京都府京都市左京区南禅寺福地町にある禅宗寺院で、臨済宗南禅寺派大本山・南禅寺の塔頭寺院の一つ。
応永年間(1394-1428)の1400年頃に室町幕府第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち 1386-1428)が南禅寺68世・大業徳基(だいごうとくき)を開山として北山鷹峯に創建したのがはじまり。
その後、江戸初期の1605年(慶長10年)に以心崇伝(いしんすうでん 1569-1633)が現在地に移築し、南禅寺塔頭として復興再建し、1627年(寛永4年)には大規模な改築に着手し、方丈や東照宮、枯山水庭園などを整備し、1630年(寛永7年)頃に完成し現在の寺観が整ったといわれています。
以心崇伝は臨済宗の僧で、幼児から南禅寺の玄圃霊三に預けられ、1605年(慶長10年)に靖叔徳林の法を嗣ぎ37歳の若さで南禅寺270世住持となり、徳川家康(とくがわいえやす)の信任を得て政治外交の顧問・相談役を務め、南光坊天海と共に家康・秀忠・家光の三代にわたって幕議に参画し江戸幕府の基礎作りに貢献しました。
また1619年(元和5年)には天下僧録司(そうろくし)に任ぜられて宗教界の人事を掌握するとともに宗教界全体の取り締まりにあたり、寺院法度や禁中並公家諸法度などを起草。これに反し後水尾店王がこれまでの慣例どおりに大徳寺・妙心寺などの僧に紫衣着用の勅許与えていたものを江戸幕府が無効とし朝幕間の対立を生むきっかけとなった「紫衣事件(しえじけん)」ではこれに抗議した沢庵(たくあん)らの厳罰を主張し流罪にさせ「黒衣の宰相(こくえ)」、また10万石の格式を持ち「寺大名」などとも呼ばれて畏怖尊敬される存在でした。
そして金地院のほか南禅寺の伽藍整備にも尽力し、1633年(寛永10年)に65歳で没し、その遺骨は開山堂に納められています。
境内の見どころとしては、まず「方丈(本堂)」は1611年(慶長16年)に伏見城の遺構を3代将軍・徳川家光より賜わり移築したもので、客室にある狩野派(狩野探幽・尚信)による襖絵は重要文化財に指定されています。
そして方丈の前庭は「鶴亀の庭」と呼ばれ、茶人であり庭園家でもあった小堀遠州の作で1632年(寛永9年)に完成し、江戸初期の代表的な枯山水庭園として国の特別名勝に指定されています。
前面は白砂で宝船と海洋を表し、左に亀島、右に鶴島を配し、中央の大きな平面石が東照宮の遥拝石、そして石の奥には蓬莱山に見立てた三尊石が置かれ、深山幽谷を表現しているといいます。
この点、遠州作とされる日本庭園は全国各地に沢山ありますが、本当に遠州作と断言できる庭は少なくその数少ないうちの一つといいます。
ただし作庭当初の遠州は江戸城の西の丸庭園や仙洞御所の普請で多忙を極めていたため、遠州の指示の下で弟子の村瀬佐介や、石組みの名人・賢庭(けんてい)を中心に作庭されたと、以心崇伝の日記「本光国師日記」には記されているといいます。
この他にも「茶室八窓席」はこちらも小堀遠州の作で「京都三名席」のひとつといわれ国の重要文化財に指定。
長谷川等伯の筆による襖絵で一匹の手長猿が片手で枝を掴み、もう片方の手で水面に映った月を取ろうとしている様子を描いた「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」や「老松図」があることで有名です。
また「東照宮」は1628(寛永5年)に家康報恩のために勧請し創建されたもので、京都唯一の権現造りの遺構でこちらも国の重要文化財に指定。
家康の遺言によって建てられた東照宮は久能山、日光、そして京都の金地院の3か所だけだといい、家康の遺髪と念持仏を祀り、拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆、三十六歌仙の額は土佐光起の筆といいます。