京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。
本尊は阿弥陀如来。
平安初期の853年(仁寿3年)(855年(斉衡2年)とも)、弘法大師空海の高弟・真紹(しんじょう、しんしょう)が歌人・藤原関雄の山荘を譲り受けて尊像を安置して寺に改め、真言宗の道場としたのがはじまり。
その後863年(貞観5年)には清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜っています。
平安後期の承暦年間(1077-81)(1072年(延久4年)とも)に第7世・永観(ようかん)が入寺して以来、徐々に浄土念仏道場へと変わっていきました。
永観は浄土宗念仏道場として寺を再興したほか、寺内に薬王院を設け病人救済などの慈善事業も行なったといいます。
ちなみに寺の正式名称は「禅林寺(ぜんりんじ)」ですが、「永観堂」の呼び名で広く親しまれており、この通称名は永観にちなんだものです。
鎌倉初期に住持となった静遍(じょうへん)は真言宗の僧でしたが、法然に帰依し、法然の弟子・証空を次の住持として招きました。
その後、証空の弟子浄音が住持の時に、真言宗から浄土宗西山派の寺院となりました。
また京都に3箇所あった学問研究所「勧学院」の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んであったといいます。
本尊の阿弥陀如来像(重文)は平安末期、12世紀後半の作で、別名は「みかえり阿弥陀」。
正面を向いておらず、顔を斜め後ろに向け、左後方を振り返った珍しい姿をしていることで有名。
これは1082年(永保2年)の冬、折りしも釈迦涅槃の日の2月15日のこと、本堂の阿弥陀如来を安置する須弥壇の周りで禅林寺中興の祖・永観が一心不乱に念仏行道をしていたところ、ふと気が付くと如来が壇から降りてきて、先に立って行道されている。
驚いた永観が有り難さに感涙して立ち止まると、振り向いた如来が一言、「永観遅し」と言葉を発したという。
この出来事に感動した永観が咄嗟に「その姿を留めおかれよ」と祈ると、願いを聞き入れた如来は見返った姿のままになったという故事に基づいているといわれています。
そして永観堂といえば、何といっても紅葉で有名。
千年以上の昔より「秋はもみじの永観堂」とうたわれた紅葉の名所で、京都でも屈指の人気を誇ります。
見頃の時期に合わせて夜間の特別拝観も行われ、ライトアップされた庭園の美しい紅葉を見物に多くの参拝客が訪れます。
また2つの国宝および数多くの重要文化財を所蔵していることでも有名で、紅葉の時期にあわせ毎月11月には寺宝展が開かれます。
国宝の「金銅蓮華文磬(こんどう れんげもん けい)」および鎌倉時代の仏画「絹本著色山越阿弥陀図」は、ともに東京国立博物館に寄託されています。