京都市東山区の東西は鴨川と木屋町の間、南北は三条通の一筋南から四条通の間の約500mの車両が通行できないほど細長い「先斗町」と呼ばれる歓楽街の北端に位置する歌舞練場。
元々は鴨川の砂洲だった場所で、江戸中期の1670年(寛文10年)に鴨川と高瀬川の護岸工事によって埋め立てられたのを機に町並みが整えられていったといわれています。
初めて水茶屋が設けられたのは1712年(正徳2年)頃といわれていて、当初は高瀬川を往来するする高瀬舟の船頭や旅客向けに生まれた旅籠や茶屋が中心でしたが、1813年(文化10年)に正式に芸妓取り扱いの許可が下り、更に幕末の1859年(安政6年)に芸者稼業の公許が下りたのを機に祇園と並ぶ「花街」として発展しました。
現在も舞妓・芸妓の行き交う花街としてのみならず、京町家の紅殻格子(べんがらごうし)が左右に立ち並ぶ風情のある町並みと、雰囲気の良い数多くの飲食店、それに夏に鴨川沿いの東側の店に設けられる納涼床などでも人気を集めています。
ちなみに名前の由来は諸説ありますが、開発が進む前は京の町の東の先端にあることから「御崎(みさき)」と呼ばれていたため、ポルトガル語で「先っぽ」を意味する「ポント」を語源として名付けられたといわれています。
そもそも「舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)とは、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを生業とする女性の事をいいます。
舞妓とは芸妓になる前の15~20歳くらいまでの見習い期間をいい、通常は舞妓として約5年間修行した後に芸妓になります。
ちなみに舞妓になるまでにも準備期間があり、これを「仕込み(しこみ)」といいます。
花街のしきたりや京ことばなどを約1年学んだ後に「店出し・見世出し(みせだし)」をして晴れて舞妓となります。
彼女たちはそれぞれが「置屋(おきや)」と呼ばれる家に所属し、そこから「お茶屋(おちゃや)」や「料亭(りょうてい)」へ送り出され、宴席で芸を披露します。
お茶屋と料亭の違いは料理を直接提供するか否かで、お茶屋は直接提供はせず、「仕出し屋(しだしや)」から取り寄せることになります。
そしてこれらのお茶屋や置屋などが集まって形成されているのが「花街(かがい)」です。
歌舞練場(かぶれんじょう)とは、京都の花街(かがい)にある劇場のことで、芸妓・舞妓たちが歌や舞踊、楽器などの稽古をする練習場であると同時に、その発表のための場所でもあります。
現在京都には祇園甲部(ぎおんこうぶ)・先斗町(ぽんとちょう)・宮川町(みやがわちょう)・上七軒(かみしちけん)・祇園東(ぎおんひがし)のいわゆる「五花街」が現存しており、それぞれが専用の歌舞練場を持っています。
そして各花街は春と秋にそれぞれの歌舞練場を舞台に舞踊公演を行っており(祇園東のみ秋だけの公演)、芸妓・舞妓たちにとってはお茶屋や料亭・旅館などでのお座敷接待以外の主要な活動の一つとなっています。
またその他にも五花街の合同公演として6月下旬に行われる「都の賑い」も主要な舞踊公演の一つです。
ちなみにこれらの舞踊公演以外にも古くより花街に伝わる伝統行事がいくつかあり、五花街に共通したものとしては、正装の黒紋付に縁起物の稲穂のかんざしをつけて新年の挨拶を行う1月7日の「始業式(しぎょうしき)」(上七軒のみ1月9日)や、日頃お世話になっている師匠やお茶屋に感謝の気持ちを伝える8月1日の「八朔(はっさく)」、12月初旬の南座の歌舞伎の顔見世興行に芸舞妓が揃って観劇する「顔見世総見(かおみせそうけん)」、そして一年のお礼と新年に向けた挨拶をする12月13日の「事始め(ことはじめ)」は有名です。
その他にも祇園祭の花傘巡行や時代祭などの京都を代表する行事のみならず、各花街独自に参加する伝統行事も多数あり、また近年はメディアへの露出や京都市などが開催する各種イベントなどに参加する機会も増えるなど、京都の観光のシンボルとして重要な役割を果たしています。
「先斗町歌舞練場」は「先斗町」の芸舞妓たちが拠点とし、春に「鴨川をどり」、秋に「水明会」と呼ばれる舞踊公演を行う会場となっていますが、その歴史が始まったのは明治維新直後のことでした。
1872(明治5)年、明治維新による東京奠都(とうきょうてんと)により低迷しかけた京都の繁栄を願って開かれた第1回「京都博覧会」の余興として「鴨川をどり」を企画し、観光客誘致の一助として祇園甲部の都をどりと共に上演されたのがはじまり。
その後、明治期の11年間や第二次世界大戦で中断された時期もありましたが、戦後すぐに再開され、現在は年中行事として定着し、京に初夏の訪れを告げる風物詩となっています。
ちなみに1951年(昭和26年)から1998年(平成10年)までは、春・秋と年2回の公演が行われていたこともあり、その公演回数は京の五花街の中でも最多上演回数を誇る舞踊公演となっています。
鴨川をどりは舞踊の流派が歌舞伎俳優・尾上宗家六代目尾上菊五郎によって創立された「尾上流」であることもあって、総踊形式の都をどりに対し、第1部が演劇的な要素を多く取り入れた舞踊劇、第2部が純舞踊の二部構成で行われており、その豪華絢爛かつ洗練された舞台内容は海外でも評判となり、フランスの芸術家ジャン・コクトー(1889-1963)やイギリスの映画俳優で喜劇王のチャーリー・チャップリン(1889-1977)など海外の著名人をも魅了したといいます。
そして「先斗町歌舞練場」は1895年(明治28年)、平安遷都1100年記念として鴨川をどりが11年ぶりに再開された際に先斗町に歌舞練場が新築され、その後1927年(昭和2年)に大阪松竹座や東京劇場などを手がけ劇場建築の名手といわれた大林組技師・木村得三郎の設計により現在の建物が建て直されています。
地上4階、地下1階のレンガ調の鉄筋コンクリート造りの建物で、屋根には中国の蘭陵王の舞楽面を型取った鬼瓦が、先斗町の繁栄を祈念してその守り神として据えられています。
当時より「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛され、現在も「鴨川をどり」「水明会」のほかにも日本舞踊や邦楽の発表会、お稽古場、コンサートや展示会の会場など、幅広く一般にも使用できるよう諸設備が整えられています。