京都市南区唐橋羅城門町、千本通九条の北東、九条通沿いに入口がある唐橋花園児童公園(唐橋羅城門公園)内にある平安京に関する史跡の一つ。
この点「羅城門(らじょうもん)」は794年(延暦13年)の平安京遷都に際して建設された平安京の正門で、現在の東寺のやや西側、九条通と千本通が交差する付近にありました。
門は現存していませんが、跡地に整備された児童公園に門があったことを示す石碑や駒札が建てられています。
「羅城」とは古代中国の城郭都市において石や煉瓦で築かれた外廓・城壁のことで、羅城門はその城郭内に碁盤の目状に整備された条坊都市の中央を南北に貫くメインストリート「朱雀大路」の南端に建設される大門で、日本でも中国の城郭都市を参考にして築かれた平城京や平安京には正門として建設されました。
そして平安京に遷都が行われた当時の京域は東西4.5km、南北5.3kmで、その中央を南北に通っていた朱雀大路は現在の千本通に相当する位置にあり、その道幅は85mもあったといわれ、羅城門はその朱雀大路の南端に正門として建てられ、北端の朱雀門と相対していました。
「拾芥抄」には「二重閣九間」とあり、幅は約35m、奥行は約9m、高さはあ約21m、二重楼閣の瓦屋根造の重層門で、棟の両端には金色の鴟尾が置かれて、威容を誇っていたといいます。
そして門を境にして内側を「洛中」、外側を「洛外」と呼んで区別され、また羅城門を守護するように門の東西の位置に東寺と西寺が建立され、東寺は現在も五重塔をシンボルに世界遺産としてその名をよく知られているのは周知の通りです。
その後、816年(弘仁7年)8月16日夜に大風で倒壊し、この時は再建されていますが、平安中後期に入ると右京の衰えや社会の乱れとともに平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、門の周辺も盗賊のすみかとなるなど、夜には誰も近づかないような荒廃した地域となってしまいます。
そしてその不気味な雰囲気は数々の怪奇譚の題材となり、引き取り手のない死者を門の上に捨てていく話が「今昔物語集」に収録されているほか、羅城門に棲みついた鬼(茨木童子)と戦った渡辺綱の武勇伝、いわゆる鬼の腕切りを謡曲化した観世信光作「羅生門」や、またこれを題材にして書かれた芥川龍之介の小説「羅生門」はとりわけよく知られ、映画化もされています。
その後、980年(天元3年)7月9日に暴風雨で再度損傷してからは修理されることはなく、現在は門の礎石もなく、九条千本の交差点から九条通をやや奥に入った、住宅街の中にある小さな児童公園に、跡地を示す石碑がひっそりと建てられているのみ。
この点、羅城門の跡を示す石標は1895年(明治28年)の「平安遷都千百年紀念祭」の事業の一つとして建立されたものです。
周辺にはこの他に児童公園の手前の九条通沿いに「矢取地蔵尊」が祀られていますが、これは弘法大師空海が矢で狙われた時に、身代わりになって助けたと伝わる地蔵です。
この他の周辺スポットとしては、九条通を東へ進んだ所に世界遺産の「東寺」、逆の西へ進むと「西寺跡」の史跡がある「唐橋西寺公園」あります。
この点、東寺に所蔵されている兜跋毘沙門天像は羅城門上に安置されていたものと伝えられています。
またこの他の関連スポットとしては、近年京都駅の駅前広場に10分の1スケールの復元模型が展示されており、往時の姿を目にすることができるようになっています。