京のシンボル五重塔と弘法大師信仰で有名な世界遺産
東寺真言宗総本山で世界遺産。平安遷都の際に王城鎮護のため建立後、嵯峨天皇より弘法大師空海に下賜され真言密教の根本道場に。
高さ57mで日本最大の塔・五重塔や金堂、大日如来を中心に21体の仏像で構成する立体曼荼羅など国宝や重要文化財の宝庫。
毎月21日には弘法大師の縁日・弘法市を開催
東寺(教王護国寺)のみどころ (Point in Check)
「東寺」は京都駅に近い南区九条町、九条通と大宮通の交差する九条大宮の北西角に位置する真言宗の寺院。
東寺真言宗の総本山で「教王護国寺」の別名で呼ばれることもあります。
桓武天皇により794年に平安京遷都が行われた際、王城鎮護のため平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の2つの寺院の建立が計画され、796年に藤原伊勢人が責任者となり官寺として建立されたのがはじまりでした(西寺も建立されたが後に廃寺に)。
それから20数年後の823年、真言宗の祖である弘法大師・空海が嵯峨天皇から東寺を下賜され、国家守護と同時に真言密教の根本道場としての性格も持つようになります。
平安後期に一時衰退しますが、鎌倉期に入り弘法大師信仰が高まると貴族から庶民まで広く信仰を集めるようになります。
特に後白河法皇の六女・宣陽門院は深く帰依していたといい、莫大な荘園を寄進しているほか、空海が今も生きているが如く毎朝食事を捧げる「生身供」も創始したといいます。
その後も後宇多・後醍醐天皇や足利尊氏らの援助を受け栄え、室町時代の1486年に発生した土一揆による大火で主要な堂塔のほとんどを失う苦難に遭いますが、戦国・江戸時代に豊臣・徳川両政権の援助で金堂・五重塔などが再建されました。
何度かの火災のため創建当時の建物は残っていないものの、南大門から金堂・講堂・食堂を経て北大門と南北に一直線に並ぶ伽藍は創建当時の面影を思い起こさせるだけでなく、唯一現存する平安京創建当時の遺構として境内全体が国の史跡に指定されています。また1994年には世界文化遺産にも登録されました。
東寺の魅力といえば、やはり京都のシンボルマークともいえる高さ約55mの五重塔。その他にも大日如来を中心とした21体の仏像で構成される講堂の立体曼荼羅などの数多くの寺宝も見どころの一つです。
そして弘法大師ゆかりの寺院として、縁日である毎月21日には縁日の「弘法市」を開催、また春には有名な八重紅枝垂れ桜の「不二桜」やソメイヨシノ、山桜などの200本の桜、秋には紅葉の名所としても高い人気を誇り、多くの参拝者で賑わいます。
平安京守護のため「官寺」として創建、後に「真言密教の根本道場」に
794年(延暦13年)、桓武天皇による平安京創設の際に国家鎮護のため、平安京の正門にあたる羅城門の東西に官寺として2つの寺院の建立が計画されました。
そして796年(延暦15年)、藤原伊勢人(ふじわらのいせんど 759-827)が造寺長官(建設工事責任者)となり羅城門の東側に建立されたのが「東寺」です。(南北朝時代に成立した東寺の記録書「東宝記」に記述)
それから二十数年後の823年(弘仁14年)、桓武天皇の後を継いだ嵯峨天皇により東寺は真言宗の宗祖である弘法大師・空海に下賜され、以後は「国家鎮護」とともに「真言密教の根本道場」として栄えることとなったのです。
この点別名の「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」の「教王」とは王を教化するとの意味で、この別名には国家鎮護の密教寺院という意味が込められているのだといいます。
ちなみに羅城門の西側に建立された「西寺」は創建された後、右京の衰退とともに衰退・荒廃し現存していません(1233年に塔が焼失した記録、1527年に最後の記録が残る)。
西寺跡は1921年に国の史跡として指定され、跡地は唐橋西寺公園として整備されています。また直接の関係性はありませんが、公園の近くの南区唐橋平垣町に浄土宗西山禅林寺派の「西寺」が寺院として存在しています。
弘法大師空海ゆかりの「お大師様の寺」として庶民の信仰を集める
「東寺」は平安後期に一時衰退した時期もありましたが、鎌倉期以降は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。
中でも空海に深く帰依したと言われているのが後白河法皇の皇女である宣陽門院で、東寺に莫大な荘園を寄進しているほか、現在も続いている2つの儀式、すなわち空海が今も生きているがごとく毎朝6時より食事を捧げる「生身供(しょうじんく)」や毎月21日の空海の命日に供養を行う「御影供(みえく)」などの儀式を創始したのも宣陽門院だと言われています。
「唯一残る平安京の遺構」として国の史跡および「世界遺産」にも登録
1486年(文明18年)の火災により主要伽藍のほとんどを失ってしまいましたが、その後戦国から江戸時代にかけて豊臣家・徳川家などの援助により金堂・五重塔などが再建されました。
このように幾度かの火災を経験しており、東寺には創建当時の建物は残っていませんが、南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安期のままだといいます。
このため現在唯一残る平安京の遺構として1934年(昭和9年)には境内全体が「教王護国寺境内」として国の史跡に指定。また1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」としてユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産(世界遺産)にも登録されています。
「五重塔」は京都を代表するランドマークタワー
現在の五重塔は1643年(寛永20年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光により再建されたもので、高さ55mの日本最高の木造建築の塔であり国宝にも指定されています。
高さのある建造物が建てられるようになった現代においてもその存在は際立って目立ち存在であり、京都市のシンボルタワーとしても知られています。
