先斗町歌舞練場(鴨川をどり)

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先斗町歌舞練場(鴨川をどり)

豪華絢爛の舞台で人々を魅了する「鴨川をどり」

鴨川と木屋町通の間を南北に走る先斗町通の北端にある歌舞練場。鉄筋コンクリート造地上4階地下1階。 先斗町花街の芸妓・舞妓の舞踊公演で、毎年5月開催の「鴨川をどり」の会場として使用。 秋には先斗町芸妓による伎芸発表会「水明会」も開催。日本舞踊の発表会や稽古場、展示場にも使用

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先斗町歌舞練場(鴨川をどり)とは?(基本データ)

名前
先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)
エリア
祇園・東山
ジャンル

花街 劇場・映画館・イベントホール 近代建築 鴨川 火焚祭 茶会・献茶祭

建立・設立
1872(明治5)年、明治維新による東京奠都(とうきょうてんと)により低迷しかけた京都の繁栄を願って開かれた第1回「京都博覧会」の余興として「鴨川をどり」を企画し、裏寺町の烏須沙摩図子(うすさまずし)の「千代の家」にて上演される(鴨川をどり初演)
1883年(明治16年)、景気の低迷でいったん休止となる
1895年(明治28年)、平安遷都1100年記念として鴨川をどりが11年ぶりに再開され、この際に先斗町に歌舞練場が新築される
1927年(昭和2年)、大阪松竹座や東京劇場を手がけ劇場建築の名手といわれた大林組技師・木村得三郎の設計により現在の「先斗町歌舞練場」が完成
1930年(昭和5年)、先斗町の芸妓による伎芸発表会「水明会」開催
1951年(昭和26年)、春・秋との2回公演で上演開始(1998年まで続く)
花街
先斗町(東西は鴨川と木屋町の間、南北は三条通の一筋南から四条通)
舞踊
尾上流(おのえりゅう)
春の公演
鴨川をどり(5/1~5/24)
秋の公演
水明会(すいめいかい)(10月中)
紋章
千鳥(ちどり)
アクセス
  • 京阪本線・鴨東線「三条」駅下車 6番出口より徒歩約5分
  • 京都市営地下鉄東西線「三条京阪」駅下車 6番出口より徒歩約5分
  • 阪急京都線「京都河原町」駅下車 1番出口より先斗町通を北へ徒歩10分
  • 京都市営バス「河原町三条」(3・4・5・10・11・15・17・32・37・51・59・205号系統)下車 徒歩約5分
  • 京都バス「河原町三条」(17・51系統ほか)下車 徒歩約5分
  • 京阪バス「河原町三条」(84B・86B・87B・88B系統ほか)下車 徒歩約5分
駐車場
京都市御池地下駐車場
└普通車1,000台 30分毎250円/一泊(21:00~9:00) 1,500円
6:00~24:00
TEL:075-253-2760
拝観料
■鴨川をどり観覧券
├茶券付特別席 4,500円
├特別席 4,000円
└普通席 2,000円
■水明会観覧券
├指定席 8,000円、7,000円
└当日券(自由席) 3,000円
※土・日は要確認
お休み
■鴨川をどり開催期間
└5月1日~24日
■水明会開催期間
└10月中旬
拝観時間
■鴨川をどり開演時間
└12:30、14:20、16:10
■水明会開演時間
└16:00
住所
〒604-8003
京都府京都市中京区先斗町三条大橋西詰
電話
075-221-2025(先斗町歌舞会)
FAX
-
公式サイト
先斗町・鴨川をどり
先斗町鴨川をどり Facebook
先斗町鴨川をどり Instagram
京都 先斗町のれん会
おおきに財団 財団法人京都伝統伎芸振興財団
先斗町 尾上京日本舞踊教室

先斗町歌舞練場(鴨川をどり)の地図

先斗町歌舞練場(鴨川をどり)のみどころ (Point in Check)

京都市東山区の東西は鴨川と木屋町の間、南北は三条通の一筋南から四条通の間の約500mの車両が通行できないほど細長い「先斗町」と呼ばれる歓楽街の北端に位置する歌舞練場。

