京都市上京区新町通鞍馬口下る下清蔵口町にある日蓮宗寺院で、「日蓮宗京都十六本山」の一つ。
開創は1378年(天授4/永和4年)で、開山は日実、開基は小野妙覚。
「北竜華具足山」と号し、京都日蓮宗名刹三具山の一つとして知られています。
南北朝時代の1378年(天授4/永和4年)、元々は妙顕寺の僧であった日実が、教義や妙顕寺の後継問題をめぐる意見の対立から妙顕寺を離脱し、信徒の豪商・小野妙覚(おのみょうかく)の外護を受けて四条大宮の妙覚の邸宅を寺に改めたのがはじまりと伝わり、実質的な創立者は日実ですが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としているといいます。
その後、1466年(寛正7年)に近隣の本覚寺と合併し寺域を広げた後、1483年(文明15年)には足利義尚の命により、二条衣棚(京都市中京区)に移転。
更に1536年(天文5年)には有名な「天文法華の乱」にて比叡山衆徒の焼き討ちに遭い伽藍を焼失し、一時の堺(大阪府堺市)に避難しますが、1542年(天文11年)に後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受けて京に戻ると、1548年(天文17年)に二条衣棚の旧地に再建されています。
戦国時代には、本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催されていたといい、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の際には、織田信長の嫡男・織田信忠が妙覚寺を宿舎とし、明智光秀の謀反を知った信忠が明智勢を討つべく寺を出て二条御所へ向かうも、果たせずに自害するという事件が勃発。
この際に焼失などの被害が遭ったかどうかの記録は残されていないといいますが、その後1583年(天正11年)に羽柴秀吉の命により寺之内に移転され現在に至っています。
1595年(文禄4年)、妙覚寺21世の日奥は不受不施の立場から、秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒んで秀吉に「法華宗諌状」を提出。
また江戸初期には日奥が江戸幕府の弾圧にも屈せず「不受不施」の宗義を説き、「受不施」派の身延山と対立し、1630年(寛永7年)の身池対論(しんちたいろん)まで不受不施派の拠点となったことで有名です。
京都布教を成し遂げた日像が京都に創建した妙顕寺の流れを汲む妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれて地方に末寺も多く、また絵師の狩野家、彫金の後藤家、製陶の楽(らく)家などの有力町衆の信徒を獲得したことから寺勢は強大となり、寺地は洛中では東寺や相国寺、そして妙顕寺に継ぐ広さを誇ったといいます。
伽藍は江戸中期の1788年(天明8年)の「天明の大火」により焼失しており、現在のものはその後再建されたものですが、「大門」は、豊臣秀吉が1590年(天正18年)に建設した「聚楽第」の裏門であったものを、1663年(寛文3年)に移建したものと伝わり、西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)や、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構として知られています。
また庭園の「法姿園(ほうしえん)」は前庭、中庭、奥庭の3つの庭園で構成されており、とりわけ唐門と白壁に囲まれた本堂から眺める前庭は苔と楓のコントラストが美しく、秋は隠れた紅葉の名所として知られています。
この他にも春は隠れた桜の名所で、門前には枝垂桜と八重桜があるほか、境内を奥へと進んだ先にある塔頭「善明院」には山門の向こうに実に美しく見事な紅枝垂桜が姿を現します。