京都市東山区泉涌寺山内町、泉涌寺(御寺)本坊南の高所に位置する、真言宗泉涌寺派の別格本山で泉涌寺の別院。
山号は瑠璃山といい、勅願の寺院で皇室との縁の深さから、塔頭と同じく泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられている寺院です。
南北朝時代の1372年(応安5年)、北朝第4代・後光厳天皇の勅願により、泉涌寺21代・竹巌聖皐(しょうこう)を開山に龍華院と共に創建されたのがはじまり。
その後も歴代天皇の信仰篤く、度々この寺に行幸するなどし発展。
とりわけ後光厳法皇の皇子である後円融天皇は1389年(康応元年)に龍華殿を建立したほか、勅願により如法写経会を始められ、それ以降現在に至るまで現存する「日本最古の写経道場」として如法写経の勤修が受け継がれており、毎月27日に催される写経会では誰でも写経体験をすることができます。
またとんちで有名な一休さんの父・後小松天皇や称光天皇の両天皇もこの寺を崇敬していたといい、これら4人の天皇の崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、また明治の初めに孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の支援により完成した霊明殿には北朝歴代の天皇の尊牌が奉安されています。
その後「応仁の乱」の兵火により、後光厳天皇、後円融天皇の尊像を残すのみとなるほどの被害を被りますが、1501年(文亀元年)に後柏原天皇より後土御門天皇使用の御黒戸御殿の寄進を受け再建。
更に1596年の地震による倒壊の後、江戸初期の1639年(寛永16年)に中興の祖・如周正専が隣接する後円融天皇ゆかりの龍華院を併合し再建するとともに、第108代・後水尾天皇の援助により諸堂が復興されています。
そして江戸時代には寺領も多く、学ぶ僧侶も多数にのぼるなど寺勢は盛んであったといいます。
寛永期に再建された本堂「龍華殿」は国の重要文化財に指定。
また本堂安置の本尊・薬師三尊(藥師・日光・月光)は極めて写実的な鎌倉時代の作で、こちらも国の重要文化財に指定されているほか、「西国薬師霊場」の第40番札所にも数えられています。
寺宝としては土佐光信筆の「絹本着色後円融院宸影」が重文なほか、1688年(元禄14年)に赤穂城を退いた後、山科に浪宅を構えて閑居した大石内蔵助(良雄)の力強い筆跡の「龍淵」の書が残されています。
庭園も見どころの一つで、美しい庭は、春は桜、秋は紅葉で彩られ、お抹茶を頂きながら四季折々の景色を楽しむことができ、見頃の時期には夜間ライトアップや特別拝観も開催されています。
また書院の「蓮華の間」と呼ばれる部屋には庭に面した障子に4つの窓があり、部屋に置かれた座布団の場所から座ってみると、4つの障子窓からは左から椿・灯篭・楓・松と、それぞれに違った情緒ある景色を見ることができるとして人気で、奥にある「悟りの窓」とともに撮影ポイントにもなっています。
更に台所にある大黒天像は鎌倉時代の作で、普段より見慣れている俵の上に乗って笑顔をたたえる大黒様とは異なり、その恰好は大きな袋を担いでわらじ履きの左足を一歩前に踏み出し、今にも走り出しそうな姿をしていることから「走り大黒天」と呼ばれるようになったといいます。
そしてその姿はお参りした人に「一歩踏み出しなさい」と訴えかけているのだといい、勇気を出して一歩踏み出すことで良縁を引き寄せ「縁結び」のご利益を授かることができるといいます。
その他にも霊明殿の前の灯篭は江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が寄進したもので、下には砂で皇室の十六菊紋がきれいに描かれているのが印象的です。
行事としては毎年1月の成人の日に涌寺とその塔頭寺院で開催される「泉涌寺七福神」で、前述の「走り大黒天」が第5番の「大黒天」となっており、当日は多くの参拝者で賑わいます。