元々は鴨川の砂洲だった場所で、江戸中期の1670年(寛文10年)に鴨川と高瀬川の護岸工事によって埋め立てられたのを機に町並みが整えられていったといわれています。

初めて水茶屋が設けられたのは1712年(正徳2年)頃といわれていて、当初は高瀬川を往来するする高瀬舟の船頭や旅客向けに生まれた旅籠や茶屋が中心でしたが、1813年(文化10年)に正式に芸妓取り扱いの許可が下り、更に幕末の1859年(安政6年)に芸者稼業の公許が下りたのを機に祇園と並ぶ「花街」として発展しました。

現在も舞妓・芸妓の行き交う花街としてのみならず、京町家の紅殻格子(べんがらごうし)が左右に立ち並ぶ風情のある町並みと、雰囲気の良い数多くの飲食店、それに夏に鴨川沿いの東側の店に設けられる納涼床などでも人気を集めています。

ちなみに名前の由来は諸説ありますが、開発が進む前は京の町の東の先端にあることから「御崎(みさき)」と呼ばれていたため、ポルトガル語で「先っぽ」を意味する「ポント」を語源として名付けられたといわれています。

そもそも「舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)とは、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを生業とする女性の事をいいます。

舞妓とは芸妓になる前の15~20歳くらいまでの見習い期間をいい、通常は舞妓として約5年間修行した後に芸妓になります。

ちなみに舞妓になるまでにも準備期間があり、これを「仕込み(しこみ)」といいます。
花街のしきたりや京ことばなどを約1年学んだ後に「店出し・見世出し(みせだし)」をして晴れて舞妓となります。

彼女たちはそれぞれが「置屋(おきや)」と呼ばれる家に所属し、そこから「お茶屋(おちゃや)」や「料亭(りょうてい)」へ送り出され、宴席で芸を披露します。
お茶屋と料亭の違いは料理を直接提供するか否かで、お茶屋は直接提供はせず、「仕出し屋(しだしや)」から取り寄せることになります。
そしてこれらのお茶屋や置屋などが集まって形成されているのが「花街(かがい)」です。

歌舞練場(かぶれんじょう)とは、京都の花街(かがい)にある劇場のことで、芸妓・舞妓たちが歌や舞踊、楽器などの稽古をする練習場であると同時に、その発表のための場所でもあります。

現在京都には祇園甲部(ぎおんこうぶ)・先斗町(ぽんとちょう)・宮川町(みやがわちょう)・上七軒(かみしちけん)・祇園東(ぎおんひがし)のいわゆる「五花街」が現存しており、それぞれが専用の歌舞練場を持っています。

そして各花街は春と秋にそれぞれの歌舞練場を舞台に舞踊公演を行っており(祇園東のみ秋だけの公演)、芸妓・舞妓たちにとってはお茶屋や料亭・旅館などでのお座敷接待以外の主要な活動の一つとなっています。
またその他にも五花街の合同公演として6月下旬に行われる「都の賑い」も主要な舞踊公演の一つです。

ちなみにこれらの舞踊公演以外にも古くより花街に伝わる伝統行事がいくつかあり、五花街に共通したものとしては、正装の黒紋付に縁起物の稲穂のかんざしをつけて新年の挨拶を行う1月7日の「始業式(しぎょうしき)」(上七軒のみ1月9日)や、日頃お世話になっている師匠やお茶屋に感謝の気持ちを伝える8月1日の「八朔(はっさく)」、12月初旬の南座の歌舞伎の顔見世興行に芸舞妓が揃って観劇する「顔見世総見(かおみせそうけん)」、そして一年のお礼と新年に向けた挨拶をする12月13日の「事始め(ことはじめ)」は有名です。

その他にも祇園祭の花傘巡行や時代祭などの京都を代表する行事のみならず、各花街独自に参加する伝統行事も多数あり、また近年はメディアへの露出や京都市などが開催する各種イベントなどに参加する機会も増えるなど、京都の観光のシンボルとして重要な役割を果たしています。

「先斗町歌舞練場」は「先斗町」の芸舞妓たちが拠点とし、春に「鴨川をどり」、秋に「水明会」と呼ばれる舞踊公演を行う会場となっていますが、その歴史が始まったのは明治維新直後のことでした。

