京都市上京区寺町通今出川上る2丁目鶴山町、京阪・叡山の出町柳駅にほど近い、今出川通と寺町通の交差点から寺町通を北へ少し上がった所に位置する日蓮宗本山で、「洛中法華21ヶ寺」、および「日蓮宗京都十六本山」の一つに数えられる寺院です。
室町時代の1410年(応永17年)、関白左大臣・近衛道嗣(このえみちつぐ 1333-87)の嫡子・玉洞院日秀(にっしゅう)が新町今出川に朝廷より敷地3万坪を与えられ、本圀寺から分立する形で、六老僧の一人として知られる日持(にちじ)を崇敬開山として創建。
創建当初は「本願満足寺」の寺名で、寺のあった新町通今出川上る西入の上京区役所の北西部付近は今も「元本願寺町」の町名がその時の名残りを留めています。
1536年(天文5年)に延暦寺の衆徒が京都の法華宗徒を武力で洛外へ追放した「天文法華の乱」で堂宇を焼失し堺に避難。
それから間もない12世・日重の代の1539年(天文8年)に関白・近衛尚道(1472-1544)の外護により現在の地に移り、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう 1497-1557)の勅願所となりました。
江戸中期の1751年(宝暦元年)には35世・日鳳が8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね 1684-1751)の病気平癒を祈り効があったことから、以来将軍家の祈願所にもなりました。
1661年(寛文元年)、1708年(宝永5年)「宝永の大火」、1788年(天明8年)「天明の大火」に遭うもその都度再建され、現在の本堂は1911年(明治44年)にも焼失の後、1927年(昭和2年)に再建されたものです。
築地塀に囲まれた境内に本堂、方丈、鐘楼などの諸堂が整備され、それを囲むようにして4つの塔頭寺院と境内奥に墓地がありますが、このうち妙見宮は京都御所の紫宸殿を中心に京都市内の十二支の方角の寺院に祀られた妙見大菩薩「洛陽十二支妙見めぐり」の丑(北北東)にあたり、霊験あらたかな「出町の妙見様」として開運・厄除を祈願する多くの人々が訪れています。
近年は桜の隠れた名所として徐々に認知度が上がっており、有名な円山公園の枝垂れ桜の姉妹樹だという方丈前の大きな枝垂桜は寺のシンボル的存在であり、またソメイヨシノや八重桜などが見られるほか、牡丹も楽しむことができ、時期によっては八重桜と牡丹を同時に楽しむこともできます。
その他に境内墓地には出雲・尼子氏に仕え忠臣として知られる戦国武将・山中鹿之介(幸盛)の墓、そして本堂脇には徳川家康の二男・秀康の正室・蓮乗院の石廟があることでも知られています。