京都市上京区智恵光院五辻上る、西陣の中ほどに位置し西陣らしい雰囲気の残る紋屋町にある法華宗真門流(しんもんりゅう)の総本山。
「日蓮宗京都十六本山」の一つで、山号は慧光山。
正式名は「慧光無量山本妙興隆寺(えこうむりょうさん ほんみょうこうりゅうじ)」といい、略して「慧光山本隆寺」。
本尊は十界曼荼羅(じゅっかいまんだら)で、「不焼寺(やけずのてら)」の通称で知られています。
寺伝によれば、創建は室町時代の1488年(長享2年)に中山大納言親通卿の子にあたる日真(にっしん)が四条大宮にて建立。
日真は妙本寺の日具に師事していましたが、法華経の解釈についての論争をきっかけに妙本寺を出て、本隆寺を建立しました。
その後、後柏原天皇からは「大和尚」の称号を下賜されるなどの支援を受けて寺は隆盛しますが、第4代・日映の時の1536年(天文5年)に有名な「天文法華の乱」で諸堂を焼失し、泉州・堺に一時的に避難。
その後、1542年(天文11年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下すと、京都市内に戻り杉若若狭守邸跡の現在地に再建されました。
また江戸時代に入り10世・日遵の代の1653年(承応2年)には京都御所が炎上した「承応の大火」で類焼し諸堂を失いますが、1657年(明暦3年)には名匠・坂上作左衛門によって本堂が再建されています。
以後1730年(享保15年)と1788年(天明8年)の二度の大火では西陣一帯が焼野原となりましたが、本堂に祀られている火伏せの鬼子母神の霊験もあってか本堂は焼失を免れることができ、このことからそれ以降「不焼寺(やけずのてら)」の通称で呼ばれるようになったといいます。
そしてこの焼けずの伝説は今日にまで語り継がれており、本堂南東角には「不焼寺止跡」の石碑が建てられているほか、鬼子母尊神は現在も人々の信仰を集めています。
焼失を免れた本堂は、京都の日蓮諸宗16本山の中では最古のものといわれ、この本堂を中心として、西にはこちらも京都府内最古とされる祖師堂が並ぶようにして建てられています。
そしてこの本堂と祖師堂が並立する配置は日蓮諸宗寺院においては代表的配置の一つであり、江戸前期から中期にかけての日蓮諸宗寺院の一様相を示すものとして価値が高く、1986年(昭和61年)にはともに京都府文化財に指定されています。
3300坪の広い境内には、本堂と祖師堂の他に番神堂・鐘楼・経蔵・宝物殿・方丈・信徒会館、客殿、三光殿、宝蔵、南門などの伽藍が立ち並び、また境内を取り巻くように8つの塔頭寺院(是好院、玉樹院、本城院、正寿院、玉峰院、本法院、宣妙院、慶成院)が門を構えています。
その他にも境内には、西陣五井の一つである「千代乃井」、および葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きが止むというと伝わる「夜泣止松」があることでも有名です。
また春は桜、夏は百日紅(サルスベリ)、秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季折々の景色が楽しめることでも知られ、とりわけ春の桜は有名で、染井吉野(ソメイヨシノ)と紅枝垂桜が境内を美しく彩ります。