京都市左京区大原勝林院町、三千院の奥、律川の流れの近くに位置する天台宗の寺院。
本尊は地蔵菩薩坐像。
平安後期の1013年(長和2年)、慈覚大師円仁(794-864)の9代目の弟子・寂源(?-1024)が円仁が伝えた天台声明を伝承するために建立した「魚山 勝林院(ぎょざん しょうりんいん)」の子院の一つです。
この点「魚山声明(ぎょざんしょうみょう)(天台声明)」とは、天台宗の法要儀式に用いられる仏教声楽のこと。
「声明」とは、経典や高僧が著した論釈の文言に、独特の旋律を付けて唱えることを指す言葉で、大原で伝承されてきた「魚山声明」は、平安時代に慈覚大師円仁によって唐から伝えられました。
また「魚山」とは、中国山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名にちなんだものです。
そして「勝林院」は良忍(1073?-1132)の開いた来迎院とともに、その天台声明(魚山声明)の中心地となった寺院で、二院を本堂として「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」といわれました(勝林院を本堂とする下院、来迎院を本堂とする上院)。
その勝林院の子院の一つであった実光院は、その後、室町時代の応永年間(1394-1428)に宗信法印によって復興されることとなります。
当時の実光院の境内は現在地の向かい側にある大原陵(後鳥羽天皇陵・順徳天皇陵)の地にあり、付近には当寺の他に勝林院西隣にある宝泉院(ほうせんいん)や普賢院(ふげんいん)、理覚院(りかくいん)など多くの僧坊があったといいます。
しかし後鳥羽天皇第10皇子であった梶井宮門跡(現在の三千院)の第20世・尊快法親王の御心によって、それまで旧実光院の庭園に後鳥羽・順徳両帝の遺骨が分散し安置されていたものが「大原陵」という本陵として整備されることが決定したため、実光院は旧宮内省の命によって移転することとなり、同じく勝林寺の子院であったものの明治以降は無住となっていた普賢院や理覚院の2院を統合する形で、1919年(大正8年)に旧普賢院の寺地に移転し現在に至っています。
客殿は移転の後、1921年(大正10年)に建てられたもので、声明に使われる楽器などが陳列されているほか、欄間に配置されている「三十六歌仙」画像は江戸中期に狩野派の絵師によって描かれたもので、同様の作品は一乗寺の詩仙堂にも残されています。
そして一番の見どころは、客殿の西側と南側に広がる2つの庭園と、秋から春にかけて咲く不断桜で、茶席からお抹茶を頂きながら庭をゆっくり鑑賞した後、庭の中を歩いて回ることが出来るようになっています。
このうち客殿南側に広がる庭園「契心園(けいしんえん)」は旧普賢院の庭園で江戸後期の作庭。
律川の水を取り入れた心字池を中心とする池泉観賞式で、池を三途の川、対岸の築山を極楽浄土に見立てているほか、滝もあり、築山の松は鶴を、池の島は亀を表現しているといいます。
また客殿の西側に広がる回遊式庭園は旧理覚院の寺地で、荒廃していたものを実光院と統合の後に歴代の住職が作庭整備し今日に至っています。
借景として大原の山並みを取り入れた、開放的な雰囲気の庭で、福寿草、カタクリ、イカリ草といった春の草など、茶花を中心に植えられた四季折々の草花が花を咲かせます。
そして庭の中央にある「不断桜(ふだんざくら)」は、初秋より翌年春にかけて花を咲かせる珍しい品種で、秋には桜と紅葉、冬には雪と桜を同時に楽しむことができます。