四条通の東の端にある祇園祭で有名な「祇園さん」
全国の八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする神社の総本社で四条通の東端、祇園交差点前にある。
地元の産土神として広く信仰を集め、毎年の初詣客は100万人を数える。
家内安泰・無病息災を祈願する年末年始の「おけら参り」や平安初期に疫病を鎮める目的ではじまった京都の三大祭「祇園祭」で有名
八坂神社のみどころ (Point in Check)
京都盆地の東部、東山区祇園町北側に鎮座する神社で、京都のメインストリート四条通の東の突き当たりに位置しています(ちなみに西の突き当りに位置しているのは松尾大社)。
「八坂」の名称は境内の一帯が元々は山城国愛宕郡八坂郷に属していたことによるもの。そして明治のはじめに現在の八坂神社の名称に改められるまで「感神院」または「祇園社」などと称していたことから、現在も市民の間では「祇園さん」の愛称で親しまれています。
古くより地元の氏神(産土神)として信仰を集めるとともに、境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園や知恩院、高台寺などが隣接し、西側は京都を代表する歓楽街の一つ「祇園」で四条通沿いには南座やおみやげ屋も多く並び、さらに南へ行けば八坂塔・二年坂・三年坂などを経て清水寺、北に行けば平安神宮のある岡崎や南禅寺・銀閣寺と、これら東山を代表する観光スポットの一角をなしています。
しかし八坂神社といえば、何といっても7月に開催される「祇園祭」で有名。日本三大祭および京都三大祭の一つでもあり、毎年多くの観光客が見物に訪れる京都の夏の風物詩です。
他にも大晦日の風物詩「をけら参り」は多くの出店で賑わうとともに、神社で頂いた火縄を消さずに家に持ち帰り、その火で台所の火を起こすと無病息災が約束されるという京都の冬の伝統行事として有名。また正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と、京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位の数を誇ります。
「蘇民将来子孫者也」で知られる厄除けの社として有名ですが、摂社・末社の数も多く、授かることのできるご利益は縁結びや美人祈願、商売繁盛など様々。芸道神を祭る末社もあり、祇園という場所柄、舞妓さんも多く訪れるといいます。
八坂神社の社殿は火災や戦乱で何度も焼失しており創建当時の建物などは残っていませんが、1654年(正保3年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱によって再建された祇園造(八坂造)が特徴的な本殿や、室町時代の1497年(明応6年)に建てられた西楼門などが国の重要文化財に指定されています。
寺宝・美術工芸品については江戸時代の出羽大掾藤原国路(でわだいじょうくにみち)作の太刀(たち)三振や、平安末期の豊後国行平(ゆきひら)作の太刀一振りなどが同じく国の重要文化財に指定されています。
全国に2300あるという八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする神社の総本社
疫病退散・厄除けの社として創建
創建については諸説あるも、794年の平安遷都よりも前の656年(斉明天皇2年)、高麗から来日した調度副使・伊利之(いりし)使主(おみ)が、新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した牛頭天王(ごずてんのう)(=素戔嗚尊(スサノオノミコト))を勧請して山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのがはじまりといわれています。
この点、主祭神の牛頭天王(素戔嗚尊)は疫病退散・厄除けの神とされ、平安中期に疫病が流行して社会不安が高まると祇園信仰が高まり、一帯の産土神として信仰されるようになります。そして御霊信仰の流行に伴い盛んに開催された御霊会のうち、869年(貞観11年)の疫病流行の際に当社の神にお祈りして始まったのが「祇園祭」だといわれています。
朝野の崇敬
877年(元慶元年)に疫病が流行した際に勅使を派遣し祈ったところ、疫病の流行が止んだことから王城鎮護の社として朝廷の崇敬を集めるようになり、神領地の寄進も受けて経済的基盤も確立。995年(長徳元年)には二十一社(のち二十二社)の一つにも定められました。
また藤原氏からの崇敬も篤く、藤原基経は自らの邸宅を寄進して感神院の精舎としたと伝わり、藤原道長も度々参詣。更に平清盛、源頼朝、足利将軍家など、武士の時代に入ってもその崇敬は変わることはありませんでした。
戦国時代には豊臣秀吉が母・大政所の病気平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに社領1万石を寄進。江戸時代には徳川家も篤い信仰を寄せ、現在の本殿は1654年(承応3年)に4代将軍・徳川家綱により再建されたものです。
その後も現在に至るまで全国で広く崇敬されており、現在では八坂の神を祀る神社は3000余社に及ぶといいます。
「祇園社」から「八坂神社」へ
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、明治のはじめまでは「感神院」または「祇園社」などと称し、そのため「祇園さん」の名で親しまれ信仰されてきました。
