京都市山科区御陵大岩、天智天皇陵の琵琶湖疏水を挟んで北側にある日蓮宗の大本山。
山号は大光山で、日蓮宗の総本山で法華経の聖地ともいわれる山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺を「東の祖山」と呼ぶのに対し、「西の祖山」と呼ばれています。
鎌倉時代の1253年(建長5年)8月、日蓮宗の宗祖・日蓮(にちれん 1222-82)が鎌倉松葉ヶ谷に小庵を構え「法華堂」と号したのがはじまりで、その後、伊豆の法難から赦免されて草庵に戻った1263年(弘長3年)5月に宗門史上で最初の寺院「大光山本国土妙寺」として創建されています。
そしてその後も法難や遠流によって出入りはあったものの、22年に渡って自らの住まいとして立正安国論の国諫運動を展開し、布教活動の中心的な役割を果たした場所であったといいます。
日蓮が身延山に入山しその後入滅した後は日朗(にちろう 1245-1320)、日印(にちいん 1264-1329)、日静(にちじょう 1298-1369)の弟子たちによって継承され、政治の中心地である鎌倉にて幕府の強圧とも戦いながら布教活動にあたり、1328年(嘉歴3年)には第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)の勅願所の綸旨を受けてその根本道場とされます。
鎌倉から京都へと移ったのは鎌倉幕府が滅びて室町幕府が成立し、政治の舞台が鎌倉から京都へと移った1345年(貞和元年)3月のことで、北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう 1313-64)の勅諚によって京都六条堀川楊梅の地に寺領を賜って移転し「本国寺」と改めます。
この点、京都では本国寺より先に京都最古の日蓮宗寺院で後醍醐天皇にゆかりのある「妙顕寺」を中心とする「四条門流」が勃興していましたが、本国寺はこれに対抗するようにして室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-58)の要請にて京都に移転され、新たに「六条門流」を形成することとなります。
そして京都移転後に住持を務めた4世・日静が上杉氏2代当主の父・上杉頼重(うえすぎよりしげ)と母・足利氏の女の間に生まれ将軍・足利尊氏の叔父にあたる人物であったことから、皇室の庇護と幕府の外護を受けて大いに隆盛することとなり、寺域は北は六条坊門(現五条通)、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通の東西2町、南北6町にわたる広大なものであったといいます。
また日蓮自ら創建した寺であり、日蓮上人御持仏の「立像釈尊像」、生涯所持していたという真筆広本の「立正安国論」、そして伊豆・龍ノ口・佐渡の各法難を立証する「三赦免状」の「三箇の霊宝」が伝わる日蓮法脈の「正嫡」であるとして、1348年(貞和3年)には北朝2代・光明天皇(こうみょうてんのう 1322-80)から日蓮の正しい教えを伝えていることを証明する「正嫡付法」の綸旨を賜り、更に1428年(文明14年)には第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう 1442-1500)から「法華総本寺」の認証を受けるなど、各天皇より公認の根本道場としてのお墨付きを得て、後に京都の日蓮宗で次々に生まれる「洛中法華二十一寺」の中でも妙顕寺と共にその中心的存在となりました。
1536年(天文5年)に比叡山延暦寺の衆徒が宗教問答を契機に京都の法華一揆と対立し、洛中洛外の日蓮宗21寺を襲撃し洛外へと追放した「天文法華の乱」では他の21か寺同様に焼失して大坂の堺へ一時避難しますが、1542年(天文11年)に勅命により帰洛すると再び六条堀川の地に戻り1547年(天文16年)に再興されます。
1568年(永禄11年)に織田信長が将軍・足利義昭を奉じて入京すると、足利義昭の仮居所「六条御所」となり、1569年(永禄12年)には信長が京都を離れた隙に三好三人衆が寺を襲撃して将軍暗殺を図り失敗に終わった「本圀寺の変」の舞台にもなったほか、江戸時代には朝鮮通信使の宿としても使われていたといいます。
当寺を厚く帰依した人物としては、まず豊臣秀吉子飼いの武将として賤ヶ岳七本槍の1人として活躍し、後に肥後熊本藩の藩主として熊本城を築城したことで知られる戦国武将・加藤清正(かとうきよまさ 1562-1611)がよく知られていて、日蓮宗の熱心な信者だったという清正は当寺の復興にも尽力しており、清正が寄進した赤門は「開運門」とも呼ばれ、貧しい出自から立身出世した清正にあやかってお題目を唱えながら門をくぐると開運勝利をもたらすと伝わるほか、その祈願所・菩堤所として朝鮮出兵の際には両親の遺骨や自身の生前墓を本圀寺に建てており、現在も大本堂の裏の丘の上には清正廟が建てられ、入口の金色の鳥居が強い印象を残しています。
また水戸黄門として有名な徳川光圀(とくがわみつくに 1628-1701)は当寺にて生母の追善供養を行うなど厚く庇護したといい、1685年(貞享2年)に光圀から「圀」の一字を賜り本国寺から「本圀寺」と改称したとも、あるいはそれ以前から「本圀寺」と改称していて、光圀の名は山号の大光山と寺号の本圀から一字ずつ取って名付けられたともいわれています。
寺は1591年(天正19年)に本願寺(西本願寺)の造営のために寺域の南側を割譲した後、江戸後期の1788年(天明8年)の「天明の大火」で本堂・五重塔をはじめほとんどの堂宇が焼失した際はすぐに再建されましたが、1941年(昭和16年)の本寺末寺の解体や、第二次世界大戦の敗戦による農地改革、寺所の散失などの多くの問題を抱えて寺勢が衰えたことから、1971年(昭和46年)、第63世・伊藤日瑞の代に六条堀川の旧地を売却し、京都市山科区の御陵の地へと移転し現在に至っています。
なお移転前の旧寺地は現在の西本願寺境内の北側にあたり、本願寺聞法会館や駐車場、また京都東急ホテルの敷地となっていますが、塔頭寺院は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿いに16院が現存しています。
現在の大本堂は1976年(昭和51年)の再建で、その他の建物も近年の建造のものがほとんどで、天明の大火を免れた輪蔵式の「一切経蔵」は現在の境内へ移築され重要文化財に指定。
その他にも秀吉の姉・村雲日秀尼(むらくもにっしゅうに 1534-1625)によって寄進された大梵鐘のある鐘楼堂の台座に祀られた「くみょうさま」が癌封じの神様として知られているほか、金色の龍が印象的な財運のご利益のある「九頭龍銭洗弁財天」などのパワースポットもあり、また日蓮自らが開山した寺院として前述の「三箇の霊宝」のほか、江戸初期に狩野元俊が描いたと伝わり横幅7.44mで日本一長いと言われている「大涅槃図」などの貴重な寺宝も所蔵しています。
また学校法人明徳学園(めいとくがくえん)として京都経済短期大学および京都明徳高等学校(旧・明徳女学校)と京都成章高等学校の2つの高校を運営し、学校教育にも力を入れています。