京都市東山区泉涌寺山内町、月輪中学の西側、高台の端に位置する真言宗泉涌寺派大本山・泉涌寺(御寺)の山内塔頭寺院で、本尊は阿弥陀如来。
「悲田院」とは仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人や貧しい人、親のない孤児などを収容するために作られた福祉施設のことで、聖徳太子が隋に倣って大阪の四天王寺に四箇院(他に敬田院・施薬院・療病院)の一つとして建てたのが日本での最初と伝えられています。
そして記録上の最古とされるのが、仏教の教えが広まった奈良時代の723年(養老7年)に皇太子妃時代の光明皇后によって奈良・興福寺内に施薬院と共に設けられたもので、更に730年(天平2年)には光明皇后の皇后官職に施薬院、平城京の左京・右京に悲田院が設置されています。
平安時代にも平安京の東西2か所に開設されており、同院は平安京の悲田院の後身と伝えられていますが、その関係性には不明な点が多く詳しいことは分かっていません。
寺伝によると、泉涌寺塔頭の「悲田院」は鎌倉時代の1308年(延慶元年)に無人如導(むにんにょどう)により一条安居院(京都市上京区)に平安京の悲田院の名が引き継いで再興され、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺院としたのがはじまり。
そして室町時代の後花園天皇(在位1428-64)がこの寺を勅願寺とされたため、これより代々の住職は天皇の綸旨を賜り、紫衣参内が許されたといいます。また天皇の崩御の際には当院で葬儀も行なわれました。
その後兵乱により衰微するも、江戸初期の1645年(正保3年)、高槻城主・永井直清が如周恵公(にょしゅうけいこう)を住持に迎えて現在地に再興し、幕末までは高槻藩の庇護の下で大いに栄えたといいます。
そして1885年(明治18年)には塔頭・寿命院と合併再興されました。
本堂は再興時の建物で、本尊の阿弥陀如来立像のほか、寺宝として快慶作と伝えられる「宝冠阿弥陀如来坐禅像」や「逆手の阿弥陀如来立像」などが安置され、また土佐光起・光成親子などの土佐派と、橋本関雪の襖絵があることでも知られています。
そして本尊以外にも「毘沙門堂」の毘沙門天が除災招福の仏として広く信仰されており、1月成人の日に行われる「泉山七福神めぐり」の第6番・毘沙門天として多くの参拝者が訪れます。
この他にも境内からの京都の市街地の眺めが見事なことで知られ、京都の市街地中心部から西山、北山方面をよく見渡すことができます。
また泉涌寺(御寺)の長老を家元とする煎茶道「東仙流(とうせんりゅう)」において、悲田院は総司所として煎茶道の普及にも努めています。