しかし1868年(慶応4年・明治元年)の「神仏分離令」により「八坂神社」と改められて現在に至ります。
素盞鳴尊が主祭神、「蘇民将来子孫者也」で知られる厄除けの社
主祭神について
主祭神は
├中御座:素戔嗚尊(すさのおのみこと)
├東御座:櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)(素戔嗚尊の妻)
└西御座:八柱御子神(やはしらのみこがみ)(素戔嗚尊の8人の子供たち=八島篠見神(大国主命の祖神)・五十猛神・大屋比売神・抓津比売神・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売命)
が祀られています。
ただし明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱
├中の座:牛頭天王(ごずてんのう)
├東の座:八王子(はちおうじ)
└西の座:頗梨采女(はりさいにょ・ばりうねめ)
この点、
牛頭天王は起源不詳の習合神で釈迦の生誕地に因む祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていました
頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視されていました
八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されます
素戔嗚尊について
素戔嗚尊(すさのおのみこと)は日本神話の神の一人で、日本の国土創生の神として知られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で、島根県の出雲大社の祖神(祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)は素戔嗚尊の子または6世の孫)。三重県の伊勢神宮の主祭神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟にあたります。
多くの粗暴な行為から姉・天照大神を怒らせて天の岩屋戸事件を起こし、高天原を追放されますが、降った先の出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治。捕らわれていた櫛稲田姫を救い、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得て天照大神に献上。のちに櫛稲田姫と結婚し出雲の祖神となりました。
「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と厄除け
とある旅人が南海を旅した際、巨旦将来(ごたんしょうらい)と蘇民将来(そみんしょうらい)の兄弟の下を訪れて一番の宿を請います。
兄の巨旦将来は一番のお金持ちだったにも関わらず旅人の貧しそうな身なりを見て断りますが、次に訪れた弟の蘇民将来は貧しいながらも粟の粥を炊き心温まるもてなしをしたのでした。
この旅人こそ牛頭天王(素戔嗚尊)で、後に疫病が流行した際には門口に「蘇民将来子孫也」と記した護符を貼り、腰に茅の輪をつけていれば、子孫にいたるまで災厄を免れることができることを約束して立ち去ります。
その後疫病が流行すると巨旦の一族は滅びますが、蘇民の家は災厄を免れて代々栄えたといい、いつしか魔除けとして「蘇民将来子孫也」の護符を貼ったり、茅の輪が起源とされる粽(ちまき)のをお守りとして家の玄関に飾る風習が生まれました。
この故事から素戔嗚尊を主祭神とする八坂神社は厄除けの神社として知られています。
日本三大祭、京都三大祭の一つ「祇園祭」で有名
1100年以上の歴史を持ち、京都三大祭の一つにして日本三大祭の一つにも数えられる「祇園祭」は八坂神社の祭礼です。
元々は平安時代に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)が起源で、970年頃より八坂神社の祭礼として毎年行われるようになりました。
毎年7月1日~31日まで、1ヶ月にわたって色々な神事や業維持が繰り返し行われますが、祇園祭の行事には八坂神社主催のものと山鉾町が主催するものがあり、宵山行事や山鉾巡行といった一般的に有名な「祇園祭」はこの山鉾町が主催するものです。
「をけら詣り」は京の年末年始の風物詩
「をけら詣り」とは八坂神社において年末年始の大晦日夜から元旦にかけて行われる、無病息災・厄除けを祈願する年越し行事。
おけら(白朮)は古くから薬草として用いられてきたキク科の多年草で、その根を焼くときつい臭いを放つことから 邪気を払うとされており、境内の3か所のをけら燈籠に新しく鑽り出されたをけら火を、火縄に移して持ち帰り、この火を使って雑煮などを炊くと1年を無事に送れるとされています。また燃え残った火縄は「火伏せのお守り」として台所に飾られます。
参拝者が火が消えないように縄をくるくる回しながら家路を急ぐ姿は、京都の年末年始の風物詩となっています。
八坂神社の施設案内
東西南北それぞれに門ないし入口があり、四方から人の出入りが可能で、楼門が閉じられることはなく、伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝が可能です(防犯のため監視カメラおよび夜間の有人警備は行われているという)