1872(明治5)年、明治維新による東京奠都(とうきょうてんと)により低迷しかけた京都の繁栄を願って開かれた第1回「京都博覧会」の余興として「鴨川をどり」を企画し、観光客誘致の一助として祇園甲部の都をどりと共に上演されたのがはじまり。

その後、明治期の11年間や第二次世界大戦で中断された時期もありましたが、戦後すぐに再開され、現在は年中行事として定着し、京に初夏の訪れを告げる風物詩となっています。

ちなみに1951年(昭和26年)から1998年(平成10年)までは、春・秋と年2回の公演が行われていたこともあり、その公演回数は京の五花街の中でも最多上演回数を誇る舞踊公演となっています。

鴨川をどりは舞踊の流派が歌舞伎俳優・尾上宗家六代目尾上菊五郎によって創立された「尾上流」であることもあって、総踊形式の都をどりに対し、第1部が演劇的な要素を多く取り入れた舞踊劇、第2部が純舞踊の二部構成で行われており、その豪華絢爛かつ洗練された舞台内容は海外でも評判となり、フランスの芸術家ジャン・コクトー(1889-1963)やイギリスの映画俳優で喜劇王のチャーリー・チャップリン(1889-1977)など海外の著名人をも魅了したといいます。

そして「先斗町歌舞練場」は1895年(明治28年)、平安遷都1100年記念として鴨川をどりが11年ぶりに再開された際に先斗町に歌舞練場が新築され、その後1927年(昭和2年)に大阪松竹座や東京劇場などを手がけ劇場建築の名手といわれた大林組技師・木村得三郎の設計により現在の建物が建て直されています。

地上4階、地下1階のレンガ調の鉄筋コンクリート造りの建物で、屋根には中国の蘭陵王の舞楽面を型取った鬼瓦が、先斗町の繁栄を祈念してその守り神として据えられています。

当時より「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛され、現在も「鴨川をどり」「水明会」のほかにも日本舞踊や邦楽の発表会、お稽古場、コンサートや展示会の会場など、幅広く一般にも使用できるよう諸設備が整えられています。

先斗町歌舞練場(鴨川をどり)の施設案内

先斗町の花街は東西は鴨川と木屋町の間、南北は三条通の一筋南から四条通の間の、南北約500mの先斗町通一帯にあります。

車も通行できないほどの細い路地にお茶屋以外にも数多くの飲食店や土産物屋が密集しており、情緒ある町並みで知られています。

先斗町歌舞練場はその北端に位置し、三条大橋西詰にある「東海道五十三次」でおなじみの弥次喜多像の所から川沿いの道を一筋南へ進み、突き当たりを右折してすぐの所にあります。
レンガ調の歴史を感じさせる外観は三条大橋や鴨川からも非常に目立つことから、付近を通れば必ず目にする建物です。

2013年(平成25年)現在で26のお茶屋が現存しており、多くは鴨川に面する東側にあるため、夏には納涼床(川床)も出て鴨川からは趣のある情景が楽しめます。

南端は四条大橋の西詰に隣接しており、阪急河原町駅と京阪祇園四条駅の出入口の間にあるため、土日はもちろん、普段から非常に人通りの多い場所です。

その入口には「先斗町」と書かれた白い看板と、看板の下には鴨川の冬の風物詩でもある川を飛び交う千鳥(ちどり)の姿をあしらった先斗町の紋章「千鳥紋」の入った赤い提灯が吊り下げられています。

先斗町歌舞練場

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    先斗町歌舞練場

     

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    先斗町お茶屋営業組合・先斗町歌舞会・先斗町芸妓組合

     

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    鴨川学園

     

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    正一位稲荷権太夫明神

     

花街(お茶屋・置屋)

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    先斗町(先斗町通)

     

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    先斗町南口

     

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    久富美

     

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    楠本

     

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    三芳

     

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    井雪

     

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    福本

     

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    上田梅

     

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    丹米

    納涼床

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    かごもと

     

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    田川

     

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    さゝき

     

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    丹鶴

     

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    松本

     

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    久菊

     

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    舛之矢(ますのや)

    納涼床

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    栄藤

     

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    西里

     

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    大市(だいいち)

