京都府京都市下京区四条通河原町西入ル真町、京都有数の繁華街として知られる四条通と河原町通の交差する「四条河原町」交差点の地下に位置し、京都と大阪梅田とを結ぶ阪急京都本線の駅で、大阪梅田方面へ向かう阪急京都線の始発駅。
現在の「河原町通」は平安京の東端・東京極大路にあたる寺町通の外側を南北に走る通りで平安遷都の当初は存在しない通りでした。
そして江戸時代以前の鴨川は現在のような十分な護岸工事がされておらず、現在よりも川幅の広い、数多くの中洲を持つ河川で、1762年(宝暦12年)刊の「京町鑑」に「中古まで寺町より東は川原なりしゆへに号す。古老曰、天正年中(1573-93)に開けり」とあることから、それまでは鴨川は寺町の東側近くまで流れ、河原町通のあたりは鴨川の河原であったと考えられていて、通りの名前もそのことに由来しています。
そして河原町通が開削された時期ははっきりしていませんが、安土桃山時代の1590年(天正18年)頃に京都大改造の一環で豊臣秀吉が築いた「御土居」が河原町通の西側に沿って築かれていることから、本格的な通りとして整備されたのはそれ以降であると想像され、御土居の建築に伴ってこれを管理する道路として作られたのではないかとも考えられています。
その後、江戸初期の1614年(慶長19年)に豪商・角倉了以と素庵によって御土居の外側、鴨川流域の右岸(西岸)端部に「高瀬川」が開削されると、京都市中心部と伏見間の物資輸送に利用され、川に沿ってできた木屋町通に多くの問屋などが置かれるなど物資の集積地として大いに発展し都市化が進みます。
更に1670年(寛文10年)には鴨川に「寛文の新堤」と呼ばれる新たな護岸が築堤されると、それまで鴨川の堤防の役割を果たしていた御土居は無用のものとなり取り壊され、それまで鴨川の河原であった場所は新地開発が多くなされ、先斗町などの新たな町が誕生。
河原町通の原型となる通りもこの頃には存在していたようで、御所東の荒神口から旧五条通の松原通まであったといいますが、当時二条通の南、現在の日本銀行京都支店の場所には角倉屋敷があったことから「角倉通」と呼ばれていたといいます。
また幕末には坂本龍馬が暗殺された「近江屋」は河原町通に面していましたが、当時は現在と違い4~5人並んで通れば肩が触れ合うぐらいの道幅の狭い通りであったといいます。
現在の河原町通が形成されたのは明治時代に入ってからで、京都市三大事業に続く「京都市区改正設計」による街路整備によって生まれたものです。
その当時の木屋町通は京都電気鉄道による路面電車も通っていたため、木屋町通の横を流れる高瀬川を暗渠化することによって道路を拡幅する計画もあったといいますが、高瀬川の文化財保護の観点から反対運動があって最終的には断念され、そこで白羽の矢が立ったのが河原町通であったといいます。
京都御所の北を通る今出川通から現在京都駅前を通る塩小路通までの間の河原町通の拡充と市電「河原町線」の敷設整備が計画され、1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にかけて整備が進められましたが、道路の拡張工事を終えてからは街の様子は一変し、電車や自動車が絶え間なく交流する京都随一の主要道路となり、塩小路通から今出川通まで整備された京都市電の河原町線は1978年(昭和53年)まで走っていたといいます。
更に戦後間もない1948年(昭和23年)にはそれまで烏丸通高辻(現在の京都銀行本店)にあった大手百貨店「高島屋」の京都店が現在の四条河原町の南西角に移転し、更に1963年(昭和38年)にその四条河原町まで「阪急京都線」が延伸したことにより、京都を代表する繁華街としての地位を不動のものとします。
その「阪急京都線」は新京阪電気鉄道という京阪電車系列の会社により1928年(昭和3年)、昭和の御大典に間に合わせるため大阪の天神橋から西院まで開通したのがはじまりで、その後1931年(昭和6年)に大宮まで地下で延伸し、この区間が関西初の地下鉄となりました。
京都方面はその後も引き続き京都を代表する繁華街である河原町まで延伸される予定でしたが、金融恐慌や第二次大戦などのためにしばらくの間は見送りとなり、河原町まで延伸されることとなったのは高度経済成長に入り、東京オリンピックを前に京都が国際的な観光都市として注目を集めるようになった1963年(昭和38年)6月17日のことです。
この点、工事は1961年(昭和36年)8月1日に開始されましたが、問題だったのは毎年7月に工事区間の地上で開催されている京都三大祭の一つ「祇園祭」の山鉾巡行でした。
そして翌1962年(昭和37年)7月の「祇園祭」の山鉾巡行は、事前の実地テストの結果、当時のオープンカット工法で地上部分に鉄板を敷き詰めた路面の状態では鉾の損傷がひどくなる恐れがあることや、安全面と河原町駅開業の工期を最優先に考えた結果、山鉾連合会によって中止の決定がなされます。
しかしこの山鉾連合会の決定に感謝し阪急が懸命の工事を進めた結果、工期は大幅に短縮されて1963年(昭和38年)の祇園祭の直前に無事竣功させることができ、1年限りの山鉾巡行中止にとどめることができたといいます。
島式1面3線のホームを有する地下駅で、駅の地上に京都最大の繁華街「四条河原町」交差点があり、現在の駅周辺には高島屋や大丸などの百貨店をはじめ、ファッションや飲食店などの店舗が多数密集しています。
そして東には鴨川に架かる四条大橋を挟んで京阪の「祇園四条駅」があり、両駅で乗り換える利用客も多く、更に東に進むと八坂神社や舞妓さんで有名な繁華街「祇園」や、清水寺などのある有数の観光地である「東山」エリアにもアクセス可能であり、また京都有数のオフィス街である西隣の「烏丸駅」とも直上を走る四条通の真下を貫く地下道で連絡しており、河原町駅を中心にした一大ターミナルが形成されています。
その後、2019年(令和元年)10月1日には国内外の観光客にとって当駅が京都市の中心部に位置することをより分かりやすくするためという理由から駅名を「京都河原町」に改称し現在に至っています。
ちなみに「祇園祭」の山鉾巡行は元々は四条通から寺町通を北上するルートでしたが、1961年(昭和36年)から河原町通を北上するルートに変更され、現在の山鉾巡行で「四条河原町」の交差点は鉾や曳山が方向転換をするいわゆる「辻回し」を披露する巡行ルートの中でもとりわけ人気の高いスポットになっています。