まず西側は京都のメインストリート、四条通の東の突き当たりに位置し、西詰に阪急河原町駅、東詰に京阪祇園四条駅のある四条大橋から5分ほど歩けば、東大路通と交差する「祇園」のT字の交差点に突き当たり、朱塗りが色鮮やかな西楼門が参拝者を出迎えてくれます。この西楼門は祇園のシンボル的な存在でもあり、記念撮影のスポットとしても人気で、いつも多くの参拝者や観光客で賑わっています。
ただし神社としての正門にあたるのは祇園の交差点から東大路通を南へ少し下がった所に入口のある南楼門です。門前には日本三大石鳥居にも挙げられる重文の巨大な石鳥居があり、これをくぐり南楼門をくぐると本殿が目の前に姿を現します。
この本殿を囲むようにして西・北・東側に数多くの摂社・末社が祀られています。
一方東隣にあるのが京都を代表する桜の名所として有名な円山公園で、1886年(明治19年)に開設された京都市最古の公園ですが、元々明治初期の廃仏毀釈までは八坂神社の境内だった場所で、現在も神社との行き来は自由にできます。桜の時期には屋台も出て花見客などで大変な賑わいを見せます。
境外社としては新京極商店街の入口横、四条京極南側に祇園祭で神輿を安置する四条御旅所、次に三条会商店街内の三条通黒門に祇園祭発祥の地とされる三条御供社(又旅社)、更には烏丸通仏光寺下ルに大政所御旅所の旧跡があり、いずれも祇園祭においては神輿の通過するチェックポイントにもなっています。
ちなみに四条大橋から八坂神社までの間の四条通は八坂神社の参道にもなっており、通り沿いには祇園商店街に加盟するたくさんの店が軒を連ね、文字通り八坂神社への参道商店街を形成しています。
西楼門付近・本殿
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西楼門(にしろうもん)
応仁の乱での焼失後1497年(明応6年)の再建で国の重文。1913年(大正2年)の四条通の拡張の際に移動すると同時に翼廊が加えられ現在の姿となる。
四条通の東の突き当たり、東大路通と交差する祇園交差点に面する出入口に位置し、朱塗りの社殿は八坂神社のシンボル的存在でもある。
正式な正門は南楼門だが、阪急・河原町駅や京阪・祇園四条駅から四条通を歩いてくる人も多く、またバス停も祇園の交差点に面していることからこの門から参拝に訪れる人が圧倒的に多い。
サツキの時期には門前の植え込みが実に鮮やかに周囲を彩る。
ちなみに寺院の仁王像のように門の両脇を守護している2体の木像は平安時代に貴族の護衛役を務めた官人で「随身(ずいしん)」と呼ばれる。
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手水舎(ちょうずや・てみずや)
西楼門をくぐってすぐ左手に位置。
参詣者が手や口をすすぎ清める場所。
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社務所(しゃむしょ)
大国主社の向かいにある。
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授与所(じゅよしょ)
各種の御朱印や御守りなどの授与を行っている。
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舞殿(ぶでん)
本殿のすぐ南にあり、舞踊などの各種奉納行事や結婚式なども行われる舞台。祇園祭の際には3基の神輿を置き儀式が行われる。
1866年(慶応2年)に南楼門とともに焼失後、1903年(明治36年)に再建。
2015年に46年ぶりに修復され屋根のふき替え工事が行われた(写真は修復前のもの)。。
周囲に老舗料亭や茶屋などから奉納された提灯が多数掲げられているのが情緒的。
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本殿(ほんでん)
現在の建物は1654年(承応3年)、江戸幕府4代将軍・徳川家綱による再建。日本最大級の神社神殿といわれ国の重文にも指定。
祭神は中御座に素戔嗚尊、東御座に櫛稲田姫命、西御座に素戔嗚尊の8人の子供を祀る。
「祇園造」と呼ばれる通常の神社では別棟とすることが多い本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式が採用されているのが大きな特徴。
また紫宸殿を模して建てられたといわれ東側に小さな御車寄(玄関)がある。
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龍吼(りゅうぼえ)
本殿の拝殿部分の一番東の柱から西の方を向いて手を打つと、天井に描かれた龍が鳴くかのように反響する。八坂神社の七不思議にも数えられている。
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祈祷受付(きとううけつけ)
本殿の左端に受付所がある。
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時計塔
舞殿の南東、斎館のすぐ前にある。
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斎館(さいかん)
本殿および舞殿の南東に位置し、能舞台の隣にある。
斎館とは神職などが神事に携わる前に心身を清めるため籠る建物のことをいう。
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能舞台(のうぶたい)