    サロン「心月(しんげつ)」を併設
    納涼床

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    丹美賀

     

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    置屋やまぐち

     

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    石房

     

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    吉富久

     

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    村政

     

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    初乃屋

    納涼床

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    やすい

     

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    吉田

     

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    あだち

    1階は小料理屋

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    置屋勝見

     

関連

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    南座

     

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    祇園小唄歌碑

     

周辺

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    三条大橋

     

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    十五大明神

     

その他の花街

先斗町歌舞練場(鴨川をどり)の主な年間行事・カレンダー

年中行事

1/7

始業式(しぎょうしき)

五花街で行われる新年を祝う伝統行事で、芸妓・舞妓たちのほか、花街関係者やお茶屋、置屋の女将(おかみ)らが一同に集まって行われる
祇園甲部は八坂女紅場、先斗町は鴨川学園、宮川町は東山女子学園、祇園東はお茶屋組合の2階でそれぞれ1月7日、上七軒のみ上七軒歌舞練場で1月9日の開催
主役の芸妓・舞妓たちは黒紋付三本襟足の正装で出席し、花簪(はなかんざし)の代わりに正月用の縁起物の「稲穂」のかんざしを身に着けるのがならわし
関係者と「おめでとうさんどす」と挨拶を交わし、その年の精進を誓うほか、前年の売上成績の良いお茶屋や芸妓・舞妓の表彰式も行われ、最後の締めには新年を寿ぐ舞の奉納も
始業式の開始前に凛とした姿で会場へと向かう姿や、終了後に各お茶屋などへ挨拶回りに向かう姿は年始の風物詩となっており、ともに多くのカメラを携えたギャラリーが詰めかける

2/2

八坂神社節分祭奉納舞踊(やさかじんじゃせつぶんさいほうのうぶよう)

「節分祭」は古来より陰陽道では季節の変わり目である節分は陰と陽が対立し生まれた邪鬼が災難をもたらすと伝えられており、これを追い払い一年間の無病息災や五穀豊穣を祈願して行われる行事
八坂神社境内の舞殿(ぶでん)にて、祇園の四花街の芸舞妓による華やかな舞踊奉納と福豆撒き(ふくまめまき)が見どころで、境内に鬼はいないとの前提で掛け声は「福は内」だけなのも特徴の一つ
先斗町の担当は2月2日の「節分祭前日」の13:00から

2/3

節分お化け(せつぶんおばけ)

「節分お化け」とは、節分の日に仮装など普段と異なる姿に扮することで鬼を化かし、驚かして追い払う風習
平安時代にまで遡るとされている行事といわれ、節分の厄払いといえば現在では豆まきなどの追儺儀式が有名だが、京都では江戸時代から昭和初期にかけ町内を中心に盛んに行われていたという
戦後廃れてしまい、一時は花街で芸妓・舞妓が行なう行事としてのみ知られていたが、近年再び節分おばけの行事を盛り上げようという動きもみられる
花街では節分の前後3日間のみ普段の芸舞妓の格好とは違った扮装をしてお座敷を回ることが許されているらしく、お座敷でも普段とは違う特別な芸を披露したり、またお茶屋も色々な趣向を凝らしたお化けイベントを開催している
節分の夜の花街周辺では、運が良ければ仮装をした「お化け」姿の芸舞妓を目撃することができるという

3月初~3月中

東山花灯路(ひがしやまはなとうろ)

京都の夜の新たな風物詩となることを目指して、2003年(平成15年3月)から始められた「灯り」をテーマに始められたイベントで、北は青蓮院から知恩院、円山公園、八坂神社、高台寺を通り、二年坂や産寧坂を経て南は清水寺に至る約4.6kmの路地を行灯で照らす
その他にも公園や普段は夜間拝観は行っていない周辺の寺社などでもライトアップや様々な行事・イベントが開催される
花街からは祇園甲部・先斗町・宮川町・上七軒・祇園東が日替わりで八坂神社にて舞を披露する
[公式]

4/16

平安神宮例祭 神賑奉納舞踊(へいあんじんぐうれいさい しんしんほうのうぶよう)

