「日蓮宗」と日蓮上人
「日蓮宗」とは
鎌倉中期天台宗教学を学んだ日蓮(立正大師)が開創した仏教の宗派の一つ。
総本山は身延山久遠寺。
当初は法華宗と呼ばれていたが、天台法華宗(天台宗)との区別から日蓮宗と呼ばれるように。
初期の仏教経典の一つである法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして拠り所とし、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることによる成仏と(釈迦一仏と唱題第一)、現世においては法華経による平和な国づくり(仏国土の建設)を目指した。
ちなみに「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」を意味する。
本尊は法華経の世界を漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である「十界曼陀羅(法華曼荼羅)」。
「日蓮上人」とは
「日蓮(1222-1282)」は、1222年(貞応元年)2月16日、安房の国(現在の千葉県)小湊の漁師の家に生まれる。幼名は善日麿。/p>
12歳の時に天台僧侶の道善房に師事し16歳で出家得度、その後鎌倉で念仏や禅宗等を修学した後、1242年(仁治3年)、21歳の時に当時の最高学府である比叡山、次いで奈良の六宗、七大寺や和歌山の高野山、大阪の四天王寺、京都の寺院を遊学し仏教諸宗について学んだ。
そして1253年(建長5年)4月28日、32歳の時に釈迦の教えは法華経にあると確信し開宗を宣言、名も「日蓮」と改める。
開宗後は鎌倉で布教、1260年(文応元年)には鎌倉幕府の最高権力者であった得宗・北条時頼に対し正しい仏法(法華経)による世情の安泰を説いた「立正安国論」を提出している。
その後「立正安国論」に反発した幕府や浄土宗宗徒により数々の迫害を受けることとなり、松葉ヶ谷での襲撃、伊豆への流罪、小松原での襲撃、佐渡への流罪を経て、1274年文永11年(文永11年)に赦免され身延へ入山。
日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6人を本弟子(六老僧)と定めて後事を託すと、1282年(弘安5年)10月13日に61歳で入滅した。
没後に廟所とされた山梨県の身延山久遠寺が総本山であるが、6人の弟子それぞれが各派を作って発展。 現在は日蓮宗・日蓮正宗のほか、法華宗(本門流・陣門流・真門流)・顕本法華宗・日蓮宗不受不施派・本門仏立宗などの分派が存在する。
京都における日蓮宗)(日像上人による京都布教と「天文法華の乱」)
日蓮入滅の前後にはまだ東国の一地方に弟子・信者を抱えるに過ぎない規模であったが、その教えを全国に広めるためにまず重要視されたのが都である京都への布教であった。
これに功績があったのが「日像(1269-1342)」で、下総国平賀(現在の千葉県)に生まれ六老僧の一人である日朗の弟子となり晩年の日蓮にも師事、日蓮より臨終の間際にの帝都弘通(京都の布教)と宗義天奏(天皇への布教)を遺命され1294年(永仁2年)、25歳の時に京都へ向かう。
しかし最初は比叡山や他宗の反発も強く、「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」と呼ばれる三度の京都追放を味わうなどの苦難の道を進むが、1321年(元亨元年)に京都で最初の日蓮宗寺院である妙顕寺を創建。
1334年(建武元年)には後醍醐天皇により勅願寺とされ、次いで足利将軍家の祈祷所にもなり、京都における布教の基盤を作った。
室町時代には商工業の発達により経済発展を遂げた町衆が檀信徒となって大いに繁栄し、京都二十一箇本山(洛中法華二十一本山)と呼ばれるほどの隆盛を誇ったが、1536年(天文5年)に比叡山との対立から発生したいわゆる「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)(天文法難)」により全ての法華宗寺院が焼かれ宗徒は洛外に追放。
京都において日蓮宗は一時禁教となるが、1542年(天文11年)に勅許が下りて京都帰還が許され、後に十五本山が再建されている。