本殿および舞殿の南東に位置し、斎館の隣にある。
新春1/3恒例の初能奉納やかるた始め式の舞台となるほか、4月には初桜能の奉納、7月の祇園祭の際には23日に琵琶協会による琵琶奉納が行われる。
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疫神社(えきじんじゃ)
境内摂社で、疫病除けの神である蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)を祀る。
素戔嗚尊が諸国を巡り宿を求めた際に蘇民将来は貧しかったにもかかわらず粟殻で座を敷き粟の粥で手厚くもてなしたため、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば災厄から免れられると約束され、現在も栄え続けているという庶民信仰に基づいている。
日本各地において除災招福のために住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も多いといわれ、特に京都では7月の祇園祭において神社や山鉾で「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(やくよけちまき)」を授与するなど広く信仰されている。
毎年1/19には例祭、7/31には茅の輪をくぐり厄除けを祈願する夏越祭(なごしさい)を開催。
ちなみに石鳥居には扁額がなく「疫神社」と石に直接彫られており、八坂神社の七不思議に数えられることも。
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太田社(おおたしゃ)
境内末社で、猿田彦命(さるたひこのかみ)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)の夫婦神を祀る。
猿田彦神は天孫降臨の際に日神の使いとして先導の役割を果たしたことから道開き、導きの神として有名。
一方天鈿女命は天照大神の天の岩戸隠れに際して岩戸の前で神楽を舞ったことで有名で、芸能の神として知られる。
5月下旬に太田社祭を開催。
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北向蛭子社(きたむきえびすしゃ)
境内末社で、大国主大神の子神で、素戔嗚尊の孫神にあたる事代主神(ことしろぬしのかみ)、いわゆる「えべっさん」を祀り、福の神、商売繁盛の神として信仰を集める。
平安時代より西楼門付近に祀られていたという歴史を持ち、全国的に有名な大阪の今宮戎神社も、八坂神社の氏子が今宮に移り住んだ際に祇園のえべっさんを祀ったことに始まるという。
現在の社殿は1646年(生保3年)の建造で国の重文。珍しく北向きに社を構えていることから「北向蛭子社」とも呼ばれる。
1/9・1/10の初えびす(祇園のえべっさん)では、商売繁盛のご祈祷や福笹の授与、七福神を乗せた「えびす船」の巡行などで賑わう。10月中旬には例祭・蛭子社祭を開催。
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ふれあい「えびす像」
参拝者と「祇園のえべっさん」とのふれあいを大切にし、縁を深められるようにと、2005年(平成17年)の初えびすに祇園商店街振興組合および四条繁栄会商店街振興組合が奉納。
招福を念じ手を触れてお参りすることができ人気を集めている。
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大国主社(おおくにぬししゃ)
境内末社で、大国主命(おおくにぬしのみこと)及び事代主神(ことしろぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る。
大国主は島根県の出雲大社の祭神として知られるほか、八坂神社の祭神である素戔嗚尊の子とも6代の孫とも伝わる神で、一般的には「大黒さん」と呼ばれ福の神として親しまれているほか、縁結びの神としても有名。
境内には良縁を願って奉納されたハート型の絵馬がいくつも見られる。
事代主神は大国主の子で「えべっさん」の愛称で有名な商売繁盛の神、また少彦名命は大国主とともに国造りに励んだという医薬の神。
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「大国さまと白うさぎ」の像
大国主社の前に立つ、「古事記」の中に登場する神話「因幡の白兔」をモチーフにした大国主と白兔(しろうさぎ)の像。
隠岐島に住む白兎がある日、因幡の気多岬(現在の鳥取県鳥取市白兎海岸)を渡ろうとして、鰐鮫たちを騙して背中の上を跳んで渡ろうとするが、もう少しという所で嬉しさのあまり騙したことを告白して失敗。
白兔は皮を剥ぎとられただけでなく、その後意地悪な大国主神の兄神にあたる八十神たちにも苦しめられるが、その窮地を大国主神に救われる。
そしてそのお礼に自らが伝令役となり、兄神たちが自分の嫁にしようとしていた八上姫という美しい姫と大国主神との縁を取り持ったという話。
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納札所(のうさつしょ)
古いお札・お守りの納め所。
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大年社(おおとししゃ)
