京都市左京区大原草生(おおはらくさお)町にある天台宗の寺院。
寺号は玉泉寺、山号は清香山(せいこうさん)、そして本尊は地蔵菩薩立像。
京都市の北東部に位置する大原は、かつて世を捨てた隠者の住む自然豊かな隠れ里で、念仏行者の修行の地であり、仏教音楽、声明の発祥の地としても知られています。
寂光院は三千院とともにその大原を代表する寺院の一つで、代々尼僧が住職を務める尼寺であり、平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した「平家物語」ゆかりの寺としても有名です。
創建の詳細については明らかではありませんが、寺伝によると飛鳥時代の594年(推古2年)、聖徳太子が父・用明天皇(ようめいてんのう)の菩提を弔うために建立、初代住職は聖徳太子の乳母で日本仏教最初の三比丘尼(尼僧)の一人として知られる玉照姫(たまてるひめ)(恵善尼)と伝わっています。
この点、江戸時代の地誌「都名所図会」では空海が開基したとする説や、また「京羽二重」では11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖・良忍(りょうにん)が開いたとする説などもあるといいます。
もっとも現在は「平家物語」に登場する建礼門院が隠棲した平家物語ゆかりの地として広く知られています。
建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)は平安末期に平清盛の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産みその生母となりますが、1185年(寿永4年/文治元年)、「壇ノ浦の戦い」で源氏に敗れて平家が滅亡した際に唯一生き残り、侍女の阿波内侍とともにこの地にて出家し尼となり、高倉天皇(たかくらてんのう)および壇ノ浦にて入水したわが子・安徳天皇(あんとくてんのう)、ならびに平家一門の菩提を弔いながら余生を送ったといいます。
この点、1186年(文治2年)4月には、舅に当たる後白河法皇が寂光院にて尼となった建礼門院の元を訪ねていますが、その様子は「平家物語」の「灌頂(かんじょう)の巻」や謡曲・能「大原御幸(おはらごこう)」の段に謡われており、「諸行無常」を象徴するエピソードとして広く知られています。
後に荒廃するも、桃山時代の慶長年間(1596-1615)に豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母・淀殿の命により片桐且元(かたぎりかつもと)が堂宇を再興し、明治の廃仏毀釈による影響を受けることなく大原を代表する名所として親しまれてきました。
このうち本堂は飛鳥、藤原、桃山様式の三時代の様式、すなわち外陣は1603年(慶長8年)に豊臣秀頼が修理させた桃山様式のものを、古式通りに忠実に復元し、他方内陣および柱には飛鳥、平家物語当時の藤原様式を残す貴重な建物でした。
しかし2000年(平成12年)5月9日未明に放火による火災で焼失してしまっており、現在の本堂はその後2005年(平成17年)6月に忠実に復元し再建されたものです。
また本堂安置の本は聖徳太子作と伝わり6万体の小像が刻まれた六万体腹籠りの木像地蔵菩薩立像(じぞうぼさつ)で、胎内仏として3000をこえる地蔵菩薩小像や経典などを納められ、1986年(昭和61年)に国の重要文化財に指定されていますが、こちらも本堂の火災の際に焼損し、現在本堂にはオリジナルを忠実に再現したレプリカが祀られています。
一方焼損した六万体地蔵尊の方は可能な限り修復され、寺院の収蔵庫に保存されています。
この他に本堂には本尊の左右両脇に建礼門院木像、および建礼門院の侍女で二代目住職・阿波内侍(あわのないし)像が安置されていますが、いずれも本堂火災の後に本尊とともに新しく作り直されたものです。
このうち阿波内侍の方は平家一門から送られた手紙・書簡で造られたという張子像として知られいる像です。
創建当時はただの仏教寺院で、その後明治初年まで末寺を一ヶ寺持つ天台浄土兼学の寺院でしたが、現在は天台宗に所属しています。
楓などの樹木や苔むした石段などが趣を添える閑静な境内には本堂のほか、本堂右の東側に本堂や書院など、どこから見ても正面に見えるように植栽が工夫された「四方正面の池」のある回遊式庭園があるほか、本堂左の西側の庭園には汀の池(心字池)を中心に千年の姫小松や汀の桜など、「平家物語」で描写された当時の面影を残す数々の旧跡が点在しています。
更に境内の西へ進むと、平家滅亡後に建礼門院が閑居した草庵跡があり、草庵自体は既にありませんが、美しい苔で覆われ一柱の碑が建つのみのその風景は、諸行無常という「平家物語」の一節を思い出させる趣があります。
この他にも寺の背後の山には高倉天皇皇后・建礼門院徳子の陵墓「大原西陵(にしりょう)」があるほか、四季折々の草花が美しいことでも知られ、とりわけ晩秋の紅葉は美しく、本堂前の門へと続く石段は燃えるような真っ赤な紅葉のトンネルに包まれ見る者を魅了します。