京都市の東を流れる鴨川に架かる四条通の橋。
同じく鴨川を流れる三条大橋や五条大橋とともに京都の名橋の一つで、「祇園橋」の通称を持つ橋です。
三条大橋や五条大橋が街道の起点・終点であったのに対し、現在も橋の上から東側を眺めると八坂神社の朱塗りの西楼門を見ることができるように、四条通は古くから東の突き当たりにある祇園社(現在の八坂神社)への参詣道であり、八坂神社までの四条通はその門前町として発展してきました。
橋も公儀の管理下の橋ではなく氏子の勧進によって架橋されたものであったことから、以前は三条や五条に比べ小さな板橋であったといいます。
一番古いもので八坂神社の「社家記録」に1142年(永治2年)勧進による架橋の記録が残っており、その後も何度も水害による流失と再建を繰り返しました。
その後南北朝頃から、四条河原一帯は勧進田楽や猿楽などを行う芝居小屋の建ち並ぶ市民の遊興地として発展。
安土桃山時代から江戸初期にかけては、歌舞伎の創始者とされる「出雲阿国(いずものおくに)」の艶やかな阿国の踊りを真似た遊女歌舞伎が盛んに踊られるようになり、1615年頃に京都所司代により7つの櫓(芝居小屋)の許可が出されると遊女歌舞伎をはじめ、操り人形浄瑠璃、能、楽器演奏、弓技場、動物などの見世物、犬の曲芸、軽業、相撲の小屋掛けなど様々な遊興が繰り広げられて大いに賑わったといいます。
その後7つの櫓は火災などで焼失し、「北座」も四条通の拡幅工事で1893年(明治26年)に廃止されたため、現在は東詰南側に「南座」だけが残る形となりましたが、南座は歌舞伎の聖地として今も健在で、年末にはまねきが印象的な「顔見世興行」が大々的に行われています。
また歌舞伎発祥の地として現在も、交差点北西角には「出雲阿国像」と「阿国歌舞伎発祥地の碑」が建っています。
幕末の1857年(安政4年)(1856年(安政3年)とも)に祇園社の氏子の寄付で石造(42本の石柱を立てた欄干付き板橋)に。
そして1874年(明治7年)(1873(明治6年)とも)には鉄橋に架け換えられ、当時鉄橋は珍しく「くろがね橋」と評判を集めましたが、多額の建設費用の償還のために通行料を取ったことから「銭取り橋」と不評を買ったといいます。
1912年(明治45年)に京都市電の開通とそれに伴う四条通の拡幅のため、鉄筋コンクリート製のアーチ橋(高欄部分はブロンズ製)に架け換えられることになり、翌1913年(大正2年)完成。
しかし1934年(昭和9年)の「室戸台風」、翌1935年(昭和10年)6月の水害で橋は流出はしなかったもののアーチ部分に流木などが引っ掛って水をせき止め、周辺に大きな冠水被害が発生。
これらの水害を受けて鴨川の治水工事が本格的に行われ、川底の掘り下げに併せて橋の架け換えも行われることになり、1942年(昭和17年)に現在の橋が架けられました。
1965年(昭和40年)には、公募により田村浩意匠の高欄部分が新設され現在の姿となっています。
橋の西側に「四条河原町」、東側に「祇園」と京都を代表する2つの繁華街を結び、また西側の阪急「河原町」駅と東側の京阪「祇園四条」駅間の乗り換えのための連絡橋の役割も担っていることから、京都でも有数の人通りの多い橋として知られています。
春は両岸に「枝垂桜」や「染井吉野」などの桜並木が広がり、夏には京都の夏の風物詩でもある川床「鴨川納涼床」が先斗町のある西側の河岸に設けられ、壮観な眺めとなります。
また毎年7月に開催される八坂神社の祭礼で日本三大祭りの一つでもある有名な「祇園祭」では、「神用水清祓式」にて四条大橋から鴨川の水を組み上げた後、四条大橋上で行われる「神輿洗」の神用水として使用されます。
橋の周辺の鴨川河岸は市民憩いの場で、散策やデートスポットとしても人気であり、有名な「鴨川等間隔の法則」をよく見かけることができるエリアとしても有名です。