境内末社で、大年神(おおとしのかみ)および巷社神(ちまたやしろのかみ)を祀る。
大年神はまたの名を「祇園古宮(ぎおんこみや)」といい、素戔嗚尊の子で穀物守護の神。一帯の農耕の神として祀られた。
例祭・大年社祭が2/3の節分の日であることから節分の神ともいわれる。
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十社(じゅっしゃ)
「多賀社(たがしゃ)」 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)(素戔嗚尊の父神)
「熊野社(くまのしゃ)」 伊邪那美命(いざなみのみこと)(素戔嗚尊の母神)
「白山社(はくさんしゃ)」 白山比咩命(しらやまひめのみこと)(水の神)
「愛宕社(あたごしゃ)」 美命(いざなみのみこと)(素戔嗚尊の母神)および火産霊命(ほむすびのみこと)(火伏せの神)
「金峰社(きんぶしゃ)」 金山彦命(かなやまひこのみこと)(鉱物・金属の神)および磐長比売命(いわながひめのみこと)(延命長寿の神)
「春日社(かすがしゃ)」 天児屋根命(あめのこやねのみこと)(中臣氏の祖神)および武甕槌神(たけみかづちのかみ)(武の神)および斎主神(いわいぬしのかみ)(武の神)および比売神(ひめがみ)(天児屋根命の妃神)
「香取社(かとりしゃ)」 経津主神(ふつぬしのかみ)(武の神)
「諏訪社(すわしゃ)」 健御名方神(たけみなかたのかみ)(武の神)
「松尾社(まつおしゃ)」 大山咋神(おおやまくいのかみ)(素戔嗚尊の子神で山の神)
「阿蘇社(あそしゃ)」 健磐龍神(たけいわたつのかみ)(神武天皇の孫神)および阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)(健磐龍神の妃神)および速甕玉命(はやみかたまのみこと)(阿蘇氏の祖神)
10/12に十社祭、7/2に諏訪社祭を開催。
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鉾
車祓所のすぐ横にあるモニュメント。
祇園祭を彩る鉾の形をしている。
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車祓所
西楼門をくぐって右に曲がってすぐ、本殿へ向かう途中にある。
交通安全のお祓いが行われる場所。
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清志館
西楼門をくぐり右に曲がってすぐ、本殿へ向かう途中のトイレのすぐそばにある建物。
1階が八坂神社を拠点として活動するボーイスカウト、2階は同じくガールスカウトが使用しているとのこと。
南楼門付近
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石鳥居
南の入口の南楼門の前に立つ鳥居で、現存する石造りの鳥居では最大級といわれ国の重文にも指定。
栃木県日光の日光東照宮や神奈川県鎌倉の鶴岡八幡宮のものとともに日本三大石鳥居にも挙げられる。
1646年(正保3年)に建立も1662年(寛文2年)の地震で倒壊、その後1666年(寛文6年)に再建。
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南楼門(みなみろうもん)
本殿南側に位置する出入口にある八坂神社の正門。
慶応2年に焼失し1879年(明治12年)に再建。
四条通や祇園交差点に面する西楼門から参拝する場合が多いが、この門からは下河原通に通じており、高台寺や八坂の塔(法観寺)、二年坂や産寧坂を経て清水寺へと通じる東山の観光名所などへのアクセスに便利。
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手水舎(ちょうずや・てみずや)
南楼門を入ってすぐの所にある。
参詣者が手や口をすすぎ清める場所。
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自販機
限定販売されている「祇園水」を購入することができる自動販売機。
清なる神の徳と、青龍の力を秘めた水。
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神輿庫
祇園祭の神幸祭・還幸祭で使われる3基の神輿(みこし)が収納されている。
中御座、西御座、東御座の3基の神輿は7/17の神幸祭の日の夕方に氏子に担がれて市中を練り歩き御旅所に1週間納められた後、7/24の還幸祭の日の夕方に御旅所から八坂神社へと戻っていく。
7/10と7/28にはそれぞれ神輿洗が行われ、28日の儀式の終了後に神輿庫に収められる。
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常磐殿(ときわでん)
元は光照院門跡の寝殿だった建物で、現在の建物は江戸幕府の寄進により再建され1789年(寛政元年)に光格天皇より「常盤御所」の名を賜る。
明治後期に三井邸に移築された後、1956年(昭和31年)に八坂神社に移築された。
一般非公開で祝宴などで使用される。
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常磐新殿(ときわしんでん)
総合結婚式場で婚礼相談を受け付ける。
その他展示会・会議・宴会・懇親会など多彩な催しにも利用されているという。