「立体曼荼羅」をはじめとする数多くの寺宝を収蔵する密教美術の宝庫
重文・講堂に安置されている国内で現存する最古の密教彫刻の一群は、大日如来を中心に国宝の五大明王など21体の仏像で構成。弘法大師空海が密教の教えを視覚的に表現したもので「立体曼荼羅」と呼ばれています。
また国宝・金堂は豊臣秀吉の子・豊臣秀頼の再建。同じく国宝の大師堂(御影堂)は、弘法大師在世時の住房といわれ、国宝の弘法大師像および念持仏の不動明王坐像を安置しています。
宝物館には真言密教の文化財が多数収蔵されており、毎年春と秋に特別公開されています。
毎月21日の「弘法市(弘法さん)」は大変な賑わい
空海の月命日にあたる毎月21日は「弘法さん」と呼ばれる縁日で、御影供の儀式に加え境内には骨董市(弘法市)が立ち、数多くの露店や屋台も出店して大変な賑わいを見せます。
開始当初は年1回の開催でしたが、1239年から月1回となり現在に至っています。このうち年始の1月21日の弘法市は「初弘法(はつこうぼう)」、年末の12月21日の弘法市は「終弘法(しまいこうぼう)」と呼び、特に12月21日の「終い弘法」には年末年始を控え多くの人々が詰めかけます。
東寺(教王護国寺)の施設案内
東寺の境内は平安京のメインストリートである朱雀大路(現在の千本通)の東側、九条大宮交差点の北西に広がっています。
南から北へ南大門・金堂・講堂・食堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建東寺からのもので、更に南東に五重塔、北西に弘法大師在世時の住房である大師堂や毘沙門堂があります。
このうち講堂・金堂・五重塔と境内東に広がる瓢箪池が通常公開されている有料拝観エリア、また境内西側の小子坊と南西にある灌頂院は特別公開される場合を除き通常非公開のエリア、それ以外では宝物館や塔頭寺院を除くと概ね自由に参拝できるエリアとなっています。
また北側には2つの塔頭寺院や関連学校である洛南高校などがあり、その中央を南北に通る櫛笥小路は平安期の道幅がそのまま残されている貴重な小路です。
東西南北にあるそれぞれの門から入場できますが、京都駅や駐車場から近く有料拝観エリアの受付へのアクセスにも一番便利な東側の慶賀門から入場する場合が多いようです。
慶賀門~拝観受付
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慶賀門(けいがもん)
重文、境内の東側を南北に通る大宮通に面し境内北東に位置、バス停「東寺東門前」からすぐ。
鎌倉前期建築の八脚門。
拝観入口となっており、多くの参拝客がこの門から境内に入る。またすぐ横が駐車場の入口にもなっている。
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石標
慶賀門の右脇にある石標。
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東寺前交番(とうじまえこうばん)
東寺の北東角、慶賀門のすぐ横にある交番。
京都府警察の南警察署の管轄。
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東寺消防出張所
京都市消防局の南消防署東寺消防出張所。
弘法市では約1,000店の露店を一軒一軒巡回し、出火危険箇所の点検や指導も行う。
2013年9月1日に京都駅西消防出張所(西九条戒光寺町2)が開設され、東寺消防出張所は閉鎖となった。
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石標
大宮通沿いの慶賀門の右手にある駐車場の入口の右脇に建つ石標で「東寺洛南会館」と刻まれている。
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出入口
慶賀門の右手にある駐車場への入口。自転車で参拝に訪れた場合にもここを通って中に駐輪する。
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駐車場
洛南会館の脇にある駐車場。
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宝蔵(ほうぞう)
重文、境内の東、慶賀門をくぐってすぐ左(南側)、多くの寺宝を納めていたこともあり延焼を避けるため堀に囲まれた中に建てられた校倉造の倉庫。
平安後期の建立で東寺で現存する最古の建造物、盗難による傷跡も残る。
初夏には建物を取り囲むようにして堀一面に蓮の花が咲き誇る。
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蓮
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雪柳
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小野道風ゆかりの柳(おののとうふうゆかりのやなぎ)
宝蔵のそばに立ち堀の中の石には蛙が乗っている。
これは平安時代の貴族で書の達人として有名な小野道風が柳に飛びついた蛙を見て頑張って努力すれば道が道が開けると悟ったという逸話にちなんだもの。
歌舞伎の演目「小野道風青柳硯」の舞台にも登場するほか、花札の一枚「柳に小野道風」でもおなじみ。
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石燈籠
宝蔵の堀のすぐ脇にある大型の燈籠。
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駐車場
食堂の前にある。盆踊りなどの行事の際にはその会場にもなる。
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手洗所(お手洗い)
慶賀門をくぐって西へ少し進んだ先、手水場(御手浄めの御水)の手前にあるトイレ。
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宗務庁
