京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町、東山三条の交差点の北西、三条通の一筋北にある日蓮宗寺院で日蓮本宗の大本山。
日蓮宗京都十六本山の一つで、山号は多宝富士山(たほうふじさん)と号し、本尊は十界大曼荼羅。
鎌倉時代、宗祖・日蓮の教えを受け継ぐ日尊(にちぞん 1265-1345)が、前人未踏であった西国弘通を志し1300年(正安2年)秋から全国の布教活動を開始し、その拠点として1308年(延慶元年)に京都に法華堂を建立したのがはじまり。
その後、日尊は1315年(正和4年)(1312年(正和元年)とも、1339年(延元4年/暦応2年)とも)に京都六角油小路(ろっかくあぶらこうじ)に「上行院(じょうぎょういん)」を建立。
その一方で貞和年間(1345~50)、日尊の弟子・日大が冷泉西洞院(現在の堀川二条)に法華堂を建て、後に「住本寺(じゅうほんじ)」と称しています。
室町後期の1536年(天文5年)に起きた比叡山延暦寺の宗徒が宗教問答をきっかけに京都の日蓮宗寺院21か寺を襲撃・破却した有名な「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」の際には両寺も他の日蓮宗寺院同様に京都を追われて堺(現在の大阪府堺市)へと難を逃れますが、1542年(天文11年)に朝廷により日蓮宗の京都への帰還が許されると、1550年(天文19年)に日辰により上行院と住本寺を合併する形で五条坊門(現在の堀川綾小路)に寺院を再興し、現在の寺名である「要法寺」と号し、日蓮宗二十一本山のうちの再建された「法華宗十五本山」の一つとなりました。
その後安土桃山時代の1583年(天正11年)に豊臣秀吉の京都の都市改造計画に伴う寺町形成によって京極二条東(現在の寺町二条)に移転した後、江戸中期の1708年(宝永5年)に「宝永の大火(ほうえいのたいか)」で類焼し東山三条の現在地に再建。この後、1759年(宝暦9年)の「宝暦の大火」でも再び焼失し、現在の建物の多くはこの大火の後に再建されたものです。
明治期に入り1899年(明治32年)に日蓮大聖人の正統を受け継ぐという意味から「本門宗」と公称するようになりますが、1941年(昭和16年)に政府の思想統一により日蓮宗との合同を強制されますが、戦後の1950年(昭和25年)に「日蓮本宗」として独立し現在に至っています。日蓮本宗では宗祖・日蓮(にちれん)、2祖・日興(にっこう)、3祖・日目(にちもく)、そして、要法寺の開基となった日尊を第4代としています。
市街地にありながら1万3500平方メートルもの広い敷地を有し、多くの歴史ある建造物が残されているとともに境内塔頭寺院も8院を数え、また日蓮大聖人御真筆御本尊をはじめ、多くの貴重な古文書や寺宝などを収蔵していて、中でも15世・日性が銅活字によって経典を開板した版本類は「要法寺版」と呼ばれ、日本の印刷史上においても重要なものとして知られています。
また江戸中期の1718年(享保3年)には多くの松が植えられ、その美観から「松の寺」と通称され親しまれたといいますが、現代に入り都市公害のため枯死するものが増えたことから1996年(平成8年)に発足した「本山要法寺緑を守る会」によって清涼池の周囲に松の木やツツジが補植され、景観の維持が図られているといいます。
現在はとりわけ本堂前にある清涼池にカルガモが生息していることで有名で、毎年初夏の6月頃に親子で連れだって川端通を渡り700m離れた鴨川へと引っ越す姿はマスコミにもよく取り上げられ、その愛らしい姿で人気を集めています。