京都市左京区仁王門通川端東入ル大菊町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は聞法山(もんぽうざん)で、「日蓮宗京都二十一箇本山」の一つに数えられている寺院です。
室町時代の1469年(文明元年)に上洛した下総国中山法華経寺の僧・妙国院日祝(にっしゅう 1437-1513)が、檀越の土佐国守護・細川勝益から寺地の寄進を受けて1473年(文明5年)に開山したのがはじまり。
その後は足利将軍家や近衛政家・尚通父子ら公家方をはじめ、京都町衆の外護を受けて大いに発展し、当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通、現在の京都市下京区と中京区に及んだといいます。
その後は移転を繰り返し、
1509年(永正6年)に新町長者町(現・上京区元頂妙寺町)
1523年(大永4年)に高倉中御門(京都御苑内の厳島神社付近)
1536年(天文5年)の「天文法華の乱」では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難
そして1542年(天文11年)に後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受け、同年高倉中御門の旧地に伽藍を再建しています。
1573年(天正元年)、富裕を自認する上京衆の明らかな反信長行動に激怒した織田信長の上京焼討ちにより、鷹司新町(現在の新町長者町)に移転。
更に1579年(天正7年)に安土城にて浄土宗と法華宗(日蓮宗)の僧侶が問答を行った「安土宗論(あづちしゅうろん)」では、頂妙寺から日珖が臨みますが、これに敗れて布教ができなくなり衰退を余儀なくされます。
しかしこれについては信長がかねてから京都や堺の町衆に大きな勢力をもっていた法華宗弾圧を意図していたとも考えられており、「本能寺の変」で信長が討たれ豊臣秀吉の時代になると、再び布教を許されることとなり、仁王門には秀吉から布教を許された際に拝領したという許状の扁額が掲げられています。
その後1583年(天正11年)に秀吉の命により高倉中御門に再度移転した後、江戸初期の1673年(寛文13年)に禁裏に隣接しているという理由で現在地に移転。
現在の堂宇は江戸後期1788年(天明8年)の「天明の大火」による焼失後に再建されたものです。
当寺の一番の見どころである「仁王門」は伝・運慶作の持国天像、多聞天象を配し、京都の東西、西は川端通から、東は白川通との交差点から南東に進み三条通に合流する約1.7kmの「仁王門通」の名前の由来にもなっている門です。
また国宝「風神雷神図屏風」で知られる琳派の絵師・俵屋宗達ゆかりの寺でもあり、境内には宗達のものと言われる墓があるほか、重要文化財である「紙本墨画牛図」(双幅 俵屋宗達筆・烏丸光広賛)を収蔵しています。
ちなみに現在頂妙寺のある一帯は、移転当時は当寺と法林寺(ほうりんじ)という寺院の2院だけがあり、聖護院村と岡崎村の畑地が広がっていたといいます。
しかし江戸中期の1708年(宝永5年)の「宝永の大火」をきっかけに京の町の市街地が拡大されることになり、焼失した禁裏の再建に伴って公家町を拡張するために、御所周辺にあった烏丸東側と丸太町北側の町家が、鴨川の東側や内野(平安京大内裏旧地)などに移転され、鴨川の東には「二条川東(かわひがし)」という新しい地域が築かれました。
東西は東大路通から鴨川横の川端通、南北は三条通から二条通の一帯(新洞学区)がそれに該当し、この頃にできた道は移転前に住んでいた地域の通りの名前に新をつけた「新〇〇通り」として名前を残しています。
また御所南部の寺町以東、河原町以西、二条通以北、広小路通以南にあった25の寺院も移転されることとなり、その結果、頂妙寺の周辺は大小55の寺院が集積する京都でも有数の寺町が形成されています。
そして頂妙寺はその中でも真如院、法輪院、大乗院、善性院、妙雲院、本立院、善立院、真浄院の塔頭8院を有する最大規模の寺院です。
この他の見どころとして境内には本堂前をはじめ数本の銀杏(イチョウ)の木が植えられていて、秋には境内を黄色く染めることで知られています。