北大門の手前にある警備室。
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御手浄めの御水(おてきよめのおみず)
慶賀門をくぐってまっすぐ進んだ突き当たり、食堂と北大門の間にある手水場。
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看板
「お大師さまと同行二人のお遍路の旅」といいうタイトルにて四国八十八ヶ所めぐりの地図が描かれている。
四国霊場巡拝の際には先ず東寺の御影堂にお参りをするのがならわし。
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桜
北大門の手前、記念文庫の脇にある桜の木。
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楠
慶賀門から西の御影堂(大師堂)へと向かう途中、食堂の北側にあるクスノキの木で、区民誇りの木にも選定されている。
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記念文庫
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宝物館(ほうもつかん)
境内北側、北大門を出てすぐ左に位置する、鉄筋コンクリート3階建の建物。約2000点といわれる数多くの寺宝を収蔵する密教美術の宝庫で、毎年観光シーズンの春(3/20~)と秋(9/20~)の2度開館され、収蔵品の一部の特別公開や、東寺の歴史や文化財をテーマにした特別展などが催される。
仏像では元は羅城門の楼上に祀られていたという国宝の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)や、高さ6mで元々は食堂の本尊であった千手観音菩薩像、絵では五大尊像(国宝)、書では空海が最澄に宛てた手紙・風信帖(国宝)が有名。
他に西寺にあったと伝わる地蔵菩薩や愛染明王、如来三尊、足利尊氏寄進の梵鐘などを展示。
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聖観音(しょうかんのん)・柳谷観音(やなぎだにかんのん)
聖観音は別名・観音菩薩、救いの声があれば瞬く間に救済してくれる「音を観じる」というところからこの名が付けられたという。
阿弥陀如来の左脇侍として勢至菩薩と共に三尊を構成するほか、千手観音や十一面観音などの六観音や三十三観音など様々な姿に身を代えて人々に救いの手を差し伸べる、全ての観音菩薩の基本形といわれている。
柳谷観音(楊谷寺)は西山にある弘法大師空海ゆかりの寺院、空海が祈祷を施した眼病平癒の霊水「独鈷水(おこうずい)」で有名。
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夜叉神堂(やしゃしんどう)
夜叉神を祀る、東側が雄夜叉(本地文殊菩薩)と西側が雌夜叉(本地虚空蔵菩薩)。
最初は南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まないで通ると罰があたったとされ中門の左右に移転(現在の金堂前灯籠周辺)、1596年(慶長元年)に中門が倒壊すると現在の小堂を建立し安置。
夜叉神像は弘法大師作と伝わり歯痛が治ると伝わる。
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食堂(じきどう)
仏法僧の「僧」にあたり、生活のなかに修行を見い出す所とされる。
平安時代に建立、本尊は十一面観音菩薩立像で3mを越す持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王を安置。
元の本尊である約6mの千手観音菩薩像は1930年の食堂の火災で焼損し、修復後現在は宝物館に収蔵。
室町幕府を開いた足利尊氏が東寺に本陣を置いた際に居住していたという。
現在の建物は1930年(昭和5年)焼失の3年後に再建。
堂内には四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三所観音霊場(23番札所)などの納経所もあり、毎月21日には四国八十八ヵ所巡礼を再現した「お砂踏み」も。
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拝観受付・売店
金堂・講堂・五重塔などのある有料拝観エリアの拝観受付や土産品などの販売を行っている。
有料拝観エリア
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好日門
拝観受付と売店のすぐ横、有料拝観エリアの出入口となっている門。
門の上部に「好日門」と記された扁額が掛っている。
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茶所(ちゃしょ)
有料拝観エリア入ってすぐ右にある。
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不二桜(ふじざくら)
八重紅枝垂れ桜、2006年2月現在で樹高13m、枝張り7m、樹齢120年。
2006年(平成18年)が弘法大師空海が入唐求法の旅から帰朝して1200年の記念の年にあたることから、東寺信徒総代・藤定輝好氏が寄贈、名は弘法大師の「不二のおしえ」から。
有料拝観エリアに入ってすぐの所にある直径15mの円形花壇に植えられ、桜の時期には五重塔を背景に見事な花を咲かせる。
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瓢箪池(ひょうたんいけ)
境内東側、五重塔のすぐ北に位置、池泉回遊式の教王護国寺庭園(東寺庭園)の中心にある池。
春には桜が池を囲むように咲き誇り、初夏はサツキ、秋には紅葉と五重塔が池に反射し見事な景観を構成する。
池にはたくさんの亀も生息し甲羅干しをするのどかな光景も。
