京都市左京区東大路二条下ル北門前町、交差点角に建つ日蓮上人像が印象的な岡崎の二条通と東山通との交差点に位置する日蓮宗の本山。
京都八本山の一つで「西身延」の通称で知られている寺院です。
室町時代の1477年(文明9年)、円教院日意が薬屋・妙善の帰依を受けて京都一条尻切屋町の地に創建したのがはじまり。
この点、創建にあたっては関西の信者が山梨の身延山まで参詣する不便を思い、師の日朝とはかって身延より宗祖・日蓮の御真骨を分骨奉安。同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置しました。
そして日蓮の御遺骨と御真筆を祀ることから「西身延」と称され、関西以西の日蓮宗信者はこぞって参拝したと伝えられています。
1536年(天文5年)の有名な「天文法華の乱」では比叡山衆徒による焼き討ちで伽藍を焼失し一時堺に避難しますが、1541年(天文10年)に後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受けて京都に戻り、四条西洞院にて再興(第二の妙伝寺)。
更に1591年(天正19年)、妙伝寺第6世・慈眼院日恵の時代に、豊臣秀吉の京都都市改造計画により京極二条(寺町夷川)の地に移転(第三の妙伝寺)。
この時に一条家・四条家の菩提寺となるなど以前にも増して寺勢は興隆したことから、日恵は中興の祖と仰がれています。
更に第8世には有名な心性院日遠が猊座し、第14世・法性院日勇は学徳高く、後水尾天皇の中宮・東福門院より金紋袈裟を賜っているほか、山科に護国寺を開山し、山科檀林を開いたことでも知られる人物です。
その後、江戸中期の1708年(宝永5年)に「宝永の大火」により全山焼失していますが、第29世・住心院日義によって現在の東山二条の地に再興(第四の妙伝寺)。
現在の本堂は第35世・了遠院日勤の代に浄財を勧募して建立されたものです。