平安神宮の4月15日の「例祭」の翌日の「例祭翌日祭(れいさいよくじつさい)」では、例祭斎行を奉祝して10:00より各付属団体の会員らが参列し「神饌講・澄心会・献花会・献茶講大祭」が盛大に行われる
併せて12:00から大極殿前の特設舞台にて、は包丁式や神楽舞、舞楽、各花街の舞妓による舞踊などが華やかに上演される「神賑行事(しんしんぎょうじ)」が開催される

5/1~5/24

鴨川をどり(かもがわをどり)

五花街のうち、秋に開催する祇園東を除く4つの花街で行われる「春のをどり」の一つで、新緑の5月より約1か月間開催される
芸舞妓たちが日頃の稽古の成果を披露する晴れの舞台であり、他の花街のものとともに京都の春の風物詩となっている
1872(明治5)年、明治維新による東京奠都(とうきょうてんと)により低迷しかけた京都の繁栄を願って開かれた第1回「京都博覧会」の余興として「鴨川をどり」を企画し、観光客誘致の一助として祇園甲部の都をどりと共に上演されたのがはじまり
ちなみに1951年(昭和26年)から1998年(平成10年)までは、春・秋と年2回の公演が行われていたこともあり、その公演回数は京の五花街の中でも最多上演回数を誇る
舞踊の流派が歌舞伎俳優・尾上宗家六代目尾上菊五郎によって創立された「尾上流」であることもあって、総踊形式の都をどりに対し、第1部が演劇的な要素を多く取り入れた舞踊劇、第2部が純舞踊の二部構成で行われており、その豪華絢爛かつ洗練された舞台内容は海外でも評判となり、フランスの芸術家ジャン・コクトー(1889-1963)やイギリスの映画俳優で喜劇王のチャーリー・チャップリン(1889-1977)など海外の著名人をも魅了したという
お茶券付特別席の観覧券購入の場合は開演前に芸妓・舞妓の接待によるお茶席で抹茶とお菓子が楽しめる

6月下

都の賑い(みやこのにぎわい)

6月に南座で開催される祇園甲部・先斗町・宮川町・上七軒・祇園東の五花街の合同伝統芸能特別公演
1994年(平成6年)から毎年行われ、各花街の芸舞妓約80名がが一堂に会し、夢のような舞台を繰り広げる京都の初夏の風物詩
五花街がそれぞれに趣向を凝らした演目を披露した後、呼び物の合同演目「舞妓の賑い」では五花街から各4人ずつ、総勢20人の舞妓が勢揃いし、華麗な舞を披露する
開催期間中の夕方からは京都市内の京料理の老舗料亭5店舗やホテルを会場に花街ごとのお座敷が設けられ、芸妓・舞妓のおもてなしによる宴が楽しめる「五花街の夕べ」も開催される

6月~7月

丸寿組伊勢講・鴨川組高野講(まるじゅぐみいせこう・かもがわぐみこうやこう)

「講」とは寺社仏閣への参詣や寄進などをする信者の団体のことで、「伊勢講」とは伊勢神宮への参拝を目的とする講のことで、その歴史は古く室町時代初期に遡るといわれている
先斗町では1880年(明治13年)に伊勢講「丸寿組」が結成され、それ以降お茶屋や芸妓、旦那衆などが伊勢神宮に参拝するようになったという
実際「夫婦岩」で有名な二見浦の岩の少し手前にある「二見輿玉神社」の大きな社号標と一の鳥居をくぐった先の参道、左手前に蛙の石像が出迎える二の鳥居右手前に、1938年(昭和13年)に献納されたという台石に「京都先斗町丸寿組」とその下に組長や組員の役職と名前が刻まれた2基の大きな常夜灯(石灯篭)が並ぶようにして立っており、本格的な組織であったことが窺い知れる

また弘法大師空海により開山された高野山への参詣も古くから盛んで、特に明治維新以降は女人禁制が解かれたこともあり、「高野講」が急速に発達していったという
先斗町でも大正時代に高野山の参詣講「鴨川組」が結成されており、1923年(大正12年)5月に花街に生きた祖先の霊を慰める「京都鴨川組納骨塔」が建立され、更に1937年(昭和12年)には塔の前に常夜灯が献納されているという