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藤棚
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経蔵跡
瓢箪池の庭園の西側、礎石のみ残る。
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講堂(こうどう)
重文、仏法僧の「法」にあたり、弘法大師空海が密教の教えを伝える中心的建物として位置づけ、伽藍の中心に配置。
823年(弘仁14年)に建設を開始し、16年後の839年(承和6年)に完成。
その後室町時代の1486年(文明18年)に一揆による火災で金堂や南大門とともに焼失するも、その後5年後の1491年(延徳3年)に最優先で再建、1598年(慶長3年)修補。
堂内には密教の教えを視覚的に表す曼荼羅を、絵画ではなく21体の仏像を使って弘法大師空海が立体化した「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」、通称「立体曼荼羅」を安置する。
(大日如来を中心に「五智如来」、その右に金剛波羅蜜多菩薩を中心に「五大菩薩」、左に不動明王を中心に「五大明王」、そして壇の四方に四天王と梵天・帝釈天を配置)。
21体のうち大日如来が重文、それ以外は国宝に指定。不動明王が特によく知られている。
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金堂(こんどう)
国宝、仏法僧の「仏」にあたる東寺の本堂で、本尊・薬師如来像を祀る。
796年(延暦15年)の東寺創建の際に最初に工事が始められた由緒ある堂。
1486年(文明18年)に一揆による火災で焼失、現在の建物は1603年(慶長8年)に豊臣秀頼の寄進で再建。方広寺の大仏殿を模して作られた桃山時代を代表する建築物。
本尊の薬師如来像は1486年に金堂とともに焼失後、桃山時代の仏師・康正が復興。
あらゆる人々を病から守ってくれるという薬師如来は高さ2.9mで台座に十二神将像、その右に日光菩薩、左に月光菩薩の両脇侍像を配する(薬師三尊像)。
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五重塔(ごじゅうのとう)
国宝、境内の東南に位置、東寺のみならず京都のランドマークタワーとしても知られ、塔内には弘法大師空海が唐より持ち帰ったという仏舎利を納める。
826年(天長3年)に弘法大師空海が創建に着手し長い年月をかけて完成するも、その後落雷等により4度焼失し現在の塔は5代目。江戸時代の1644年(寛永21年)に徳川家光による寄進で再建。
高さ約55mは木造の建築物としては日本一の高さを誇る。
大日如来に見立てた心柱を中心に金剛界四仏像および八大菩薩像を安置し、初層内部の壁や柱には両界曼荼羅が描かれ極彩色に彩られている。
内部は通常非公開だが特別公開されることも。
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東大門(とうだいもん)(不開門)
重文、境内東側に位置、創建年代は不明だが1198年(建久9年)に文覚により再建。
1336年(建文3年)に新田義貞が足利尊氏を攻めた際に東寺に陣を構えた足利尊氏が門を閉めて難を逃れた故事から「不開門(あかずのもん)」の別名。
江戸時代の1605年(慶長10年)に豊臣秀頼により大修理が行われたと伝わる。
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手洗所
東大門の近くにあり、金堂・講堂・五重塔がある有料エリア内にある唯一のトイレ。
北大門付近
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北大門(きただいもん・ほくだいもん)
重文、食堂の北側に位置。
鎌倉時代前期に再建され、1601年(慶長6年)修補。
北大門から北総門までの参道は櫛笥小路(くしげこうじ)と呼ばれる。
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蓮池(亀池)
境内の北側、北大門を出てすぐの所にある。
現在は蓮の姿はなく亀が棲む亀池に。
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大元橋
境内北側、太元堂の手前にかかる橋。
北詰に弘法大師100季「御忌記念大元橋碑」が立つ。
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太元堂(たいげんどう)
鎮護国家・敵国粉砕に絶大な功徳を発揮するという太元帥明王(だいげんすいみょうおう・たいげんみょうおう)を祀る。
平将門の乱や元寇などの国家に対する脅威が現れた際には大元帥明王の修法が行われてきたことは有名で、陸軍・海軍の「元帥」の名も太元帥明王に由来するといわれる。
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門
食堂の北側、トイレと宗務庁(警備室)の間、弁天堂に向かう途中にある門で、門の手前には「増運弁財天」の石標が建っている。
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弁天堂(べんてんどう)
境内北側、蓮池(亀池)の畔に立つ。
七福神の一人でインドの河の神で弁舌・音楽・技芸上達の神である弁財天(べんざいてん)を祀る。
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善女龍王(ぜんにょりゅうおう)
弁財天堂の裏にあり、雨乞いの対象である龍王の一尊として知られ干ばつなどが起こった際に祀られることも多い。
824年(天長元年)に長引く干ばつを解決するため東寺を賜った弘法大師空海と西寺を賜った守敏に祈雨の修法が命ぜられ、空海が神泉苑で修法を行った際に善女龍王を天竺の無熱池より勧請し国中に大雨を降らせることに成功、東寺が隆盛し西寺が没落する原因の一つにもなった「神泉苑での雨乞い伝説」で有名。
