京都市左京区大原勝林院町、大原三千院前の参道を北へ進み律川に架かる未明橋(茅穂橋)を渡った突き当たりにある天台宗寺院。
山号は魚山、本尊は阿弥陀如来(証拠の阿弥陀)で、日本音楽の源である「天台声明(てんだいしょうみょう)」発祥の寺として知られています。
平安初期の835年(承和2年)、第3代天台座主・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が中国・唐に渡った際、「声明(しょうみょう)」を持ち帰り比叡山で伝承。
「声明」とはインドで始まったバラモンの学問の一つですが、日本では仏教経典に節をつけた仏教音楽として広がり、仏教のほかにも民謡などの日本の音楽界にも大きな影響を与えたといわれています。
その後、平安中期の1013年(長和2年)に左大臣・源雅信(まさのぶ)の子で円仁の9代目の弟子・寂源(じゃくげん 965-1024)が国家安穏のため、その道場を現在の地に移し、中国山東省に所在する声明の聖地にちなんで「魚山(ぎょざん)」と号し、その約90年後の1109年(天仁2年)に「来迎院」が創建されると、勝林院を下院とし来迎院を上院とする2つの本堂を中心として僧坊が建立され「魚山大原寺」と総称されるようになり、以後は多くの僧侶が声明の研究・研鑽をする「天台声明(魚山声明)」の根本道場となります。
また平安末期の1186年(文治2年)の秋に、後の第61代天台座主・顕真(けんしん 1131-92)の招きで浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)が招かれ、貞慶(じょうけい)、重源(ちょうげん)、証真(しょうしん)ら南都・北嶺の学僧300余名を相手に念仏の教え(専修念仏)について論議した「大原問答」の舞台となったことでも知られていて、論議は一昼夜に及び、法然上人には12の難問が投げかけられたといい、念仏が他の行よりすぐれていることを法然上人が述べられたところ、顕真や論議参加した者は法然上人の教えを信じ、阿弥陀仏の周囲を三日三夜念仏行道したと伝えられています。
そして伝説では問答の際に本尊の阿弥陀如来が手から光を放ち法然が正しい証拠を示したとされ、「証拠の阿弥陀」と呼ばれようになったといい、またこの故事から同寺は「法然上人二十五霊場」の第21番札所にもなっています。
堂宇は火災や水害のたびに再建を繰り返し、現在の本堂は1778年(安永7年)の再建。
幅七間・奥行六間の総欅造りで、素朴な風情が漂う木の板を重ねて葺いたこけら葺の屋根と、欄間や蛙股などに彫り込まれた立体的な彫刻が印象的で、鐘楼とともに京都市の有形文化財にも指定されています。
そして堂内には本尊・証拠の阿弥陀のほか、本尊の奥に大原問答の際に左足を踏み出して証拠を示したという「踏出阿弥陀如来」と法然上人御木像、更に元三大師画像と普賢菩薩像、そして北野寺の本尊であったものを廃仏毀釈の難を逃れるために移したもので菅原道真の本地仏とされる十一面観音菩薩像などが安置されていて、また堂内ではボタンを押せば声明が流れるようになっており、自由に聞くことができるといいます。
行事としては毎年4月の下旬に魚山声明研究会により「声明を聞く会」が開催されているほか、1月3日には天下泰平・国家安泰を祈願する声明法要 「修正会(しゅしょうえ)」が勝林院村の宮座の若衆仲間が参加して行われます。
その他にも「梵鐘」は境内東側にある石像の宝篋印塔とともに創建当時藤原時代からのもので国の重要文化財に指定されているほか、本堂前の参道には杉苔(スギゴケ)が多く敷かれ、秋には紅葉との見事なコントラストが楽しめます。