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喫茶室「栴檀」(せんだん)
常磐新殿内にある喫茶室で、無病息災の厄除ぜんざいなどを楽しめる。
栴檀とは植物の名前で、常盤新殿駐車場の出入口にも植えられているという。
利用者には常盤新殿駐車場の1時間無料券が進呈される。
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藤屋と空也上人ゆかりの井戸
明治初年まで、現在も向かいに現存する中村楼とともに南楼門前で二軒茶屋として親しまれた茶店「藤屋」があった場所。
店の傍らに藤棚があったため付けられた屋号で、参詣者はここにあった井戸の水を沸かした白湯を飲み身を清めてから参拝したため「きよめの茶屋」と呼ばれていたという。
ちなみにこの井戸は925年(延長3年)に醍醐天皇や人々が疱瘡に罹って苦しんでいた際、空也上人が参拝し病気平癒を祈願し井戸の水を用いた白湯を人々に施し癒したという逸話も残っている。
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南楼門の参道の西側にある「神燈」と刻まれた大きな石で、1839年(天保10年)の建立。「月下氷人」とは仲人を意味するが、そう呼ばれるようになった由来は不明。
江戸時代に迷子を探す手立てとして石碑の片側に迷子の名前などを書いた紙を貼り、その反対側に情報提供者が情報を書いた紙を貼るという習俗が見られたが、京都で有名なのが誓願寺の「迷子しるべ石」と北野天満宮の「奇縁氷人石」と八坂神社のこの石だという。
元々は境内の東側にある忠盛燈籠のそばにあったが、1996年9月の平成の大修理の際に現在地に移された。
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二軒茶屋 中村楼(にけんちゃや なかむらろう)
南楼門前に位置。宮家や財界人、文化人や芸術家、外国の要人などが集う格式ある老舗料亭。
室町時代創業といわれる二軒茶屋のうち東側の「柏屋」を前身とし、「都名所図会拾遺」や「東海道中膝栗毛」などの文献にも記録が残る由緒を持つ。
白味噌をのせた田楽豆腐が名物。
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二軒茶屋カフェ
中村楼に併設。
甘味メニューや名物の田楽豆腐を頂ける和風のカフェ。
境内東側
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玉光門
本殿南東、玉光稲荷社のそばにある出入口で、円山公園の南に通じている。
入口には朱色の鳥居がある。
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命婦稲荷社(みょうぶいなりしゃ)
玉光稲荷社の奥宮(権殿)。三狐神(みけつのかみ)を祀る。
命婦とは律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性あるいは官人の妻の地位を意味するが、稲荷社においては神の使いである狐にこの官位が与えられため名がついたという。
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玉光稲荷社(たまみついなりしゃ)
境内末社で、稲荷神社の祭神として知られる宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀り、五穀豊穣や商売繁盛に関わる神として信仰を集める。
権殿の「命婦稲荷社」とは二社で一体をなす。
3月の二午日に春季祭、11月の二午日にはお火焚きも行われる秋季祭を開催。
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清々館
境内東側にある茶室。月釜(毎月3日の月例のお茶会)などで使用される。
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祇園祭山鉾館
平安時代から続き、日本三大祭の一つにも挙げられ、京都の代表的祭りとして知られる祇園祭。
その祇園祭を彩る山と鉾は「祇園祭山鉾」として国の重要有形民俗文化財、その行事についても「京都祇園祭の山鉾行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
これらの山と鉾のうち保存が困難な状況になった10基の山鉾を永久に保存するため1968年(昭和43年)11月に建設された。
保存されているのは左から木賊山、芦刈山、伯牙山、郭巨山、油天神山、太子山、浄妙山、黒主山、孟宗山、岩戸山。
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瑤池軒
舞殿を東へ、玉光門へ向かう途中にある茶室。
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祇園神水(力水)(ぎおんしんすい(ちからみず))
本殿の東側、大神宮社の右手前にある湧水で「力水」とも呼ばれる。
京都は四神相応の地といわれ、このうち八坂神社のある東側は青龍の地にあたる。
本殿の地下には「龍穴」と呼ばれる池があって青龍が棲んでいると伝えられ、ここから湧き出ていることから霊水として信仰されている。
