京都市上京区寺之内通新町西入妙顯寺前町にある日蓮宗大本山。
日像が開いた京都における日蓮宗の最初の寺院であり、「四海唱導の寺」と通称されています。
また龍華院とも呼ばれ、山号は貝足山(ぐそくざん)と号し、同じく貝足山と号する妙覚寺、立本寺とともに「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と称されています。
鎌倉後期の1321年(元亨元年)、日蓮宗の開祖・日蓮の孫弟子にあたる日像(にちぞう)が、日蓮の「帝都弘通」の遺命を受け、京都最初の日蓮宗寺院として創建。
追放や迫害といった数々の法難を乗り越えて粘り強い布教を続けた結果、1334年(建武元年)には後醍醐天皇(ごだいごてんのう)より綸旨(りんじ)を受け、今小路(いまこうじ)、現在の京都市上京区大宮上長者町付近に寺地を賜り、法華宗号を勅許されるとともに日蓮宗最初の勅願寺となりました。門に連なる土塀の五本線はその格を表わしています。
法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位を認められ、「四海唱導」とも称され大いに栄え、1336年(延元元年/建武3年)には足利将軍家の祈祷所、1337年には光厳上皇の祈願所に指定。
1341年(興国2年/暦応4年)、光厳上皇の院宣により四条櫛笥、現在の四条大宮の西南付近に1町の寺地を賜って移転してからは「四条門流」と呼ばれるようになります。
「建武の新政」から南北朝の動乱に至る政局の激動期において公武の間で巧みに対処し、公武政権と密接なつながりを持つことで寺基を安定させていく一方、しばしば叡山より迫害を受けて移転と再建を繰り返しており、
1387年(嘉慶元年)、比叡山衆徒により伽藍が破却され若狭小浜に避難
1393年(明徳4年)、室町第8代将軍・足利義満の斡旋により、三条坊門堀川、現在の中京区堀川御池付近に伽藍を再建し、寺号を「妙本寺」と改めた。
1411年(応永18年)、足利義持の祈願寺に
1413年(応永20年)、比叡山衆徒により再び破却
1521年(永正18年)、足利義稙の命により二条西洞院に再建し、これと前後して永正・大永年間(1504-28)に寺号を「妙顕寺」に戻している
1536年(天文5年)、有名な「天文法華の乱」にて延暦寺衆徒の襲撃を受けて伽藍を焼失し、他の法華宗寺院とともに堺に避難
1542年(天文11年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨を受けて京へと戻り、1548年(天文17年)に二条西洞院にて再建
その後、「本能寺の変」の後の1583年(天正11年)、羽柴秀吉の命により小川寺之内に移転し現在に至っています。
現在の建物の大半は、江戸時代の1788年(天明8年)の「天明の大火」により伽藍の大半を焼失した後、1834年(天保5年)に再建されたもので、その後も明治の「廃仏毀」釈や戦後の混乱期を乗り越え、現在に法灯を受け継いでいます。
広大な境内には、客殿前の「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、書院前庭の「光琳曲水の庭」、「孟宗竹の坪庭」と、趣の異なる3つの庭があるほか、尾形光琳(こうりん)・乾山(けんざん)兄弟の墓があることでも知られており、また観光寺院ではないものの桜の名所としても知られていて、春には本堂裏手の庫裡・方丈の付近をはじめ境内の各所で染井吉野や枝垂桜が咲き乱れます。