京都市左京区南禅寺福地町、臨済宗南禅寺派の大本山・南禅寺の境内の南側、琵琶湖から京都市に引かれた琵琶湖疏水事業の一環で建造された赤レンガのアーチがレトロな雰囲気を醸し出し観光客などに人気の水路閣の奥に続く高台の上に位置する南禅寺の別院。
元々この地には鎌倉時代の1264年(文永元年)に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう 1220-72)が造営した離宮「禅林寺殿(ぜんりんじどの)」がありました。
その後嵯峨帝の子である第90代・亀山天皇(かめやまてんのう 1249-1305)が即位した頃は東アジアの情勢が緊迫していた時代で、1274年(文永11年)に譲位し上皇になってからも蒙古来襲という国難に遭遇。その対応にあたっては父・後嵯峨帝が帰依されていた東福寺の開山で無関普門(大明国師)の師にあたる円爾弁円(えんにべんえん)(聖一国師)に受戒・問法し、危機に対処したといいます。
そして国難の去った1289年(正応2年)、40歳の時に亀山上皇は禅林寺殿で出家し法皇となり、その2年後の1291年(正応4年)、東福寺3世で当時80歳の無関普門(むかんふもん 1212~91)(大明国師)を開山として禅林寺殿を寺に改め「龍安山禅林禅寺」と命名したのが「南禅寺」のはじまりとされています。
この点、後嵯峨帝のが造営した「禅林寺殿」は「上の御所」と「下の御所」に分かれていましたが、このうち上の御所に1287年(弘安10年)に建設された亀山上皇の持仏堂を「南禅院」と称し、南禅寺の別院として現存する南禅院はその後身であることから「南禅寺発祥の地」とされています。
その後、1393年(明徳4年)以降は度々の火災に遭い、「応仁の乱」以降は荒廃していたといいますが、江戸中期の1703年(元禄16年)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によって再建。
このうち「方丈」は総檜の入母屋造こけら葺きの建物で、内陣中央に国の重要文化財である木造亀山法皇坐像を安置し、襖絵は狩野派の狩野養朴とその子如川隋川の筆により描かれた水墨画です。
またその他にも境内には茶室「龍淵窟(りゅうえんくつ)」のほか、境内の東南隅には亀山法皇の遺言により分骨を埋葬した「分骨所(御廟)」も建てられています。
そして方丈南側の「庭園」は、鎌倉期に亀山法皇によって作庭され、室町時代に入り夢窓疎石の手で完成された京都で唯一の鎌倉時代の庭園で、再三火災に遭っているものの、作庭当時の面影を残し、鎌倉末期の庭園の趣が歴然としていることなどから、1923年(大正12年)に「国の史跡および名勝」に指定されており、天龍寺庭園、苔寺庭園とともに京都の「三名勝史蹟庭園」の一つに数えられる名園です。
東山三十六峰のひとつ南禅寺山を借景とした池泉回遊式の庭園で、向かって左奥に滝口の石組みが組まれ、2つの池があり、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央の中島は岩盤の露頭をそのまま利用した蓬莱島、下池は心字池と呼ばれ中央に心字島が設けられ、周囲を木々に囲まれた幽玄閑寂の趣は格別で、とりわけ秋には周囲の紅葉が池に映える美しい景色が広がります。