どちらもいわゆる花街の厚生福利制度のようなもので、現在も毎年6~7月頃にレクリエーションも兼ねてお伊勢参りと高野山参りが交互に行われており、講員同士の親睦が図られているという

7/24

祇園祭 花笠巡行奉納舞(ぎおんまつり はながさじゅんこうほうのうまい)

「花傘巡行(はながさじゅんこう)」は元々は「祇園祭」の7月24日の「後祭」が1966(昭和41年)に7月17日に合流したことで行事が喪失したのを受けて開催されるようになったものだが、2014年(平成26年)に後祭が復活した後も引き続き行われている
芸能的色彩の濃い巡行行列となっており、花街からも上七軒を除く祇園の4つの花街の芸舞妓が、毎年2花街ずつ隔年で参加している
巡行行列は10:00に八坂神社をスタートし、市内を練り歩いた後に八坂神社に帰着、到着後の12:00頃より舞殿にて久世六斎や祇園獅子舞など、数々の舞踊、芸能が奉納されるが、その一つとして芸舞妓による「花笠巡行奉納舞」も行われる
演目は祇園甲部は民話「舌切り雀」を題材にした「すずめ踊り」、先斗町は「歌舞伎踊り」、宮川町は「コンチキ音頭」、祇園東は「小町踊り」で、年により担当の花街が変わる
「歌舞伎踊り」芸妓によって舞われ、黒塗りの笠に紅の胸紐、小露の附いた白の千早に紅の切袴、腰には金銅の瓔珞(ようらく)を吊るした巫女姿の装束は、歌舞伎の祖として知られる「出雲の阿国」になぞらえたもの

8/1

八朔(はっさく)

「八朔」とは、旧暦8月1日すなわち「八月朔日」を略した言葉で、古来より恩義のある人に贈り物をする風習があった
例えば農家においては、旧暦の8月頃になると早稲の穂(田の実)が実るため、その「田の実」を日頃「頼み」ごとをしてお世話になっている貴人恩人に送る風習が古くからあったといい
また江戸幕府においては、1590年(天正18年)8月1日が徳川家康が初めて江戸城に入城した日で、正月に次ぐ祝日としていたという
花街ではこの風習が今も残っており、毎年新暦の8月1日に行われる伝統行事で、舞妓・芸妓たちが日頃から芸事でお世話になっているお茶屋や師匠に、感謝の思いを伝える姿は夏の風物詩として定着している
祇園甲部のみ黒紋付三本襟足の正装で行われる

9月秋分の日

高瀬川舟まつり(たかせがわふなまつり)

木屋町通二条下ルの「高瀬川」沿いにある史跡「一之船入」で秋分の日の10:30~16:00に開催されるイベント
高瀬川は江戸初期に京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)親子が開削した京の洛中と伏見を結ぶ運河で、明治以降に鉄道網が整備されてその役目を終えるまでは重要な物資の輸送路だった
「一之船入」は水運の起点だった場所で、その往時を偲ばせる重要な遺構の一つとして国の史跡にも指定されているほか、春は桜の名所としても知られている
「高瀬川舟まつり」は高瀬川の果たした役割をより多くの人に知ってもらおうと、高瀬舟の復元を機に1991年(平成3年)より「銅陀高瀬川保勝会」の主催で毎年行われている
当日は船入に復元された高瀬舟に乗船できるほか(ただし舟は動く訳ではない)、先斗町の舞妓によるお茶席接待や撮影会、ライブなどのステージイベント、クイズラリー、京産大生による落語、友禅型染体験、子供対象の宝物探しや、むし栗つかみなど、様々なイベントを開催
またすぐそばにある「島津創業記念館」や角倉了以の別邸跡にある「がんこ高瀬川二条苑」の庭園が当日のみ無料公開される

10月中

水明会(すいめいかい)

