京都市左京区大原来迎院町、大原三千院の東の山道を上がった先にある天台宗寺院。
山号は魚山、本尊は薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来の三尊仏。
平安初期の仁寿年間(851-54)、第3代天台座主・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん 794-864)が中国・唐で学んだ梵語の仏教歌謡・梵唄(ぼんばい)などの声明(しょうみょう)の修練道場として創建したのがはじまり。この地が選ばれたのは当時の唐で声明が流行していた五台山の太原(たいゆわん)の地形に大原が類似していたためといわれています。
この点「声明」とはインドで始まったバラモンの学問の一つですが、日本では仏教経典に節をつけた仏教音楽として広がり、仏教のほかにも民謡などの日本の音楽界にも大きな影響を与えたといわれています。
その後、藤原時代になると大原の地は俗化した比叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里となり、平安中期の1013年(長和2年)には左大臣・源雅信(まさのぶ)の子で円仁の9代目の弟子・寂源(じゃくげん 965-1024)が国家安穏のために勝林院を創建。
そしてその約90年後の平安後期の1109年(天仁2年)には、比叡山東塔の僧で融通念仏の開祖とされる聖応大師良忍(りょうにん 1073?-1132)がこの寺に入寺して再興を果たすとともに、円仁に始まる声明を大成。
以後この声明は中国山東省に所在する声明の聖地にちなんで「魚山流(ぎょざんりゅう)」と呼ばれるとともに、来迎院を上院、勝林院を下院として2つの本堂を中心とした僧坊が建立されて「魚山大原寺」と総称されるようになり、多くの僧侶が声明の研究・研鑽をする天台声明の根本道場となります。
創建当時の来迎院は「三尊院」と称し多数の堂塔伽藍があったといいますが、室町時代の1426年(応永33年)の火災で焼失しており、その後も度々の焼失と再建を繰り返し、現在の本堂は戦国時代の天文年間(1532-55)に再建されたもので、堂内には本尊で国の重要文化財に指定されている藤原時代の薬師・阿弥陀・釈迦三如来坐像が安置されています。
その他に寺宝として伝教大師最澄の得度や受戒に関する文書類3点を1巻とした「伝教大師度縁案並僧綱牒(どえんあんならびにそうごうちょう)」が最澄の貴重な伝記資料として(現在は東京国立博物館に寄託)、また平安前期の日本最古の仏教説話集である「日本霊異記(にほんりょういき)」(京都国立博物館に寄託)がともに国宝に指定されています。
豊かな自然に包また境内には外界と隔絶したかのような厳かな雰囲気が漂っており、またその他の見どころとして来迎院から山道を更に約300m上がった所に、良忍が声明を唱えていると、声明の音律と融合して水音が消えたと伝えられている「音無の滝(おとなしのたき)」があります。