滋賀県大津市坂本本町、天台宗の開祖である伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう 767-822)が開創し、滋賀から京都にまたがる比叡山全域を境内とす天台宗の総本山。
山号は比叡山(ひえいざん)で、叡山、あるいは園城寺の寺門・寺に対して「山門(山)」といい、奈良の南都・興福寺に対し「北嶺(ほくれい)」とも呼ばれています。
比叡山は「古事記」にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、その後794年(延暦13年)に平安遷都を行った第50代・桓武天皇が最澄に帰依すると、天皇やその側近である和気氏の援助も受け、平安京の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として崇敬を集めるようになり、弘法大師空海の開創した高野山真言宗・金剛峯寺と並ぶ平安仏教の中心地となっていきます。
最澄は767年(神護景雲元年)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(現在の滋賀県大津市坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。
幼名を広野(ひろの)といい、早くからその才能を開花させて12歳で近江の国分寺・行表(ぎょうひょう)の弟子となり、780年(宝亀11年)に得度すると、785年(延暦4年)には奈良・東大寺の戒壇院で具足戒(250戒)を受けて、国に認められた正式な僧侶となります。
しかし世の無常を感じ受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に登って草庵生活に入ると、願文を作り一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと御仏に誓い、788年(延暦7年)、自ら刻んだ薬師如来を小堂(後の根本中堂)に安置し「比叡山寺」あるいは「一乗止観院(しかんいん)」と号したのが延暦寺のはじまりといわれています。
この点「一乗(いちじょう)」とは大乗仏教の極致とされる思想で、「大乗仏教」とは古来の仏陀の教えを拡大し新しい解釈を加えた教派で、個人の救済=自分一人の悟りのためではなく、多くの人々を理想世界である彼岸に運ぶ大きなすぐれた乗物という意味で、他者救済=一切衆生(いっさいしゅじょう)の済度(さいど)を目指すものです。
そして仏陀は人間の素質や能力に応じて種々の説(三乗)を説いたものの、それらは人々を導くための方便にすぎず、仏の教えには実は唯一つの真実の教え=唯一の乗り物があるのみで、絶対平等であり、それによってすべての人が成仏できるとするのが「一乗」の教法です。
大乗仏教独自の経典としては般若経・法華経・維摩経・華厳経などがありますが、その中でもこの一乗の思想が顕著に現れているのが「法華経」で、法華経の思想を体得すればそれがそのまま一乗であるとし、後の天台宗では法華経が中心に置かれていくこととなります。
その後、最澄は802年(延暦21年)に第50代・桓武天皇から入唐の勅命を受けて804年(延暦23年)に入唐すると、天台山に赴いて修禅寺の道邃(どうずい)や仏隴寺の行満から天台教学を学ぶとともに、禅林寺の?然(しゅくねん)より禅法、帰国前に龍興寺で順暁から密教の伝法を受け、805年(延暦24年)に帰国します。
そして帰国後は密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設けて奈良の学僧たちに日本で初めて密教の潅頂を授けるなどし、翌806年(延暦25年)、ついに国家公認の僧侶である「年分度者」を天台宗として許されることとなり、官符の発せられた1月26日は天台宗開宗の日とされています。
更に819年(弘仁10年)に比叡山への大乗戒壇の建立を奏上、すなわち当時日本中に3か所のみであった出家者が正式な僧尼として認められるための授戒の儀式を行う壇である「戒壇(かいだん)」を新しく比叡山上にも設け、大乗戒のみを授けることによって天台宗を純粋な大乗の僧を養成する宗派として奈良の仏教教団からの独立を図りますが、南都六宗の強い反対に遭って許されぬまま、最澄は822年(弘仁13年)6月4日に56歳で亡くなります。
しかしその没後わずか7日目に建立が許可されることとなり、翌823年(弘仁14年)には嵯峨天皇の勅許により開創時の年号「延暦」をとった寺号が下賜され「延暦寺」と改めています。
また没後40数年後の866年(貞観8年)には清和天皇によって「伝教大師」の諡号(没後に贈られる名前)を贈られていますが、これは日本最初の大師号といいます。
そして最澄の没後、跡を継いだのは早くから最澄に師事しその入唐に際しては通訳として同行するなど、長年最澄を支えた弟子の義真(ぎしん 781-833)で、大乗戒壇設立の勅許が下りると最初の伝戒師となり、天台宗を統率する立場となり、初代の天台座主(ざす)とされています。