「秋のをどり」は「春のをどり」とともに芸舞妓たちが日頃の稽古の成果を披露する晴れの舞台の一つで、先斗町では「水明会」として毎年10月の中旬から後半に4日間かけて開催される
1930年(昭和5年)3月15日に第1回目の公演が行われた歴史と伝統のある伎芸発表会で、それ以前にあった1907年(明治40年)2月発足の「長唄千代栄会」と1927年(昭和2年)9月発足の「土曜会」が発展的に併合されたものだという
当初は3月・6月・10月の年3回の定期公演で、年間を通して鑑賞できる「通し切符」も発行されていたといい、戦後の1949年(昭和24年)9月に復活し、近年までは3月に昼夜2部制で開催されていたが、1999年(平成11年)に「秋の鴨川をどり」が廃止となったのを機に秋の10月開催に変更され、現在は京都に秋の訪れを告げる風物詩となっている
当時は特別基準以上の伎量を有する芸妓のみで構成されていたといい、現在も毎年春に行われる華やかな「鴨川をどり」とは一味違った、芸妓のみによるしっとりとした気品あふれる舞踊が披露される
ちなみに「水明会」の名前は鴨川の清流にちなんだもの

10/22

時代祭(じだいまつり)参加

「時代祭」は平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、1895年(明治28年)に初開催
明治維新により著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として平安神宮が創建され、町おこしにかける人々の熱意の象徴として創始された
祇園祭・葵祭とともに京都三大祭の一つに数えられ、京都全市域からなる全11社の市民組織「平安講社」の運営により毎年平安遷都の日である10月22日に開催される
「時代風俗行列」は12:00より山国隊の奏する笛、太鼓の音色を先頭に行列は京都御所の建礼門前を出発、行列は8つの時代を20に分けられ約2000人が参加し、京の街を練り歩く
京をゆかりに活躍した歴史上の人物に扮した行列が、明治維新から平安京の造営された延暦寺代へと古い時代にさかのぼって登場し、最後に御鳳輦の神幸列、そして弓箭組列が続いていく
綿密な時代考証の下、京都の伝統工芸技術の粋を集めて復元された1万2000点にもおよぶ調度、衣裳、祭具も見どころ
このうち各花街(京都花街組合連合会)の芸舞妓が年交代で行列に参加するのは清少納言や紫式部、小野小町、常盤御前にが女性で唯一馬にまたがる巴御前などが登場する「平安時代婦人列」や「江戸時代婦人列」「中世婦人列」

11/20頃

お火焚(おひたき)

江戸時代より京都の神社を中心に行われてきた神事で、古くより「おしたき」「おしたけ」などとも呼ばれ親しまれていた
旧暦の11月(現在は新暦の11月が中心)に奉納者の願い事の書かれた「火焚串(護摩木)」を火床に入れて焚き上げ、所願成就や厄災消除など祈願するもので、元は宮中の重要行事の一つで秋の収穫後に一年の五穀豊饒に感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」が民間に広まったものだという
神社のみならず一般家庭や町内でもみかんやまんじゅうを供えて行われ、護摩木を焚いた残り火で焼いたみかんを食べると、冬の間風邪をひかないとも伝えられている
先斗町でも11月20日頃に開催しており、歌舞練場の屋上に祀る正一位稲荷権太夫明神および表鬼門にある水神にお参りするお火焚の行事が執り行われる

11/23

祇園小唄祭(ぎおんこうたさい)

五花街の舞妓が年交代で行事に参加する
「祇園小唄(ぎおんこうた)」は「月はおぼろに東山」の歌詞ではじまる昭和の名曲(作曲は佐々紅華(さっさこうか 1886-1961)で、祇園をこよなく愛したという作家・長田幹彦(ながたみきひこ 1887-1964)の150万部の大ベストセラー小説「祇園夜話(ぎおんやわ)」を映画化した1930年(昭和5年)の「祇園小唄絵日傘(ぎおんこうたえひがさ)」の主題歌として大流行した
そして京舞井上流四世・井上八千代が振り付けをした花街を代表する舞踊曲でもあり、舞妓にとっては修行期間にあたる「仕込み」の頃より毎日のように舞う曲だという
「祇園小唄祭」は2002年(平成14年)より始められたこの曲を顕彰する行事で、毎年11月23日の勤労感謝の日に開催
八坂神社の隣にある円山公園の有名な祇園枝垂桜のそばにある瓢箪池の畔に建てられた歌碑「祇園小唄の碑」の前で舞妓2人が歌詞を朗読、献花を行い、この曲に対して感謝の気持ちを捧げる

