京都市左京区岩倉幡枝町、宝ヶ池の北西、東に比叡山を望む洛北岩倉の地にある顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)の総本山。
かつて「日蓮宗洛中二十一ヶ寺本山」の一つであった寺院で、現在も「日蓮宗京都十六本山」の一つに数えられています。
室町時代の1383年(永徳3年/弘和3年)、日什(にちじゅう)が富商・天王寺屋通妙の外護を得て、六条坊門室町(現在の烏丸五条付近)の邸内に法華堂を建立したのがはじまり。
この点、日什は元々は天台宗の僧で、名を玄妙と称し、比叡山三千の学頭にまでなった人物。
故郷の会津で日蓮宗の宗祖・日蓮の教えに触れ、67才という高齢にもかかわらず日蓮門下に入って日什と名乗り、日蓮大聖人の遺志である「帝都弘通」を想って68歳の時に上洛。
そして関白・藤原良基(よしもと)らの好意もあり、後円融天皇へ上奏し「二位僧都」の位と洛中弘法(らくちゅうぐほう)の綸旨を賜り、1389年(康応元年/元中6年)に伽藍を整備して「妙満寺」と号し根本道場としたのでした。
その後は度々の兵火や火災に遭い、洛中にて再建と移転を繰り返しています。
1395年(応永2年)の火災により伽藍を焼失の後、綾小路東洞院(現京都市下京区)に移転し再建
1467年(応仁元年)の「応仁の乱」によりい焼失し、四条堀川(現京都市下京区)に移転
1532年(天文元年)には後奈良天皇の勅願所となるも、1536年(天文5年)には有名な「天文法華の乱」における比叡山の僧徒による焼き討ちで伽藍を焼失し泉州・堺に一時避難
1542年(天文11年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により京都に戻り、四条堀川の旧地に再建
1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により、寺町二条(現京都市上京区榎木町、京都市役所の北側)に移転
また江戸時代には、1628年(寛永5年)の火災、1708年(宝永5年)の「宝永の大火」、1788年(天明8年)の「天明の大火」、更に1864年(元治元年)の「禁門の変」によって伽藍を焼失しており、その都度再建されています。
更に1871年(明治4年)、「上知令」により寺領が縮小され、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には、強制疎開により塔頭4院の寺領、建物が失われています。
秀吉の命による移転の後は400年にわたって「寺町二条の妙満寺」として親しまれていましたが、近代に入って都市化が進んだことによる喧騒と環境の悪化を避けるために「昭和の大遷堂」を挙行し、1968年(昭和43年)に寺町二条から岩倉の地に移転し現在に至っています。
静寂に包まれた境内は、本堂のそばから比叡山の荘厳な眺めが満喫可能なほか、境内にそびえ立つ仏舎利を納めた「仏舎利大塔」は1973年(昭和48年)にインドのブッダガヤ大塔を模して建造されたもので、異国情緒が漂う寺のシンボル的存在となっています。
また本坊の比叡山を借景とする「雪の庭」は、松尾芭蕉の師で俳諧の祖として知られる松永貞徳が造園したもので、清水寺・成就院の「月の庭」や北野(祇園とも)・成就院の「花の庭」(廃寺となっており現存しない)とともに、成就院の「雪月花三名園」の一つとして知られています。
更に展示室には宝物のほか、能や歌舞伎で知られる「道成寺」ゆかりの「安珍・清姫の鐘」の二代目を所蔵・展示しているしていることでも有名で、芸道成就を願う多くの芸能関係者が参拝に訪れます。
近年は四季折々の草花が楽しめる花の寺としても親しまれており、とりわけ桜と躑躅(つつじ)の名所として有名です。
4月にはしだれ桜や紅しだれ桜が咲き誇り、大書院の横には桜守として知られる佐野藤右衛門が寄贈した「紅しだれ桜」もあり、桜の開花時期に合わせてライトアップも行われます。
また5月初~中旬には門前および山門周辺の「つつじ園」にて合わせて3000株のつつじを楽しむことができます。