京都市上京区寺ノ内通大宮東入ル妙蓮寺前町、堀川今出川のやや北の数多くの寺院が密集している堀川寺之内に位置する本門法華宗の大本山。
「日蓮宗京都二十一本山」の一つ。
山号は卯木山(うぼくさん)で、本尊は十界曼荼羅。
鎌倉後期の1294年(永仁2年)、日蓮の孫弟子にあたる日像(にちぞう)を開基とする寺院です。
日像は日蓮宗の宗祖・日蓮(にちれん)の直弟子にあたり、日蓮より「帝都弘通」の遺命を授かり、鎌倉より京都に出向き日蓮宗の京都布教に尽力したことで知られています。
妙蓮寺は現在の京都市下京区にある五条西洞院の造り酒屋・柳屋仲興の夫人・妙蓮法尼が日像に帰依し、その外護により邸内に小さな堂宇(法華堂)を建立し「卯木山妙法蓮華寺」と称したのがはじまりとされています。
寺は屋号にちなんで「柳寺」とも呼ばれたといい、また山号の「卯木山(うぼくさん)」は、柳の文字を2つに分けたものです。
当初は五条西洞院にありましたが、その後現在の地に落ち着くまで度々移転を繰り返しています。
まず応永年間(1394-1428)に「本勝迹劣、本迹一致」の論争を契機に日隆らと妙顕寺を退出した仏性院・日慶(1397-1479)が、法難に遭って破却され荒廃していた寺院を京都市下京区の四条大宮下るに移して再興。この時に「妙蓮寺」の寺号に改められています。
その後、永享年間(1440頃)に堀川四条に移転し、宝徳元年(1449)に皇室や伏見宮家に縁の深い日応(にちおう)を寺に迎えてからは、皇族をはじめ将軍・足利義尚など要人の参詣が多くなり、公武の保護や町衆信徒の支援を受けて隆盛。
また今出川家の公達である日忠が三井寺より改宗して入寺すると、学室道輪寺を創立して本化教学の道場を開くなど、山門の様式も格式高いものとなります。
しかし1536年(天文5年)の有名な「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」にて、法華宗の隆昌を妬む叡山衆徒らにより日蓮宗京都二十一本山はことごとく焼討ちされ全焼。
堺の法華寺に一時避難を余儀なくされることとなりますが、その後1542年(天文11年)に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下すと、同年には京都市上京区の大宮元誓願寺通にて伽藍を再建。このことから同地付近には現在も「元妙蓮寺町」の町名が残されています。
そして天正年間(1573-92)の1587年(天正15年)に、豊臣秀吉の聚楽第造営を機に移転し、現在地へと落ち着くこととなりました。
移転当時は1km四方の境内に27もの塔頭寺院を有する大寺院だったといいますが、1730年(享保15年)の「西陣焼け」では、本堂や祖師堂などの主要堂宇は焼け残ったものの被害を蒙り、更に1788年(天明8年)の「天明の大火」では伽藍の大部分を焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなります。
そして1789年(寛政元年)より徐々に堂宇を復興・再建し現在に至っており、塔頭の数は恵光院、玉龍院、本光院、円常院、堅樹院、慈詮院、本妙院、常住院の8院となっています。
見どころの一つが庭園で、桂離宮の造園を指揮した妙蓮寺の僧・玉淵坊日首(ぎょくえんぼうにっしゅ)の作庭による枯山水庭園「十六羅漢石庭」は観賞式の石庭で、豊臣秀吉より贈られ伏見城から移したとされる「臥牛石(がぎゅうせき)」と釈迦を中心に十六羅漢に見立てた置石が表情豊か、情趣たっぷりに配置されています。
寺宝も豊富で収蔵庫には長谷川等伯一派の筆になる障壁画や、松尾社一切経、重文で本阿弥光悦の筆になる日蓮の「立正安国論写本」など多くの文化財を所蔵しており、特別公開されることもあります。
また墓地には画家の幸野楳嶺(こうのばいれい)の墓や、赤穂義士の遺髪を納めた墓があることでも知られています。
この他に妙蓮寺は花の寺としても有名で、春の「桜」や「つつじ」、晩夏の8月から秋季の10月にかけての「芙蓉」「酔芙蓉」、そして冬季の「妙蓮寺椿」などで知られています。
中でも「御会式桜(おえしきざくら)」は日蓮大聖人が入滅した際に開花したと伝わる珍しい桜で、日蓮聖人が入滅された10月13日に近い10月中旬から咲き始め、半年をかけて釈迦生誕の4月8日頃に満開となる「秋の桜」として有名。
その他にも染井吉野や枝垂桜、八重桜などが咲き、春には数多くの桜で境内が彩られます。