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洛南会館(らくなんかいかん)
境内の東門を入って右手に位置する宿泊施設。
五重塔など世界遺産の東寺を一望できるのが魅力。
客室数は和室29室、宿泊には予約が必要。
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櫛笥小路(くしげこうじ)
北は松原通から南は十条通まで続く京都市の南北の通りの一つ「櫛笥通」の途中にあり、東寺の境内の北側、北大門と北総門の間を南北に通る道で、平安期の道幅がそのまま残されているという貴重な小路。
「櫛笥」という名前は平安期にこの地に「櫛笥大納言」という人物が住んでいたことに由来しているという。
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北大門から北総門までの櫛笥小路沿いの東側に位置する塔頭寺院で別格本山、真言宗の勧学院として位置づけられ多くの学僧を輩出。
1359年(延文4年)に杲宝(ごうほう)が創建し、その弟子の賢宝(けんぽう)が五大虚空蔵菩薩を本尊として祀った。
二人は東寺に伝わる数多くの文書類を編纂し、二人が東寺の創建から室町時代までの寺史をまとめた「東宝記」は国宝。
客殿は1605年(慶長10年)、豊臣秀吉の正室・北政所の寄進による建造で、桃山時代を代表する書院造で国宝に指定。上段の間には宮本武蔵筆といわれる「鷲の図」「竹林の図」が描かれる。
客殿の南側には枯山水庭園の「五大の庭」、本堂の北側に茶室「楓泉観(ふうせんかん)」。
春や秋に特別公開されるが、現在修復工事のため公開休止(2016年3月再開予定)。
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門
洛南高校は東寺の境内の北側、櫛笥小路の西側に校舎があるが、この地は元々は塔頭寺院の宝菩提院があった場所。
その名残で道沿いに残されている宝菩提院の門(ちなみに宝菩提院は現在は櫛笥小路の東側、観智院の北に移転)。
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洛南高校(らくなんこうこう)
中高一貫教育の私立の高等学校と付属中学校で京都有数の進学校として知られる。
弘法大師空海が828年(天長5年)に庶民教育のため設立した綜芸種智院が起源といわれ(空海の没後廃れ廃止)、その後明治時代に活躍した真言宗の僧・釈雲照が1881年(明治14年)に真言宗の教育機関として設立した「総黌(そうこう)」を母体とする。
1917年(大正6年)に高等教育機関(現在の種智院大学)と分離され、真言宗京都中学、東寺中学校、戦後は東寺高等学校と名前を変え、1962年(昭和37年)に現在の名前に。
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総黌記念館
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宝菩提院(ほうぼだいいん)
北大門から北総門までの櫛笥小路沿い、観智院の北側に位置する塔頭寺院で別格本山。
1279年(弘安2年)、第三長者の亮禅が開創。
元は櫛笥小路を挟み観智院と東西対称に建てられていたが、1881年(明治14年)の「総黌(現在の洛南高校)」開学に伴い現在地に移転。
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北総門(きたそうもん)
重文、鎌倉後期建造の四脚門、門の左脇に不動尊像。
八条通に面し、北総門から北大門までの道は「櫛笥小路(くしげこうじ)」といい、平安時代の道幅のまま残っている貴重な小路で、途中には塔頭の観智院、宝菩提院や洛南高校がある。
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東寺保育園
境内の北側にある京都市認可保育園で、1922年(大正11年)設立で京都私立最古の歴史を持つという。
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石鳥居
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石上神社(いそのかみじんじゃ)
東寺の北側に位置、正式には石上布留社(いそのかみふるしゃ)で、石上布留御魂(いそのかみふるのみたま)および阿刀大神(あとおおかみ)を祀る。
823年(弘仁14年)から1871年(明治4年)までの長い期間にわたり東寺の政所を務めた阿刀家の斎壇、阿刀家は弘法大師の母方の実家にあたる。
境内の波切不動尊は弘法大師空海の地盤(おじば)の不動明王とされ四国八十八箇所や東寺、高野山などの霊地に参詣してもこの不動明王に参らなければ功徳がないといわれる。
大師堂・毘沙門堂
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御影堂唐門(みえどうからもん)
境内の北西、築地で囲まれた中にある大師堂(御影堂)への出入口となっている門。
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五葉松
御影堂唐門をくぐってすぐ左手(南側)にある天皇・皇后両陛下東寺行幸記念樹の松。
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衝羽根樫(つくばねがし)
御影堂唐門をくぐってすぐ右手(北側)にあるツクバネガシの木。区民誇りの木にも選定。
根元には小さなお地蔵様が祀られている。
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御影堂(みえどう)(大師堂)
国宝、境内の北西、築地で囲まれた一角にあり、弘法大師在世中の住房だったとされ「西院(にしのいん)」とも呼ばれる。
後堂(うしろどう)、前堂(まえどう)、中門(ちゅうもん)の3つの建物で構成。
