泉涌寺 悲田院

泉涌寺 悲田院

 

 

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泉涌寺 悲田院とは?(基本データ)

名前
泉涌寺 悲田院(せんにゅうじ ひでんいん)
エリア
東福寺・稲荷
ジャンル

寺社 泉山七福神

建立・設立
聖徳太子が身寄りのない老人や放置されている子供を収容する施設として造られたのが悲田院のはじまりといわれる
1308年(延慶元年)、無人如導がこれを一条安居院に再興し、四宗兼学の寺とした
後花園天皇(在位1428~64)の時代に勅願寺となるが、戦火により衰退
1646年(正保3年)、高槻城主・永井直清が現在地に移築、如周和尚を迎えて住持とする
1885年(明治18年)、塔頭・寿命院と合併再興
創始者
[再興] 無人如導
宗派
真言宗泉涌寺派 総本山泉涌寺の塔頭
山号
 
本尊
阿弥陀如来
寺紋
 
札所等
泉山七福神巡り 第6番(毘沙門天)
アクセス
  • 京阪本線「東福寺」駅下車 徒歩約15分
  • JR奈良線「東福寺」駅下車 徒歩約15分
  • 京都市営バス「泉涌寺道」(202・207・208号系統)下車 徒歩約10分
  • 名神高速道路「京都東IC」より約20分
  • 名神高速道路「京都南IC」より約30分
  • 阪神高速8号京都線「鴨川西IC」より約10分
駐車場
約5台
■泉涌寺駐車場
├バス10台分 無料
└自家用車30台分 無料
拝観料
500円(要予約)
お休み
-
拝観時間
9:00~16:00
住所
〒605-0977
京都府京都市東山区泉涌寺山内町35
電話
075-561-8781
FAX
075-561-6847
公式サイト
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泉涌寺 悲田院の地図

泉涌寺 悲田院のみどころ (Point in Check)

京都市東山区泉涌寺山内町、月輪中学の西側、高台の端に位置する真言宗泉涌寺派大本山・泉涌寺(御寺)の山内塔頭寺院で、本尊は阿弥陀如来。

「悲田院」とは仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人や貧しい人、親のない孤児などを収容するために作られた福祉施設のことで、聖徳太子が隋に倣って大阪の四天王寺に四箇院(他に敬田院・施薬院・療病院)の一つとして建てたのが日本での最初と伝えられています。

そして記録上の最古とされるのが、仏教の教えが広まった奈良時代の723年(養老7年)に皇太子妃時代の光明皇后によって奈良・興福寺内に施薬院と共に設けられたもので、更に730年(天平2年)には光明皇后の皇后官職に施薬院、平城京の左京・右京に悲田院が設置されています。

平安時代にも平安京の東西2か所に開設されており、同院は平安京の悲田院の後身と伝えられていますが、その関係性には不明な点が多く詳しいことは分かっていません。

寺伝によると、泉涌寺塔頭の「悲田院」は鎌倉時代の1308年(延慶元年)に無人如導(むにんにょどう)により一条安居院(京都市上京区)に平安京の悲田院の名が引き継いで再興され、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺院としたのがはじまり。

そして室町時代の後花園天皇(在位1428-64)がこの寺を勅願寺とされたため、これより代々の住職は天皇の綸旨を賜り、紫衣参内が許されたといいます。また天皇の崩御の際には当院で葬儀も行なわれました。

その後兵乱により衰微するも、江戸初期の1645年(正保3年)、高槻城主・永井直清が如周恵公(にょしゅうけいこう)を住持に迎えて現在地に再興し、幕末までは高槻藩の庇護の下で大いに栄えたといいます。
そして1885年(明治18年)には塔頭・寿命院と合併再興されました。

本堂は再興時の建物で、本尊の阿弥陀如来立像のほか、寺宝として快慶作と伝えられる「宝冠阿弥陀如来坐禅像」や「逆手の阿弥陀如来立像」などが安置され、また土佐光起・光成親子などの土佐派と、橋本関雪の襖絵があることでも知られています。

そして本尊以外にも「毘沙門堂」の毘沙門天が除災招福の仏として広く信仰されており、1月成人の日に行われる「泉山七福神めぐり」の第6番・毘沙門天として多くの参拝者が訪れます。

この他にも境内からの京都の市街地の眺めが見事なことで知られ、京都の市街地中心部から西山、北山方面をよく見渡すことができます。

また泉涌寺(御寺)の長老を家元とする煎茶道「東仙流(とうせんりゅう)」において、悲田院は総司所として煎茶道の普及にも努めています。

泉涌寺 悲田院の口コミ

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