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大神宮社(だいじんぐうしゃ)
三重県の伊勢神宮の祭神である天照大御神を内宮に、豊受大神を外宮に祀る。
天照大御神は皇室の祖神で素戔嗚尊の姉神にあたり、豊受神は天照大御神の食事を司る神として知られる。
4/17に春季祭、10/17に秋季祭を開催。
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二見石(ふたみいわ)
大神宮社の内宮と外宮の2つの祠の間にあり、八坂神社の七不思議の一つに挙げられている。
地球の地軸に達するほど深く伸びているといわれている。
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忠盛灯籠(ただもりとうろう)
平家の棟梁として知られる平清盛の父・平忠盛ゆかりの燈籠。
平安末期の永久年間に忠盛が祇園女御の許に赴く白河法皇の供をして付近を通った際、五月雨の降る夜に前方に鬼のようなものが見えたことから討ち取るよう命じられるが、その正体を見定めてからと生け捕りにしてみると、蓑をまとい油壺と松明を持ち燈籠に灯りを献じようとしていた祇園社の僧だったという、忠盛の思慮深さを知らしめる有名なエピソード。
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悪王子社(あくおうじしゃ)
境内摂社で、八坂神社の祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒魂(あらみたま)を祀り、諸願成就の神徳を持つ。
ちなみに悪王子の「悪」とは「強力」という意味で、荒魂とは現実に姿を顕す霊験あらたかな神を意味しているという。
元々は下京区の東洞院四条下がるの元悪王子町、更には烏丸通万寿寺下がる悪王子町などにあったが、1877年(明治10年)に八坂神社境内に移築された。
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祓所
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句碑
境内東側の美御前社と悪王子社の間にあり、「東山回して鉾を回しけり」と刻まれている。
後藤比奈夫氏が1977年(昭和52年)7月の祇園祭吟行の「諷詠写生会」で祇園祭巡行の名物として有名な辻回しの一場面を詠んだもの。
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美容水
美御前社にあるご神水。
飲料水ではないが、少量を肌につけると肌の健康はもちろん、心も美しく磨かれるご利益があるという。
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美御前社(うつくしごぜんしゃ)
境内末社で、宗像三女神である市杵島比売神(いちきしまひめ)・多岐理比売神(たぎりひめ)・多岐津比売神(たぎつひめ)を祀る。
宗像三女神は八坂神社の祭神である素戔嗚尊が天照大神と誓約をした際に持っていた十拳剣を振りすすいで生まれ、清浄・潔白の証しにもまった女神。
美を象徴する神として祀られていることから、古くより祇園の芸妓・舞妓さんをはじめ美しくなりたい願望を持つ女性から厚く信仰されているほか、美容・理容・化粧品業界の崇敬も集めている。
11月の第3月曜日に理容美容感謝祭、11/15に美御前社祭を開催。
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東北門
本殿北東にある出入口で、円山公園の北に通じている。
入口には朱色の鳥居がある。
北門付近
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北門(きたもん)
本殿の北西側にある出入口。
境内北側の市民の森や円山公園駐車場にも面している。
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絵馬堂(えまどう)
境内の北西に位置。1780年(安永9年)の「都名所図会」にはその姿が描かれており、江戸時代には建てられていたと考えられる。
内外に数多くの絵馬が飾られている。
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神馬舎(しんめしゃ)
神馬は祈願祈祷のため古来より幣物として奉献され、古くは平安初期の920年(延喜20年)に朝廷より幣帛走馬が奉られたのが初見で、その後も6/15の祇園会の臨時祭に神楽の東遊とともに奉られ南北朝時代まで続き、室町期には将軍家から頻繁に奉献されたという。
1875年(明治8年)まで境内に実際に神馬が飼われていたが、現在は木製の神馬二頭が奉安され現在に至る。
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厳島社(いつくしましゃ)
境内末社で天照大神と素戔嗚尊が誓約をした際に素戔嗚尊の持つ剣から生まれた宗像三神のうちの一人である市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を祀る。
容姿端麗で舞を踊ることから舞踏・謡曲の神として知られる。
ちなみに宗像三神は境内末社・美御前社の祭神でもある。
3/15に厳島社祭を開催。
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祖霊社(それいしゃ)
