京都市東山区の鴨川から八坂神社門前の東大路通までの四条通の南北に広がる京都を代表する歓楽街「祇園」にある歌舞練場。
その祇園の中でも中央を南北に通り、江戸時代の茶屋建築の情緒がふんだんに残る花見小路通沿いに位置し、芸妓・舞妓たちが活躍する「五花街」の中でも最大の規模を誇る「祇園甲部」が拠点としている歌舞練場です。
ちなみに「祇園甲部」は八坂神社の門前町で水茶屋として栄え、「かにかくに碑」で有名な歌人・吉井勇や作家の夏目漱石、谷崎潤一郎などの文人にも愛されるなど知名度が高く、また 「忠臣蔵」の大石内蔵助が豪遊したと伝わる京都で最も著名なお茶屋「一力亭」があることでも知られています。
そもそも「舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)とは、唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添えることを生業とする女性の事をいいます。
舞妓とは芸妓になる前の15~20歳くらいまでの見習い期間をいい、通常は舞妓として約5年間修行した後に芸妓になります。
ちなみに舞妓になるまでにも準備期間があり、これを「仕込み(しこみ)」といいます。
花街のしきたりや京ことばなどを約1年学んだ後に「店出し・見世出し(みせだし)」をして晴れて舞妓となります。
彼女たちはそれぞれが「置屋(おきや)」と呼ばれる家に所属し、そこから「お茶屋(おちゃや)」や「料亭(りょうてい)」へ送り出され、宴席で芸を披露します。
お茶屋と料亭の違いは料理を直接提供するか否かで、お茶屋は直接提供はせず、「仕出し屋(しだしや)」から取り寄せることになります。
そしてこれらのお茶屋や置屋などが集まって形成されているのが「花街(かがい)」です。
歌舞練場(かぶれんじょう)とは、京都の花街(かがい)にある劇場のことで、芸妓・舞妓たちが歌や舞踊、楽器などの稽古をする練習場であると同時に、その発表のための場所でもあります。
現在京都には祇園甲部(ぎおんこうぶ)・先斗町(ぽんとちょう)・宮川町(みやがわちょう)・上七軒(かみしちけん)・祇園東(ぎおんひがし)のいわゆる「五花街」が現存しており、それぞれが専用の歌舞練場を持っています。
そして各花街は春と秋にそれぞれの歌舞練場を舞台に舞踊公演を行っており(祇園東のみ秋だけの公演)、芸妓・舞妓たちにとってはお茶屋や料亭・旅館などでのお座敷接待以外の主要な活動の一つとなっています。
またその他にも五花街の合同公演として6月下旬に行われる「都の賑い」も主要な舞踊公演の一つです。
ちなみにこれらの舞踊公演以外にも古くより花街に伝わる伝統行事がいくつかあり、五花街に共通したものとしては、正装の黒紋付に縁起物の稲穂のかんざしをつけて新年の挨拶を行う1月7日の「始業式(しぎょうしき)」(上七軒のみ1月9日)や、日頃お世話になっている師匠やお茶屋に感謝の気持ちを伝える8月1日の「八朔(はっさく)」、12月初旬の南座の歌舞伎の顔見世興行に芸舞妓が揃って観劇する「顔見世総見(かおみせそうけん)」、そして一年のお礼と新年に向けた挨拶をする12月13日の「事始め(ことはじめ)」は有名です。
その他にも祇園祭の花傘巡行や時代祭などの京都を代表する行事のみならず、各花街独自に参加する伝統行事も多数あり、また近年はメディアへの露出や京都市などが開催する各種イベントなどに参加する機会も増えるなど、京都の観光のシンボルとして重要な役割を果たしています。
「祇園甲部歌舞練場」は「祇園甲部」の芸舞妓たちが拠点とし、春に「都をどり」、秋に「温習会」と呼ばれる舞踊公演を行う会場となっていますが、その歴史が始まったのは明治維新直後のことでした。
1871年(明治4年)、京都府が設置され京都府知事に長谷信篤(ながたにのぶあつ 1818-1902)、そして副知事に槙村正直(まきむらまさなお 1834-96)が任命されると、彼らは明治維新によって天皇が東京へ行幸し、衰退しかけた京都に活気を取り戻そうと奔走することとなります。
その一環として計画されたのが博覧会の開催で、その余興として祇園の芸舞妓のお茶と歌舞が公開されることとなり、槙村副知事の相談を受けた万亭(現在の一力亭)の9代目当主・杉浦治郎右衛門(すぎうらじろうえもん 1820-95)と井上流家元の片山春子(三世家元 三代目井上八千代)が考案したのが現在の「都をどり」です。
三重県伊勢市古市(ふるいち)の「亀の子踊(かめのこおどり)」などを参考にお座敷舞ではなく集団での舞とし、また終始幕を閉めることなく背景を変えることで場面を変転させながら進める近代的かつ独創的な演出は好評を博し、1872年(明治5年)の初上演の翌年には第2回都をどりが上演され、以後年中行事として毎年春に行われるようになり、今や京都の春の風物詩となっています。
なお第1回都をどりの振り付けを担当したのは三世家元 三代目井上八千代(いのうえやちよ 1838-1938)で、以降祇園甲部の舞は「井上流」一筋となっています。
そして「祇園甲部歌舞練場」は1873年(明治6年)の第2回都をどりから会場として使用されていて、当時は花見小路通西側にあった建仁寺塔頭清住院が歌舞練場として改造され使用されていましたが、1913年(大正2年)3月に現在地に新築移転され現在まで100年以上に渡って会場として使用され続け、2001年(平成13年)には京都府の「有形文化財」にも登録されています。