創建年代は不詳、後堂は室町時代の1380年(康暦2年)の再建、前堂・中門は1390年(明徳元年)の増築。
本尊・弘法大師坐像は1233年(天福元年)に仏師・康勝の手によるもので国宝。毎朝6時からの生身供のほか毎月21日の御影供で終日、その他御影堂で行う法要の際に開帳される。
南面不動堂には講堂安置のものとは別の、弘法大師の念持仏の国宝・不動明王(秘仏)を安置。
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大日堂(だいにちどう)
境内北西、大師堂の北側に位置。大日如来を祀り、京都十三仏霊場の第12番札所。
御影堂の前にある堂で、現在の建物は2000年(平成12年)に再建され境内の堂では一番新しい。
江戸時代の1697年に御影堂の礼拝堂として建立され、その後桓武・嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、大日如来を本尊としたことで大日堂となった。
現在は先祖供養などの回向所。
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鐘楼(しょうろう)
御影堂の前にある、元々は1348年(貞和4年)に完成した足利尊氏寄進の鐘が吊るされていたが、老朽化のため現在は宝物館に保管。
現在の鐘は2002年(平成4年)に以前の鐘とまったく同じ形に造られたもの。
2014年4月から2015年3月にかけて保存修理工事が行われた。
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香炉
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桜
東寺の桜といえば有名な不二桜がある金堂・講堂・五重塔のある有料エリアが有名だが、御影堂(大師堂)のあるエリアにも数本見事な花を咲かせる桜がある。
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霊宝蔵
西門を入ってすぐ左手(北側)に建つ。
2014年4月から2015年3月にかけて保存修理工事が行われた。
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鐘楼
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一切経蔵
西門を入ってすぐ右手(南側)に建つ。
2014年4月から2015年3月にかけて保存修理工事が行われた。
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手水舎
西門を入ってすぐ左手(南側)にある手洗い場。
奥には休憩用のベンチも。
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西門(にしもん)
境内西側、壬生通に面する(壬生東寺道)。
自転車・軽車両等での乗り入れはできない。
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廊下
御影堂(大師堂)の脇から伸びる廊下で、途中部分が通り抜けができるようになっており、御影堂(大師堂)のあるエリアと毘沙門堂のあるエリアとを行き来できる。
三面大黒天の脇にお札納め所がある。
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三面大黒天
三面大黒天とは、大地の神で福寿円満の大黒天、北方の守護神で財宝を司る毘沙門天、およびインドの河の神で弁舌・音楽・技芸上達の神である弁財天の三天神が合体したもので、三尊の御利益が一度に授かれる。
大黒堂に祀られているものは弘法大師作の像と伝わる。
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輦庫(れんこ)
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高野山遥拝所
ここより南方に高野山があり奥之院のお大師様にお参りすることができる。
弘法大師空海は東寺を真言宗の根本道場、高野山を修禅の道場と定め2つの寺を特に大事にしていたといい、835年(承和2年)3月21日、62歳の時に高野山で入定された。
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天降石(てんこうせき)
古くからこの地にあったと伝わる石で、江戸時代には護法石(五宝石)あるいは不動石と呼ばれていたがいつの頃からか現在の名前で呼ばれるようになったという。
石を撫でた手で体の悪い箇所を擦ると病が治ると信仰されることから「撫石(なでいし)」の別名。
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尊勝陀羅尼の碑(そんしょうだらにのひ)
元々は北野天満宮の宗像社のそばに1853年(嘉永6年)、比叡山の僧・願海により建てられたものだが、1868年(慶応4年)の神仏分離令に伴い現在地に移された。
台座の亀のような生き物は「贔屓(ひいき)」と呼ばれ、竜の子とされる中国の想像上の動物。重い物を背負う事を好むことから甲羅に建つ石塔は永遠不滅ともいわれ、古来より石柱や墓の土台に用いられているという。
また万病平癒の御利益があるともいわれ、碑の周囲を回りながら贔屓の頭や手足などを撫で、その手のひらで自分の患部をさすると万病に効くとして信仰を集める。御影堂では万病ぬぐいの授与も。
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毘沙門堂(びしゃもんどう)
大師堂のすぐ南に位置。財宝と福徳の神・毘沙門天を祀る、都七福神の「毘沙門天」。
939年(天慶2年)の「平将門の乱」の際に都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天立像は、978年(天元元年)の大風による大風で羅城門倒壊の後、東寺の食堂に安置されていた。これを江戸後期の1822年(文政5年)に堂を立て祀ったのがはじまり。
