京都市上京区北野町、学問の神様として有名な北野天満宮のやや南にある日蓮宗の本山で、山号は具足山。本尊は十界曼陀羅
京都の洛中にはかつて日蓮宗の大本山・本山が合わせて21あり「日蓮宗本山二十一ヶ寺」と呼ばれていましたが、1536年(天文5年)の「天文法華の乱」もあって現在は16に減少。
そして京都市内に8つある日蓮宗の本山は総称して「京都八本山」と呼ばれており、立本寺はこの「日蓮宗京都八本山」の一つに数えられている寺院です。
また京都の法華系本山のうち、大本山「妙顕寺(妙顯寺)(みょうけんじ)」・本山「妙覚寺」・本山「立本寺」はいずれも日蓮宗の始祖・日蓮(にちれん)の孫弟子にあたり、日蓮の入滅に際し京都での日蓮宗布教の遺命を受けて尽力した日像(にちぞう)(龍華樹院)により開山された寺院で、三具足山ないし「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。
立本寺の前身は上述の大本山・妙顕寺(みょうけんじ)で、鎌倉後期の1321年(元亨元年)、日像が京都最初の道場・布教拠点として四条櫛笥(しじょうくしげ)(現在の四条大宮付近)に開きました。
しかし急速な日蓮宗の布教を脅威と捉えた比叡山の衆徒・僧兵らによって度々破却され、一時は京都から逃れましたが、その後はまた京都に戻って寺を再興しています。
この過程で妙顕寺は「妙本寺(のちに妙顕寺に復称)」と「本応寺(のちの立本寺)」に分立しており、妙本寺は1387年(嘉慶元年)に破却された後、1393年(明徳4年)に三条坊門堀川(現在の二条城の南東付近)に「妙本寺」として再興された後、1413年(応永20年)、第5世・月明の時に再び破却されると、京都を離れて一時丹波(若狭?)に難を逃れた後、五条大宮に妙本寺として再興された後、「妙顕寺」に復称しています。
一方の本応寺は1416年(応永23年)、第7世・日実(にちじつ)が妙顕寺の旧地・四条櫛笥に寺を再興して「本応寺(ほんおうじ)」と号した後、1427年(応永34年)、「本寺を立てる(妙顕寺のような立派な本寺を立ててみせる)」という意味を込め「立本寺」と改名しています。
その後、室町後期の1536年(天文5年)には有名な「天文法華の乱」が発生。天台宗比叡山の僧兵によって最盛期には二十一ヶ寺の本山があったという日蓮宗寺院は徹底的に破壊され、堺に避難を余儀なくされます。
しかし1542年(天文11年)に後奈良天皇によって法華宗帰洛の綸旨が下されると、法華宗寺院は京都へ戻ることとなり、立本寺も1544年(天文13年)に新町三条にて伽藍が再建されています。
戦国時代の1594年(文禄3年)には、天下人となった豊臣秀吉の命で京極今出川(寺町今出川)に移転。広大な寺域を得て後水尾天皇から「園林堂(客殿)」を賜るなどし繁栄しますが、1708年(宝永5年)の「宝永の大火(ほうえいのたいか)」によって焼失。
その後中興の祖とされる第20世・日審(霊鷲院)の時に北野天満宮にほど近い現在地に移転して伽藍を再建し、現在に至っています。
伽藍は宝永の大火で類焼を免れた祖師堂、開祖廟、鐘楼堂、本堂前井戸屋形、経蔵などは京極今出川の旧地から現在地へ移築され、その他の堂宇も順次再建。
このうち本堂、刹堂(鬼子母神堂)、客殿(園林堂)、鐘楼、および表門(総門)が江戸期を代表する寺院建築として京都市の有形文化財に指定。また本堂の北、客殿の西から南へ広がる枯山水庭園の「龍華庭園(りゅうげていえん)」は京都市の名勝に指定されています。
この他にも本堂の日蓮上人座像には「兜の御影の伝説」、刹堂に祀られる日審上人には「幽霊子育飴の伝説」がそれぞれ伝えられていることでも有名なほか、境内の墓地には江戸初期の豪商で有名な吉野太夫を妻とした灰屋紹益や、石田三成の軍師として知られる戦国武将の島左近の墓があることでも知られています。
桜や椿、蓮、百日紅、紅葉など四季折々の草花が楽しめることでも知られ、とりわけ春の桜は有名で本堂前を中心に美しい花を咲かせ参拝者の目を楽しませてくれます。
また行事としては毎月8日に安産・子育て守護で知られる子安鬼子母神のご開帳が行われるほか、毎年2月の後半には国家安泰を願って法要や100日間の荒行を終えた荒行僧による水行、お火焚きなどを行う「国祷会(こくとうえ)」、毎年4月8日に開催されお釈迦様の誕生日を祝う「花まつり」、そして毎年11月8日の日蓮の命日を偲んで行われる「御会式(おえしき)」などが有名です。