八坂神社の役員や関係物故者の御霊を顕彰し御祭神として祀る。
春分の日に春季祭、秋分の日に秋季祭を開催。
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五社(ごしゃ)
「八幡社(はちまんしゃ)」 武の神である応神天皇(おうじんてんのう)を祀る。例祭は9/15。
「竈社(かまどしゃ)」 竈の神である奥津日子神(おくつひこのかみ)・奥津日売神(おくつひめのかみ)を祀る。例祭は11/28。
「風神社(かぜじんじゃ)」 風の神である天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)を祀る。例祭は4/4。
「天神社(てんじんじゃ)」 薬の神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る。例祭は12/8。
「水神社(みずじんじゃ)」 水の神である高龗神(たかおかみのかみ)・罔象女神(みずはのめのかみ)を祀る。例祭は6/1。
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刃物神社(はものじんじゃ)
境内末社で刃物大神(天目一箇神)を祀る。
京都は刀剣を始めとする刃物の製作に多くの名工を輩出し刃物産地の基盤を確立した先祖の偉業を偲び1973年(昭和48年)に創建。
社内には1976年(昭和51年)に建立された刃物の発祥の地であることを記念する「刃物発祥地」の石碑も立つ。
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日吉社(ひよししゃ)
本殿の北東角に位置。
素戔嗚尊の子孫にあたる「大山咋神(おおやまくいのかみ)」と「大物主神(おおものぬしのかみ)」を祀る。
方除神として知られ、京都の鬼門・北東を守る守護神として信仰を集める。
4月の初申日(はつさるのひ)には日吉社祭を開催。
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夜泣き石(よなきいし)
日吉社の右手前の木の根元にある石。
夜になるとすすり泣くと伝わり、赤子の夜泣きやカン虫封じにご利益があるという。八坂神社の七不思議の一つにも数えられている。
関連
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四条御旅所
四条京極南側に位置。7月の祇園祭において7/17の神幸祭から7/24の還幸祭までの間3基の神輿が安置される。
元々御旅所は大政所御旅所と少将井御旅所にあったが、1592年(天正19年)に豊臣秀吉の命により現在地に統合移設され、1912年(明治45年)の四条通の拡幅工事に伴い現在の姿に。
隣に開設されている「Otabi Kyoto(旧・四条センター)」では京の土産物なども販売している。
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四条御旅所の隣(東側)にある商業施設で、食品や工芸などの京の土産物を販売。
1961年(昭和36年)に近隣の商店主らが設立した「四条センター」が御旅所を借りる形で開店し、2013(平成25年)年9月4日に店名変更してリニューアルオープンした。
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冠者殿社(かんじゃでんしゃ)
四条御旅所内にある境外末社で「官社殿社」と表記されることも。八坂神社の祭神である素戔嗚尊の荒魂(にぎみたま)を祀る。
元々は大政所御旅所に鎮座していたが、御旅所が1592年(天正19年)に豊臣秀吉の命により四条御旅所に統合移設された際に樋口高倉(万寿寺通高倉)に移され(現在の官社殿町)、慶長の初めに現在地に移された。
10月20日の冠者殿社祭は「誓文払い」と呼ばれ、一切無言で行わないと願いが叶わないとされる「無言詣」で知られているほか、「歳末大安売り」の起源とされている。古来より商取引の上でやむを得ず犯した罪を祓い清めてくれる社として商人からの信仰厚く、償いと更なる発展の意識から年一回の大安売りをして客に還元する商道徳が守られてきた。
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三条御供社(又旅社)(ごくうしゃ(またたびしゃ))
境外末社で、三条通黒門に位置し、三条会商店街の中にある。
7月の祇園祭において7/24の還幸祭の際に3基の神輿が安置される。
祇園祭の起源ともいわれる御霊会が行われた神泉苑の南端に位置することから「祇園祭発祥の地」ともされている。
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大政所御旅所旧跡(おおまんどころおたびしょきゅうせき)
四条烏丸のやや南、烏丸通に面する烏丸通仏光寺下ルに位置。1592年(天正19年)に豊臣秀吉の命により四条御旅所に統合移設されるまで御旅所だった場所。
7月の祇園祭において7/15に長刀鉾の長刀が納められ、翌7/16に神剣拝戴の儀が開催される。
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京丹波町にある八坂神社の分社
毎年5月下に「御田祭」が開催されるほか、八坂神社の本殿などに飾られる注連縄は尾長野地区で作られている