兜跋毘沙門天立像は国宝に指定され、現在は宝物館に収蔵。その代わりに1994年(平成6年)に創建1200年記念事業で堂が修復された際に新造された毘沙門天像を安置し、脇侍として不動明王像と愛染明王像を祀る。
愛染明王像は西国愛染明王霊場の第八番札所でもある。
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毘沙門堂への門
境内の北西側、毘沙門堂のある一角への出入口となっている門。
本坊・小子房
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本坊(ほんぼう)
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小子坊(しょうしぼう)
天皇を迎える特別な場所のこと、通常非公開だが特別公開される場合あり。
南北朝時代には室町幕府を開いた足利尊氏が光厳上皇を奉じて都に入った際、洛中での戦いが治まるまでの間御所とされた。
現在の建物は1934年(昭和9年)、弘法大師空海の1100年御遠忌(ごおんき)にあたり再建されたもので、堂本印象の襖絵や絵画が印象的な昭和を代表する建築物。
内部は「牡丹の間」「瓜の間」「枇杷の間」「鷲の間」「雛鶏の間」「勅使の間」の6室で構成。
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澄心苑(ちょうしんえん)
小子坊にある庭園で七代目小川治兵衛の作。
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蓮華門(れんげもん)
国宝、境内西側の壬生通に面し小子坊の西側の庭の奥にある門で、現在の門は鎌倉前期の再建。
弘法大師空海が晩年高野山に向かう際にこの門から出発、人々が別れを惜しむなかで空海が念持仏として西院に祀っていた不動明王が門に現れて空海を見送ったといわれ、不動明王が歩んできた跡に蓮華が咲いたことにちなみ名付けられたという。
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勅使門(ちょくしもん)
小子坊が建築された1934年(昭和9年)に現在地に移築、完成もそれと同時期かやや前。
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庫裏(くり)
「庫裏」とは僧侶の居住する場所のこと。
手前に見える門には「庫裡(台所)通用門」の表札がかかる。
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事務所
南大門付近
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世界遺産の碑
五重塔が間近に見える九条大宮交差点の北西角にある世界遺産「古都京都の文化財」登録を示す碑。
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南大門(なんだいもん)(正門)
境内南側の九条通に面し、バス停「東寺南門前」からすぐ。東寺の伽藍の正門にあたる八脚門で重文。
桃山時代の1601年(慶長6年)に三十三間堂の西門として再建されたものを1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念し移築。
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石標
南大門の手前右手(東側)にある石標。
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石標
南大門の手前左手(西側)にある石標。
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堀
境内の南側、九条通に沿って続いている堀。
京の南玄関口に当たることから中世に入るとしばしば争乱に巻き込まれることがあり、寺域の防衛のために城郭化されていた時の名残りだという。
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修行大師像(しゅぎょうだいしぞう)
弘法大師空海の修行時代の姿をした像で、南大門をくぐってすぐ左手(西側)にある。
像の前に鐘や手水、献灯台などもあり、手を合わせる人が絶えない。
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八嶋社殿
東寺以前より鎮座し祭神は地主神とも大国主命(おおくにぬしのみこと=だいこくさま)の異称である大己貴神(おおなむちのかみ)ともいわれる。
八島社の社号は日本国が「大八洲瑞穂国(おおやしまみづほのくに)」と呼ばれることから。
弘法大師空海は伽藍の建立に先立ち、この神へ寺明造立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をしたという、毎月21日には護摩供を修法。
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燈籠(中門跡)
金堂前にある灯籠で、元々この場所には夜叉神像が祀られていた中門があった。
夜叉神像は1596年(慶長元年)の中門の倒壊後は、現在の夜叉神堂が建立され祀られるようになったという。
現在は灯籠はなくなっている模様。
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欅
南大門をくぐって金堂の右手前にあり、区民誇りの木にも選定されているケヤキの木。
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鎮守八幡宮(ちんじゅはちまんぐう)(八幡社殿)
