京都市東山区、東山三十六峰の今熊野山の裾野に広がる泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院で、泉涌寺の塔頭の一つ。
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)とも称され、一般的には「観音寺」の名称よりも「今熊野」や「今熊野観音」の呼び名の方で親しまれています。
山号は後白河法皇より賜ったという「新那智山」。
平安初期の弘仁年間(825年頃)に弘法大師空海が熊野権現の化身から観音霊地の霊示を受け、嵯峨天皇の勅願により自ら観音像を刻んで本尊とし草堂に安置したのがはじまり。
また斉衡年間(854~857)に左大臣・藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝えられています。
唐からの帰国後に空海が東寺で修業をしていた時、東山に綺麗な光が指すのが見え、不思議に思い光の指すほうへ向かってみると、白髪の老翁が現れて、空海に一寸八分の十一面観世音菩薩と宝印を与えてその場から立ち去ります。
「熊野権現(くまのごんげん)」の化身だというその老翁のお告げを受けた空海は、堂を建立するとともに自ら一尺八寸の十一面観世音菩薩を彫り、その体内に熊野権現から授かった観音像を胎内仏として納め、本尊として安置したといいます。
この弘法大師作と伝わる本尊十一面観音像は、脇士の不動明王、毘沙門天像とともに古くより厄除・開運を願う人々から篤い信仰を集め、現在も「西国三十三所」の第15番札所などの観音霊場として多くの巡礼者が参拝に訪れています。
中でも平安後期に後白河法皇が長い間悩まされていた持病の頭痛を観音様が枕元に現れて鎮めてくれたという伝承が霊験記に残されていることから、とりわけ頭痛に加え知恵授けや学業成就、ぼけ封じなども含めた「頭の観音さん」として広く人々の信仰を集めています。
ちなみに観音寺は当初は「東山観音寺」と称していましたが、熊野詣に熱心であった後白河上皇が1160年(永暦元年)に紀伊国の熊野権現を勧請して京都に新熊野神社を創建した際に「新那智山」の山号を贈られるとともに「京都にある新しい熊野=今の熊野」という意味を込めて「今熊野観音寺」と称することになったといいます。
その後も1234年(文暦元年)に後堀河上皇を寺域に埋葬するなど、歴代朝廷の崇敬を得て大いに栄え、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったといいますが、「応仁の乱」の兵火で衰退。
江戸中期の1713年(正徳3年)に中興の祖である宗恕祖元によって本堂が再興され現在に至っています。
境内の見どころとしては、まず泉涌寺参道の途中を左に折れて坂を下った先の境内入口前に架かる「鳥居橋(とりいばし)」と呼ばれる風情のある朱塗りの橋が印象的。
更に鳥居橋を渡って奥へと進んでいくと姿を見せる、「子護(こまもり)大師」像は子供の心身健康や学業成就・諸芸上達・交通安全にご利益があるとされています。
さらに奥に進むとと本尊・十一面観世音菩薩を祀る「本堂」と弘法大師空海を祀る「大師堂」があり、そのそばには空海がこの地を開いた時、地面を錫杖でついた際に湧き出したという「五智水(ごちすい)」があり、現在も病気平癒などにご利益があるとされています。
その他にも1983年(昭和58年)に建立された小高い丘の上にそびえる高さ16mの「多宝塔」があるほか、境内は豊かな自然に囲まれ、四季折々の美しい景色が広がることでも知られていて、春には梅や桜、夏には新緑、そして秋には紅葉を楽しむことができます。
行事としては毎年9月21~23日に行われる「四国八十八ヶ所お砂踏法要」が有名。
空海が行った「四国八十八ヵ所巡礼」を起源として1953(昭和28年)から始められたもので、大講堂に八十八の霊場の本尊を祀り、敷きつめた四国の各霊場のお砂を踏みながら参拝することで、京都にいながらにして四国の霊場を巡拝したのと同じ功徳を得ようという法要です。
また普段使用している枕に付けたり、中に入れて寝ることで、頭のご利益を授かるという枕カバーの授与品「枕宝布」が人気を集めています。