京都市左京区南禅寺福地町にある禅宗寺院で、臨済宗南禅寺派大本山。
日本最初の勅願禅寺で、「京都五山」および「鎌倉五山」の上に置かれる「別格」扱いの寺院として、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を有しています。
元々は鎌倉中期の1264年(文永元年)に後嵯峨天皇が東山の地に離宮「禅林寺殿(ぜんりんじどの)」として造営。
蒙古襲来の国難が去ってほどなくの1291年(正応4年)に亀山法皇が無関普門(大明国師)を開山に迎えて禅寺に改めたのがはじまりです。
その後第2世・規庵祖円の時に寺の基礎が築かれ、以降も夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩といった名だたる名僧が代々住持を務めています。
そして室町時代には「五山の上」として禅宗寺院の中で最も高い位につき、五山文学の中心地として隆盛を極めました。
しかし創建当時の伽藍は応仁の乱の兵火などで焼失。室町中期以後は一時期衰えますが、江戸初期に江戸幕府を開いた徳川家康の側近として活躍した以心崇伝(いしんすうでん)らの努力で再興されました。
そのため現在の伽藍は桃山期以降の再建のものがほとんどとなっています。
勅使門から法堂まで一直線に伽藍が立ち並び、中でも歌舞伎の演目「山門五三桐」の中で「絶景かな、絶景かな」と石川五右衛門に言わしめた「三門」は日本三大門の一つにも数えられ重文指定。
現在も楼上から京都市街を一望することができる絶景スポットとなっています。
境内の東奥にある「方丈」は大方丈と小方丈に分かれていて、大方丈は御所の殿舎、小方丈は伏見城の殿舎を移築したと伝えられ、合わせて国宝に指定。
そして大方丈にある「方丈庭園」は小堀遠州作と伝わり「虎の子渡し」と呼ばれ、江戸初期の代表的な枯山水庭園で国の名勝に指定。
また小方丈の襖絵「水呑の虎」は狩野探幽の筆によるもので名作として知られています。
この他にも勅使門や三門、内部の襖絵の多くが重要文化財に指定されているほか、境内全体が国の史跡に指定されています。
また境内を通過する赤煉瓦のローマ式アーチの「水路閣」は、琵琶湖疏水の歴史を知る上で貴重な建造物として京都市の史跡に指定されているのみならず、レトロな雰囲気が評判を集め、サスペンスドラマの撮影などでもよく使用される人気スポットの一つとなっています。
他にも桜や紅葉の名所として有名なほか、「湯豆腐」は南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされていて、参道には多くの湯豆腐店が立ち並んでいます。
また予約をすれば座禅などの体験も出来るほか、宿坊・南禅会館では参拝者向けに宿泊も受け付けています。
南禅寺創建前
元々この地には1264年(文永元年)に第88代・後嵯峨天皇が造営した離宮「禅林寺殿(ぜんりんじどの)」がありました。
「禅林寺殿」の名は南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来しているもの。
そしてこの離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、このうち上の御所に建設された持仏堂を「南禅院」と称し、現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身であることから南禅寺発祥の地とされています。
亀山法皇による創建
第90代・亀山天皇(かめやまてんのう 1249-1305)は後嵯峨上皇の子で、在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になってからも蒙古来襲という国難に遭遇。
そして国難にあたっては父・後嵯峨天皇が帰依されていた東福寺の開山で無関普門の師にあたる円爾弁円(えんにべんえん)(聖一国師)に受戒・問法し、危機に対処したといいます。
国難の去った1289年(正応2年)、40歳の時に亀山上皇は禅林寺殿で出家し法皇となります。
そしてその2年後の1291年(正応4年)、東福寺3世で当時80歳の無関普門(むかんふもん 1212~91)を開山として禅林寺殿を寺に改め「龍安山禅林禅寺」と命名。これが南禅寺のはじまりです。
伝承にると、禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没し亀山法皇や付き人たちを悩ませる事件が発生。
この事態に無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したため、法皇は深く帰依するようになったといいます。
開山に迎えられた無関普門でしたが、開山から間もないその年の12月に没してしまったため、実質的な南禅寺の伽藍の整備は翌年に選任された第2世・規庵祖円(きあんそえん 1261-1313)(南院国師)が指揮。
1299年(永仁7年)には寺観が整えられました(このため規庵は創建開山と呼ばれる)。
また当初の「龍安山禅林禅寺」から「太平興国南禅禅寺」という寺号に改められたのは正安年間(1299-1302年)の頃だといわれています。
伽藍のほぼ完成した1305年(嘉元3年)9月15日、天皇として最初に禅僧となった亀山法皇は嵯峨の亀山殿で57歳で崩御(御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内)
この点、亀山法皇の発願文「禅林禅寺起願事」には「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められていたことから、これ以後も第3世・一山一寧(いっさんいちねい)、第5世・約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世・夢窓疎石(むそうそせき)、第15世・虎関師錬(こかんしれん)、第39世・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世・義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が法系・派を超えて代々住持に任ぜられています。
五山文学の中心地として隆盛と応仁の乱による衰退
1334年年(建武元年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一位に列し、更に1385年(至徳3年)、第3代・足利義満のときに(自らの建立した相国寺を五山の第一とするため)別格上位の「五山之上(しじょう)」となるなど、室町時代は禅宗寺院最高の寺格を誇り、五山文学の中心地として隆盛を極めます。
しかし1393年(明徳4年)および1447年(文安4年)の火災で主要伽藍を焼失(ほどなく再建)。
更に1467年(応仁元年)の「応仁の乱」における戦火で伽藍をことごとく焼失し、寺勢は一時期衰えることとなります。
江戸初期に金地院崇伝(以心崇伝)による再興
南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代に入った1605年(慶長10年)、江戸幕府を開いた徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝(いしんすうでん 1569-1633)が入寺してからのことです。
崇伝は幕府の信任を受けて寺社関係の政策を司り、1615年(元和1)には寺社奉行の前身である僧録司(そうろくし)にも就任しています。