平安初期の810年(弘仁元年)に平安京遷都を行った桓武天皇の2人の皇子である平城上皇と子の嵯峨天皇の兄弟が対立し嵯峨天皇側が勝利した「薬子の変」の政変に際し、弘法大師空海が平安京と東寺を守護するため八幡神を祀ったのがはじまり(ちなみに空海はこの政変で嵯峨天皇のために祈祷を行ったことで深い信頼を得るようになり、東寺の下賜へとつながった)。
1868年(明治元年)に南大門や八島社とともに焼失、1992年(平成4年)に再建。
本尊・八幡三神像は檜材の一木造りで弘法大師作と伝わる秘仏、加えて僧形八幡神座像、女神座像の計3体を安置する。
南北朝時代に室町幕府を開いた足利尊氏が東寺を本陣としていた際に八幡宮から神矢が新田勢に向かって飛び勝利を収めたという故事で有名。
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楠
鎮守八幡宮の敷地内にあり、区民誇りの木にも選定されているクスノキ。
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灌頂院(かんじょういん)
重文、境内南西に位置。弘法大師が草創するも、竣工半ばに入定のため第二祖・実恵大徳により完成。
以後五度の修造がなされた後、1634年(寛永11年)、弘法大師八百年御遠忌にあたり江戸幕府3代将軍・徳川家光が再建。
密教の奥義を師匠から弟子へ伝え阿闍梨(指導者)の地位を授ける「伝法灌頂」や、834年(承和元年)に空海が始め1100年の伝統がある真言宗の最高儀式「後七日御修法(ごしちにちのみしゅほう)」などの儀式を行うことから、真言宗で最も重要な堂舎とされる。
毎年4月21日には弘法大師が「一夜に建立」され、龍神が描くとも伝わる絵馬の参拝で賑わう。
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閼伽井
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穴門(あなもん)
境内の南西、潅頂院手前の参道の南の突き当たりに設けられ、濠に架かる橋とで九条通に通じているが、通常は閉ざされている。
「穴門」とは築地塀や石垣などをくり抜いて設けた低くて小さな門のこと。
関連
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「羅城門」は平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の南端(現在の千本九条)にある正門で、この門を守護する東西に官寺として左右対称に建てられたのが東寺と西寺だった。
空海に下賜された東寺が繁栄する一方、西寺の衰退に合わせるように都の西側(右京)は衰え、それとともに羅城門周辺も荒廃し治安は悪化、荒廃した羅城門はやがて数々の怪奇譚や芥川龍之介の小説「羅城門」の題材になった。
現在は千本九条にある小さな公園の中に石碑が立つのみ。
鎌倉後期以降は京につながる街道の出入口、いわゆる「京の七口」のひとつ「東寺口(鳥羽口)」が置かれ、西国街道および鳥羽街道の起点となった。
西国街道(国道171号)は九条通を西へ進み久世橋で桂川を渡って向日市、長岡京市を経て大山崎町の山崎宿、高槻の芥川宿など淀川右岸を通り、大阪市内を経ないで兵庫県の西宮市の西宮宿まで、その後は西国の下関まで続く。
一方鳥羽街道は千本通を南に進み、現在の京都南ICの付近で鴨川を渡ったのち鴨川左岸、鴨川と桂川の合流地点からは桂川左岸に沿って淀の納所まで続く(淀からさらに淀川左岸を進み大坂まで続くことから「大坂街道(京街道)」とも呼ばれる)。
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矢取地蔵
九条千本付近、羅城門跡碑の石碑のある公園の入口左側の小堂に祀られている。
神泉苑での雨乞いの一件を恨み西寺の守敏が空海に矢を放って殺そうとしたところ、地蔵菩薩が現れ矢を代わりに受け空海を助けたと伝わる。
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羅城門の東西に建てられた東寺と西寺は嵯峨天皇の823年(弘仁14年)に東寺は空海に、西寺は守敏(しゅびん)にそれぞれ下賜されるが、両者は以前より何事においても対立していたという。
そして翌824年(天長元年)に淳和天皇が即位すると長引く干ばつを解決しようと空海と守敏に対して祈雨の修法が命ぜられる。
空海は大内裏の南に隣接していた神泉苑で修法を行うが、空海の名声を妬む守敏が国中の龍神を瓶に閉じ込めていたため雨は降らない。
しかし空海は守敏の手が及んでいなかった善女龍王を天竺の無熱池より勧請し国中に大雨を降らせることに成功、この「神泉苑での雨乞い伝説」により空海の名声が高まり、一方西寺は守敏のの失脚、990年(正暦元年)には大火に見舞われるなど衰退の一途を辿り、1233年(天福元年)に再度焼失後は再建されることはなかったという。
現在は九条七本松のやや北、西寺の跡地に整備された唐橋西寺公園内に「西寺跡」の石碑が残るのみ。
周辺
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境内北東の慶賀門そば、生菓子を扱う東寺御用達の和菓子屋、1912年(大正元年)創業の老舗。
求肥(ぎゅうひ)にこしあんを包み店の名を冠した門前名物の「東寺餅」と、焼いて食べても美味しい「粒あん入りよもぎ大福」が二枚看板。
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笹屋伊織本店(ささやいおりほんてん)
江戸時代の享保年間創業の老舗。
「弘法さんのどら焼き」は毎月弘法市の開催される21日を挟んだ前後3日間のみ販売される。
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東寺の境内西側、西門前にあるおはぎの店。
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九条油小路のやや西、九条通に面する近鉄の駅。
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