その後、833年(天長10年)に第2代天台座主・円澄(えんちょう 772-837)が西塔、第3代天台座主・慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん 794-864)が横川(よかわ)を開き、最澄の東塔(根本中堂)と合わせて「三塔」が成立。
次第に堂や伽藍が増築されていき、平安末期には一山三千余坊といわれるほど栄えました。
935年(承平5年)に大規模火災で根本中堂をはじめとする多くの堂塔を失い荒廃しますが、966年(康保3年)に延暦寺中興の祖とされる元三大師良源(がんざんだいし りょうげん 912-85)が第18代天台座主となると、村上天皇の外戚である藤原師輔の後援を得て焼失した堂塔を再興するとともに、最澄の創建当初は小規模な堂であった「根本中堂」を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造り、衆徒3000人、堂坊50余を有する全盛期を迎え、日本仏教史上最も重要な位置を占めることとなります。
また比叡山では天台法華の教えのほか、密教や禅、念仏なども行なわれ、仏教の総合的な学問所として多くの人材が学問や修行に励むとともに、論義も盛んに行われ教学の振興が図られたことから優れた高僧を多く輩出しており、とりわけ平安末期から鎌倉時代はじめにかけては法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といったのちに鎌倉仏教の各宗派の開祖となる僧侶たちが比叡山で学んだことが知られていて、このことから「日本仏教の母山」とも呼ばれています。
その一方で10世紀後半頃からは、天台宗の中で座主の地位をめぐって確執が生じ、最澄直系の第3代天台座主・慈覚大師円仁の系統と、最澄の弟弟子・義真に師事した第5代天台座主・智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん 814-91)の系統が争うこととなり、慈覚(円仁)派は比叡山延暦寺を拠点としたことから「山門(さんもん)」と呼ばれ、一方智証(円珍)派は円珍が再興した滋賀県大津市の園城寺(三井寺)(みいでら)を拠点としたことから「寺門(じもん)」と呼ばれ、この頃から僧兵を養って強大な権力を持つようになり、意に満たないことがあれば強訴を繰り返して朝廷にも恐れられ、平安時代に院政を敷き絶大な権力を誇った白河天皇ですら「平家物語」にて我が心に叶わぬものとして「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)」として「天下三不如意」の一つに挙げています。
室町時代の1536年(天文5年)には比叡山延暦寺の衆徒が宗教問答を契機に京都の法華一揆と対立、当時勢力を拡大しつつあった洛中洛外の日蓮宗21か寺を襲った「天文法華の乱」も発生するなど、その後も時の権力者を無視できるほどの兵力と財力を持ち、一種の独立国のような状態が長く続きますが、戦国時代に織田信長が登場すると、朝倉・浅井連合軍を匿うなど反信長の行動を起こしたことから、信長は武装解除を求めて再三の通達をしますが、断固拒否されたことから1571年(元亀2年)に有名な「比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)」により全山が焼失。
1584年(天正12年)に信長の後を継いだ豊臣秀吉によって僧兵を置かないことを条件に復興が命じられると、その後は豊臣・徳川両氏によって復興が進められ、江戸初期の1640年(寛永17年)には江戸3代将軍・徳川家光によって根本中堂が再建されていますが、江戸時代には江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立され天台宗の宗教的実権は江戸に移され、総本山として復活するのは明治以後のこととなります。
788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が比叡山に一乗止観院、現在の根本中堂を建立して以来、1,200年余りにわたって日本の仏教の中心地として日本の歴史や宗教にも多大な影響を与え、現在も日本仏教の代表的な聖地として千日で地球一周にも相当する距離を歩き続ける「千日回峰行」をはじめ、厳しい行と教学に明け暮れる修行道場として世界の平和や平安が祈願されるとともに「十二年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行も続けられており、高野山と並ぶ歴史的な信仰対象の山として知られています。
その一方で京都と滋賀の県境に連なる比叡山の山上は、東は日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあり、また比叡山の山上から東麓にかけて広がる広大な境内には代表的遺構である国宝の根本中堂をはじめ100を超す寺院や堂塔などの歴史的建築物が点在するとともに、千手観音立像や釈迦如来立像などの仏像をはじめ、金銅経箱や最澄の入唐牒、天台法華宗年分縁起など多数の国宝や重要文化財に指定された寺宝も伝えられていて、美しい自然環境の下で積み重ねられてきた1200年の歴史と伝統は世界的にも高い評価を受け、1994年(平成6年)には京都のその他の寺社仏閣とともに「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの「世界文化遺産」にも登録されています。
