京都市東山区泉涌寺山内町、泉涌寺の総門前の北側に位置する真言宗泉涌寺派の寺院で、泉涌寺の塔頭寺院の一つ。
山号は光明山(こうみょうざん)。
平安中期の992年(正暦3年)に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が伏見に創建したとされる「光明院」がはじまりとも伝わるが、平安後期の寛治年間(1087-94)に「伏見長者」と称され当時一世を風靡した風流人で、また平安時代を代表する文化人でもあった藤原頼通の三男・橘俊綱(たちばなのとしつな)が、伏見桃山に山荘を営んだ際に、阿弥陀如来ならびに二十五菩薩像を安置して「即成就院(または伏見寺)」と称したのがはじまりと考えられています。
1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の伏見城築城のため深草大亀谷に移された後、明治維新の廃仏毀釈で1872年(明治5年)に廃寺に。
その後1899年(明治32年)に泉涌寺塔頭で本寺の法安寺と合併した後、1902年(明治35年)に現在地に移転し再興。
そして1941年(昭和16年)に「即成院」と改称され現在に至っています。
本堂に平安時代の仏師・定朝とその弟子の手による本尊・阿弥陀如来坐像と二十五体の菩薩像(寺伝では恵心僧都作とも)を安置。
藤原期の1094年(寛治8年)に造られたと伝わり、阿弥陀如来の高さは5.5m、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれの像高が150cmあるといいます。
見上げるほどに大きい阿弥陀座像とその両脇を固める阿弥陀来迎の歓喜の姿をした二十五の菩薩像は、極楽浄土の世界を立体的に描いたもので、総勢25体の菩薩像がずらりと立ち並ぶ姿から「仏像のオーケストラ」とも称されています。
そして二十五菩薩が揃っての立体的仏像彫刻としては国内では唯一とされていて、国の重要文化財にも指定されています。
古くより「極楽往生」祈願の寺として知られ、即成就院の寺名のとおり病気で苦しまずに極楽浄土へと連れていってくれる「ポックリ信仰の寺」として信仰を集めています。
また近年では諸願成就、病気平癒などの「現世極楽浄土」、即ちこの世の極楽、現世利益を求める起業家なども多く訪れるといいます。
行事としては毎年10月第3日曜日に行われる「二十五菩薩お練り供養」が秋の京都の風物詩として有名。
「お練り供養」は臨終の際に阿弥陀如来と二十五菩薩が雲に乗って現世に降りてきて衆生を極楽浄土へ導くという、平安末期に起こった仏教の来迎思想を表現したもので、「往生要集」をまとめた天台宗の僧侶・源信(恵心僧都(えしんそうず))がはじめたとされ、現在でも奈良県の当麻寺など全国40か所ほどで行われているといいます。
本堂を極楽浄土とし、地蔵堂を現世に見立て、金色の面と衣装で菩薩に扮した25名の稚児を含め総勢300名近くの信徒が、間に渡した約50mの橋の上を御詠歌講の来迎和讃に合わせてゆっくりと練り歩くほか、本堂では観音・勢至の両菩薩役による「極楽浄土の舞」も披露されます。
また那須与一ゆかりの寺として古くから信仰を集め、「那須の与一さん」の別名でも親しまれています。
源義経の家来として源平合戦で活躍した那須与一は、出陣の途中に京都で病にかかった際に即成院の阿弥陀如来に祈願したところたちまち回復。
それ以来阿弥陀如来を肌身離さず持っていたと伝えられ、有名な「屋島の戦い」の時も一心に阿弥陀如来に祈ったところ、見事に扇の的を射る事が出来たといい、その後は即成院に戻って34才で出家し、最後まで阿弥陀如来に祈りを捧げたといわれています。
本堂裏には那須与一の墓と伝えられる石造宝塔があるほか、「願いが的へ」届くように祈願する絵馬、おみくじや扇型の紙石鹸の授与も行われています。
また毎年1月の成人の日に泉涌寺およびその塔頭寺院の9か寺で開催される新春恒例の「泉涌寺七福神巡り」においては、即成院では第1番として「福禄寿」が祀られ、多くの参拝客で賑わいます。
最後にもう一つの見どころなのが、即成院に到着してまず目に入る山門の上の翼を広げた姿の鳳凰像です。
この鳳凰がつくられたのは平安末期の極楽浄土への信仰が盛んだった頃で、当時の関白・藤原頼通が極楽往生を願い、宇治に平等院を建立した後、頼通の三男である橘俊綱も同じく極楽往生を願って伏見に光明院を建立しますが、その時堂上に平等院の鳳凰と向き合う形で鳳凰が置かれました。
即成院はその後伏見から現在の場所へと移転していますが、鳳凰像は今でも平等院の鳳凰と向き合う形で鎮座しているといいます。