京都市中京区寺町通御池下る本能寺前町に位置する、「本能寺の変」であまりにも有名な法華宗本門流の大本山。
寺町通にある「寺町通商店街」の御池通側の入口を入ってすぐ、御池通を挟んで京都市役所の南側という、京都市の中心部に伽藍を構えています。
1415年(応永22年)、日隆が京都の豪商・山本宗句(小袖屋宗句)を教化し、その援助により「本応寺」として創建されたのがはじまり。
そして1433年(永享5年)に足利尊氏の弟・直義の息子である如意王丸の寄進により、寺地を六角大宮に移転し、寺名も現在の「本能寺」と改めました。
ちなみに名前の由来は本応寺が「本門八品相応能弘之寺」、本能寺が「大日本国平城像門再興本迹勝劣本門八品能弘之大霊場」より3文字を抜粋したものだといいます。
その後「応仁の乱」による兵火や1536年(天文5年)の比叡山延暦寺の僧兵による日蓮宗21か寺の襲撃事件「天文法華の乱」による焼失を経て、本能寺8世・日承の代に四条西洞院に大伽藍が中興されます。
この点、本能寺は早くから伝来の地・種子島に布教していたことから、戦国大名との関係も深く、天下統一を目指していた織田信長も日承に帰依し、寺を上洛中の宿所としました。
しかし1582年(天正10年)、明智光秀による有名な「本能寺の変」が発生し、信長の自害とともに堂宇も灰燼に帰します。
1591年(天正19年)、信長の後を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉の都市改造計画の一環で、現在の寺町御池下るへ移転し再建。
その後も1788年(天明8年)の「天明の大火」や、1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う「どんどん焼け」での焼失を経験し、合計4度の移転と、7度の火災による再建と復興を繰り返して現在に至ります。
ちなみに現在の寺名は「能」の文字のつくりを「匕」が2つではなく「去」としていますが、これは何度も火災に遭っていることから「匕(火)」の文字を嫌い、「火が去る」という意味も込めて「去」の字を使っているのだといいます。
現在の本堂は1928年(昭和3年)に再建されたもので、境内には織田信長をはじめ、森蘭丸ら信長の側近達の供養塔や、江戸後期の南画・家浦上玉堂父子の墓などもあります。
1998年(平成10年)に完成した大寶殿(宝物館)には信長ゆかりの品々が展示されているほか、信長の命日にあたる6月2日には「信長公忌」の法要が行われるなど、現在も信長ゆかりの寺院としてその遺徳を偲ぶ多くの参拝者が寺を訪れています。
また塔頭は7つあり、すべて境内の南側に並ぶようにして建っているほか、境内の南東にある「火伏せのイチョウ」は「天明の大火」の際に猛火に追われた人々を救ったと伝えられている由緒ある木です。
周辺情報としては、境内北側に隣接する「ホテル本能寺」は、本能寺に訪れる法華宗信徒のための宿泊施設を発端とし、1つの学校の修学旅行生が全員泊まれる宿泊施設として1962年(昭和37年)より営業を続けています。
そして「本能寺の変」当時に境内のあった旧地には、現在事件があったことを示す石碑が建てられているほか、現在は堀川高校の本能学舎や高齢者福祉施設「本能」があり、更に跡地のすぐ近くにはアミューズメント観光施設「信長茶寮」が2013年にオープンし話題を集めています。
日隆による開創
本能寺の開山・日隆(にちりゅう 1385-1464)は、越中国(富山県)に生まれ、18歳の時に上洛して京都・妙本寺(現在の妙顕寺)4世・日霽(にっせい)に師事。
しかし1410年(応永17年)に日霽の跡を継いだ5世・月明と法華経の解釈をめぐり対立し、伯父にあたる日存・日道と共に綱紀の粛清に務めたが、志を遂げられず妙本寺を退出します。
1415年(応永22年)、日隆が京都の豪商・山本宗句(小袖屋宗句)(やまもとそうく)を教化し、その寄進により油小路高辻と五条坊門の間に「本応寺」を創建。
その後月明に命を狙われたため、1418年(応永25年)に京都を離れ諸国を遊学して研鑽に努め、1420年(応永27年)には尼崎に本興寺を建立しています。
更に1429年(永享元年)に11年ぶりに京都に戻ると、山本宗句の再度の援助により月明によって破却されていた本応寺を千本極楽付近の内野(現在の西陣付近・大内裏跡)にて再建。
更に1433年(永享5年)には如意王丸(にょいおうまる)により、六角大宮に広い土地を寄進され、寺を移転して堂宇を建立し、寺名も「本能寺」と改めました。
ちなみに如意王丸は室町幕府を開いた足利尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)の息子で、日隆の実家・桃井家が直義の部下だった縁からの援助だっだと推測され、その後足利将軍家の援助もあり洛中法華21ヶ寺の一つに数えられるなど、京都でも有数の寺院となりました。
応仁の乱・天文法華の乱による焼失と日承による復興
しかし1467年~1477年(応仁元年~文明9年)の「応仁の乱」による兵火によって伽藍を焼失。
その後法華宗の信仰が浸透していた京都の町衆を中心に再建され再び繁栄を極めますが、今度は1536年(天文5年)に比叡山延暦寺の僧兵が対立した日蓮宗の京都にある21の寺院を襲撃して洛外へ追放した「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」が発生し堂宇はことごとく焼失してしまいます。
一時堺の顕本寺に避難するも1537~1538年(天文16~17年)頃に帰洛。
1545年(天文14年)、伏見宮第5代・邦高親王を父に持つ本能寺8世・日承(にちじょう)の代に四条西洞院(油小路蛸薬師一帯)に広大な寺域を得て大伽藍が復興されました。
本能寺の変
本能寺は早くから伝来の地・種子島に布教していたことから、戦国大名との関係が深かったといい、織田信長も日承に帰依し寺を上洛中の宿所としていました。
しかし1582年(天正10年)に信長の部下・明智光秀による有名な「本能寺の変」が起き、信長の自害とともに30余りの子院を有した大伽藍は灰燼に帰してしまいます。
秀吉による寺町への移転
1591年(天正19年)、豊臣秀吉の都市改造計画により現在の寺町御池下るへ移転し、翌1592年に伽藍が再建されます。
御池通と京都市役所を含む広大な敷地を有したといい、1633年(寛永10年)の「本能寺末寺帳」によれば92の末寺を有する大寺院となっていたといいます。
近世以降
しかし江戸後期の1788年(天明8年)、「天明の大火」により、堂宇はことごとく焼失。
1840年(天保11年)に日恩により再建されますが、幕末の1864年(元治元年)に「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う「元治の大火(げんじのたいか)(どんどん焼け)」により再び焼失を余儀なくされます。
そして現在の本堂は1928年(昭和3年)に再建されたものです。