厳上皇の第三子・弥仁王(後の後光厳天皇)を即位させて北朝を存続させるため、事実上の「治天の君」の座に就いて上皇の役割を代行し、後光厳天皇へ政務権を継承した後も家督者として君臨。
皇室出身者でない女性として唯一、皇室の最高権力者である「治天の君」となったことで知られている女性です。
西園寺家は公経が鎌倉幕府と関係が深かったことから鎌倉時代には隆盛しましたが、鎌倉幕府の滅亡に伴って衰退し、北山第も荒廃。
その後、室町時代に3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が西園寺実永(さいおんじさねなが 1377-1431)より別荘の地を譲り受け新たな山荘「北山殿(きたやまどの)」、後の金閣寺(鹿苑寺)を造営することとなり、それに伴って妙音堂も取り壊され、本尊の弁財天像はその後様々な経緯をたどって、現在は京都御苑内にある白雲神社の祭神として祀られています。
一方青龍妙音弁財天画像の方は北朝の光厳、光明、崇光天皇を経て崇光天皇の皇子で伏見宮家の始祖となった栄仁親王(よしひとしんのう 1351-1416)へと伝承され、その後は伏見御所の殿内に祀られていましたが、江戸中期の享保年間(1716-35)、伏見宮15代・貞建親王(さだたけしんのう 1701-54)の時に宮家の移転に伴って出町の地、現在の河原町今出川下る東側に遷座。
更に伏見宮19代・貞敬親王(さだよししんのう 1776-1841)により邸内が一新された際に妙音堂も改築され、庶民の参拝も許されるようになったといいます。
明治初期の天皇の東京行幸に伴う伏見宮家の移転により妙音堂もいったんは東京の宮邸へ移されますが、1901年(明治34年)に地元の人々の請願により旧宮邸に近い現在地に再建され、現在は「伏見御所の弁財天」と称されるとともに、「京都七福神」の一つとして技芸上達・福徳円満を願う人々の厚い信仰を集めています。
本堂(妙音堂)には御前立の弁財天像、本堂裏にある六角堂に弘法大師作の本尊・妙音弁財天画像の掛け軸が祀られ、六角堂の周囲を年の数だけ回ると願いが叶うと伝えられています。
そして本堂裏には弁財天の眷属(使い)である蛇の描かれた瓦や額などが多数掲げられていますが、これらは「蛇の絵馬」として「出町七不思議」の一つにも数えられています。
また境内の入口には鳥居が立ち、境内に豊川稲荷が祀られているなど、神仏習合の名残が多数残されている寺院です。