京都の三門

三門とは?

「三門(さんもん)」とは、特に本山クラスの禅宗寺院の伽藍によく見られる門の形式の一つで、その場合は通常は本堂(仏殿)の前にある正門を指します。また仏殿・法堂・僧堂・庫裏・東司・浴室とともに禅宗の七堂伽藍の中の一つでもあります。

禅宗では本堂を仏道修行における悟りの境地であるいわゆる「涅槃(ねはん)」と位置付け、三門はその涅槃(悟り)に至る際に通過しなければならない「空(くう)」「無相(むそう)」「無作(むさく)」の三つの境地(関門)を象徴した、いわゆる「三解脱門」と解釈されています。そしてこの三つの解脱の道にいつでも自由に入っていけるように扉を設けない場合も多いのだとか。

一般的には2階建ての巨大な楼門で、2階(楼上)部分には釈迦像に脇侍、十六羅漢像などを安置したり天井や柱や壁には龍や天女などの鮮やかな絵が描かれている場合が多く、また楼上からの眺めが見事なことから、期間を区切って特別拝観している寺院も数多くあります。

ちなみに「山門」とも呼ばれる場合がありますが、これは寺院が山にある場合が多く山号を持っていることにちなんだもので、寺院の正門の一般的な呼び方です。

京都の三門スポット

スポット名 エリア ポイント
知恩院 知恩院 祇園・東山 1621年(元和7年)に徳川2代将軍・徳川秀忠の命により建立されたもので、国宝に指定
高さ24m、横幅50mは国内に現存する木造建築としては最大級、正面に掲げられる「華頂山」の扁額は畳2畳以上の大きさがあるという
楼上内部は仏堂で、中央の宝冠釈迦牟尼仏像と脇壇の十六羅漢像はいずれも重文、天井や柱、壁などに迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍などが極彩色で描かれている
その他に知恩院の七不思議の一つである三門造営の命を受けた造営奉行・五味金右衛門(ごみきんえもん)夫妻の木像を安置する「白木の棺」がある
楼上内部は通常は非公開だが特別公開される場合があり、京都市内や伽藍を見下ろす楼上からの眺望も素晴らしい
建仁寺 建仁寺 祇園・東山 1923年(大正12年)に静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から移建したもので、江戸末期の建築
室町中期の瑞巌龍惺の「春眺」の詩の中に「望闕楼高くして帝城に対す」という句があり、「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼(ぼうけつろう)」の別名を持つ
楼上には釈迦如来を中央に迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られているという
南禅寺 南禅寺 岡崎・吉田・鹿ケ谷 1295年(永仁3年)に西園寺実兼の寄進により建造され、応安年間(1368-75)に新三門へと改築された後、1447年(文安4年)の火災で焼失
現在の三門は江戸初期の1628年(寛永5年)に戦国武将の藤堂高虎が有名な大阪夏の陣(1614-15)で倒れた家来の菩提を弔うために再建したもので、国の重文にも指定
高さ約22mの巨大な二重門で両側には山廊があり入母屋造、本瓦葺、別名「天下竜門」とも呼ばれ「日本三大門」の一つに数えられるほか、「絶景かな」のセリフで有名な歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で知られている
五鳳楼と呼ばれる上層の楼の内部には宝冠釈迦座像を本尊に脇に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌も安置、そして天井には狩野探幽、土佐徳悦の筆とされる極彩色の鳳凰・天人の図が描かれている
年末を除き一般拝観が可能
妙心寺 妙心寺 衣笠・御室・花園・太秦 現在の三門は鉄山宗鈍(てつさんそうどん)が徳川家康の支援を得て1599年(慶長4年)に建造したもので、東福寺と大徳寺のものに次いで古く重文にも指定
五間三戸の二重門で入母屋造、左右に山廊が付けられ、楼上には観世音菩薩と十六羅漢を祀り、柱や梁には飛天や鳳凰、龍の図が鮮やかな極彩色で描かれている
楼上内部の一般公開はないが、知らず知らずの間に犯した自らの過ちを懺悔する6/18の山門懺法会の際には公開され三門に上がることができる
また7/15の山門施餓鬼会では有縁無縁の諸霊に対する供養が営まれる
東福寺 東福寺 東福寺・稲荷 1319年(元応元年)の大火により焼失後、1425年(応永32年)に室町第4代将軍・足利義持が再建したもので、現存する禅寺の三門としては日本最古で国宝にも指定
幅25.5m、高さ22m、大仏様(天竺様)に禅宗様(唐様)と和様を組み合わせた独特の建造方式で、五間三戸、屋根は重層入母屋造、左右に山廊を有し「?雲閣」の扁額は義持の直筆
屋根の四隅の角柱は天正大地震の大修理の際に豊臣秀吉により補強された柱であることから「太閤柱」と通称されている
楼上は仏堂で宝冠釈迦如来を中心に、月蓋長者、善財童子、十六羅漢を安置し、天井や柱には東福寺の画僧・明兆とその弟子による飛龍や人頭鳥身の迦陵頻伽(かりょうびんが)が極彩色で描かれている
また年に3回、僧侶らが三門を上がり羅漢供(らかんく)という法要が営まれるという
楼上内部は通常非公開だが、3月の涅槃会や京の夏の旅などで特別公開されることがある
大徳寺 大徳寺 紫野・鷹ヶ峯 応仁の乱の後1526年(大永6年)に一休禅師の参徒で連歌師の宗長らが初層を寄進した後、1589年(天正17年)に千利休の寄進により上層部が完成し「金毛閣」と名付けられる
東福寺に次いで2番目に古い三門で重文にも指定
1591年(天正19年)、楼上に諸仏とともに千利休の木像が置かれたことで、門を通る者が利休の足下をくぐることになると豊臣秀吉の怒りを買い、利休が切腹に追い込まれた事件は余りに有名
楼上内部は常時非公開

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