12月初

南座顔見世 花街総見(みなみざかおみせ かがいそうけん) 南座

五花街の芸妓・舞妓が舞や芸事の上達につながるようにと、勉強のため南座の歌舞伎「吉例顔見世(きちれいかおみせ)興行」を観劇する恒例行事
各花街ごとに1日ずつ全員揃って出かけ、芸妓・舞妓は舞台に向かって両脇にある1階の桟敷席、師匠やお茶屋の女将ら花街の関係者は観客席にて観劇
舞妓がこの時に挿す花簪(はなかんざし)は餅花に南座正面に掲げられる「まねき」を模したものが2つ付けられ、幕間に役者の楽屋を訪ね、無地の「まねき」に贔屓の歌舞伎役者の名前を立役は墨で女形は朱で直筆してもらうのが習わしとなっており、12月いっぱい使用される
東西人気役者の競演に花を添える年末の風物詩の一つで、この日を狙って席の予約を取る客も多いほか、南座前はその姿を撮影しようとするカメラマンや観光客などで溢れ返る
ちなみに「顔見世」は毎年11月30日から12月26日まで南座で行われる歌舞伎の興行で、「まねき」は劇場に隙間なく客に入ってもらいたいとの願いを込め、長さ1間・幅1尺・厚さ1寸(約180cm×約30cm×約3cm)のまねき板に「勘亭流(かんていりゅう)」と呼ばれる線は太く、角をつけず丸みを帯びた独特の書体を使って、隙間を埋めるように役者の名前を書いていく(11月に京都の妙傳寺でまねき書きが行われる)

12/13

事始め(ことはじめ)

五花街で年末の12月13日に行われる伝統行事で、芸妓・舞妓たちが1年の締めくくりとして日頃お世話になっているお茶屋やお店、お稽古ごとの師匠などに出向き、一年のお礼と新年に向けた挨拶をする
「事始め」の12月13日はすす払いや餅つきをして正月準備にかかる日とされるが、これは江戸時代に朝廷や幕府の年中行事「すす払い」として始まったとされる風習で、この日をもって正月の準備に入る
花街ではお世話になっている舞の師匠に鏡餅を納め「おめでとうさんどす、相変わりませずおたのもうします」と挨拶し、師匠は祝儀の舞扇(まいおうぎ)を手渡し「おきばりやしたね、来年もおきばりやす」と一年の労をねぎらう光景が年末の風物詩となっている
中でも祇園甲部において芸舞妓たちが京舞井上流の家元・井上八千代宅を訪れる姿は、毎年マスコミ報道などでも採り上げられるなどよく知られている
ちなみに事始めが終わると年末にかけては「おことうさんどす」と挨拶を交わすようになるが、これは元々は「お事多さん」、つまり「事が多い」「お忙しいことですね」という意味で、迎春準備に忙しい中で気を遣う意味合いが込められているという

毎日・月並行事

月ごと

花簪(はなかんざし)

舞妓の挿す簪(かんざし)は季節を彩るシンボルとして、月替わりで変更されるのが習わしとなっており、特に草花にちなんだものが多いことから「花かんざし」と呼ばれている
職人の手作業により丁寧に作り上げられ、細やかな細工に特徴のある京都独特の伝統工芸品

1月 寒菊に「松竹梅」
2月 「梅」
3月 「菜の花」
4月 「桜」
5月 「藤」または「あやめ」
6月 「柳と撫子(なでしこ)」または「紫陽花(あじさい)」
7月 「団扇(うちわ)」
8月 「薄(すすき)」または「朝顔」
9月 「桔梗(ききょう)」
10月 「菊」
11月 「紅葉」または「銀杏(いちょう)」
12月 餅花に「南座の歌舞伎の顔見世興行のまねき」

ちなみに12月の「顔見世のまねき」には、総見の前に役者の楽屋を訪ね、無地の「まねき」に贔屓の歌舞伎役者の名前を直接書き入れてもらうという
また正月の「始業式」では根元に鳩の付いた「稲穂」のかんざしを芸妓は左、舞妓は右に、祇園祭では白銀の「梵天(ぼんてん)」と呼ばれる飾りが加えられる

先斗町歌舞練場(鴨川をどり)の口コミ

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