京都市東山区泉涌寺山内町、皇室の菩提所である真言宗泉涌寺派の総本山泉涌寺(御寺)の塔頭寺院。
東大路通から泉涌寺道を上がって泉涌寺の総門をくぐり、100mほど進んだ左側に位置し、本尊・釈迦如来が「身代わり丈六」として知られ「丈六さん」の通称で親しまれている寺院です。
鎌倉時代の1228年(安貞2年)、宋から帰国した浄業(曇照忍律)が猪熊八条(大宮八条の東堀川の西)の地に「戒光律寺」として創建したのがはじまり。
その後、後堀河天皇の勅願所となって巨大な伽藍を持ち、戒律復興の道場として皇室や庶民の尊崇を集めたといいます。
室町時代の1467年(応仁元年)に勃発した「応仁の乱」により堂舎を焼失しますが、ただ本尊の釈迦如来は兵火を逃れて一条戻橋の東付近に移されて無事であったといいます。
その後更に三条川東に移築された後、江戸初期の1645年(正保2年)に後水尾天皇の発願により現在地に移転し再興され、泉涌寺の塔頭となりました。
なお猪熊八条と堀川一条には現在も「戒光寺町」の名が残っています。
本尊の釈迦如来立像は鎌倉時代を代表する仏師・運慶と湛慶父子の合作と伝えられ、身の丈1丈6尺(約5.4m)、台座から後背部も含めた総高は約10mにもなる大像で、その巨大さから「丈六さん」と呼ばれ親しまれています。なお実際は1丈8尺ほどですが、昔は大きな仏像のことを「丈六」と呼んだそうです。
木像・寄木造で、本像を始め光背・台座も同時代のもので、宋風を帯びた蒔絵彩色も良く残っており、国の重要文化財に指定されています。
そして江戸初期、後水尾天皇が東宮の時に即位争いが起きて刺客により寝首を掻かれた際、この釈迦如来が身代わりとなったといい、首の辺りから何か流れている様に見えるのは、その時についた血の跡だといいます。
そしてこのような由緒から首から上の病や悪しきことの身代わりになって下さる「身代わり釈迦」と呼ばれて皇室とかかわりの深い泉涌寺の近くに移転されたといい、また庶民からも「身代わり丈六さん」として篤い信仰を受けています。
また本尊以外にも1月の成人の日に泉涌寺境内で行われる「泉山七福神巡り」の第二番となっている弁財天像も有名で、伝教大師最澄の作とされ、本堂向かい側の弁天堂に祀られています。
泉山融通辨財天としてその名の通り「金銭の融通をして下さる」弁天様で、学芸・商売はもとより「融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さる」ということから厚く信仰されています。
秘仏ご開帳は年2回、1月の成人の日に行われる七福神巡りと11月3日の弁財天大祭のみに行われていて、とりわけ七福神巡りの際には大勢の参拝客で賑わいます。
この他にも「京都十三仏霊場」の第3番・文殊菩薩の札所にもなっている寺院です。
その他の見どころとしては、境内にある樹齢100年を越える、泉山随一のソメイヨシノの巨木は、根元から紅葉の木が生えており、種類を越えて仲良く自生するその様子から「百年夫婦桜」と呼ばれ親しまれています。
ちょうど4月の「花まつり」の頃に桜の花を楽しむことができ、また秋には桜の黄葉ともみじの紅葉の共演する美しい姿が楽しめます。