比叡山は京都市と滋賀県大津市の境にある山で、西の標高839mの四明ヶ岳と東の標高848mの大比叡(おおひえ)を中心とした5峰が連なる山で、東西の両斜面は急崖であるものの山頂部はなだらかで、一帯は琵琶湖国定公園にも指定され、京都市街や琵琶湖を一望できる展望台や遊園地などもあり、山中は鳥類繁殖地として天然記念物にも指定されていて、修行道場として厳粛な雰囲気に満ちているイメージもありますが、延暦寺の諸堂拝観はもとより、自然散策や史蹟探訪などを気軽に楽しむこともできるようになっています。
また古くは京都の修学院から比叡山へと通じる「雲母坂(きららざか)」などの険しい山道を登る必要がありましたが、現在は西の京都八瀬からはロープウェー、東の滋賀県側から坂本からケーブルカー、また東西の両麓から比叡山ドライブウェイも整備されており、アクセスも容易になっています。
そして「延暦寺」は単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて存在する三塔十六谷の総称で、ここに150ほどの堂塔があるといい、その中心をなすのが最澄以来の延暦寺発祥の地である「東塔(とうどう)」と、第2代天台座主・円澄が開いた「西塔(さいとう)」、そして第3代天台座主・円仁が開いた「横川(よかわ)」の塔と呼ばれている3つのエリアです。
「東塔(とうどう)」は伝教大師最澄が延暦寺を開いた延暦寺発祥の地で、総本堂の「根本中堂」をはじめ、延暦寺の山門にあたる「文殊楼」、大日如来を本尊とし各宗各派の宗祖を祀っている「大講堂」、阿弥陀如来を本尊とし先祖回向の「阿弥陀堂」などの主要伽藍が配置されています。
このうち「根本中堂」は江戸第3代将軍・徳川家光の命で1642年(寛永19年)に再建されたもので国宝に指定され、本尊・薬師如来を安置するほか、本尊の前には1200年間灯り続けている「不滅の法灯」が安置されていることでも知られています。
また比叡山山頂や西塔、横川地域へ向かうシャトルバスや京都市内行きの路線バスが出ている「延暦寺バスセンター」や、また門前町坂本と通じる「坂本ケーブル」などがあり、アクセスの拠点となっているほか、宿坊「延暦寺会館」にて食事や宿泊、修行体験などをすることもでき、延暦寺の表玄関となっています。
更に東塔から南に1㎞ほど下ると、回峯行の拠点のひとつである「無動寺谷」にたどり着きます。
次に「西塔(さいとう)」は第2世天台座主・寂光大師円澄によって開かれた区域で、東塔から北へ約1kmの所にあります。
釈迦如来を本尊として安置し延暦寺で現存する最古の建造物である鎌倉期の「釈迦堂(転法輪堂)」を本堂とし、その他に修行のお堂で弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えからその名がついた「弁慶のにない堂(法華堂・常行堂)」や伝教大師最澄が眠る御廟所である「浄土院」などがあり、全体として山寺あるいは静かで厳かな空気が漂う修行道場といった雰囲気の強いエリアです。
最後の「横川(よかわ)」は第3世天台座主・慈覚大師円仁によって開かれた区域で、西塔から更に北へ4kmほどの境内で一番奥まった所にあり、昔の雰囲気を現在に伝えるといわれる雰囲気を残しています。
聖観音菩薩を本尊として安置し遣唐使船をモデルに船が浮かんでいるように見える舞台造が印象的な「横川中堂」を本堂とし、後の浄土宗・浄土真宗の源となる「往生要集」を著した恵心僧都源信が隠居していたという「恵心堂」や、現代のおみくじを考案したとされ、魔除けの護符として知られる角大師(つのだいし)で有名な第18代天台座主・元三大師良源を祀る「四季講堂(元三大師堂)」などがあります。
それ以外にも比叡山は「西国三十三ヶ所観音霊場」や「西国薬師霊場」などの各種霊場めぐりの札所となっているほか、登山の山としても人気で、京都側からは修学院の雲母坂登山口から大比叡山頂まで、徒歩で約2時間20分、滋賀県側からは、延暦寺および日吉大社の門前町・坂本から表参道を経て、無動寺谷を通って登る約2時間余りの登山道があり、その他にも大津から京都の大原方面へ抜ける「東海自然歩道」や、京都一周トレイルのルートにもなっていて、多くの参拝者や登山客が山を訪れています。
また滋賀県大津市側の「坂本(さかもと)」は、現在はJRや京阪、坂本ケーブルなどの各種交通機関と比叡山とをつなぐターミナル的な役割を果たす一方で、延暦寺および延暦寺の守護神である日吉大社の門前町として古くから栄えた町で、延暦寺僧侶が隠居所として余生を送った里坊が並ぶ、穴太衆積みの石垣と白壁が調和する風情ある町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。